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数日後。
「先生、彼はどうなったんですか?」
「自主退学して、転校していったよ」
「でも良かったんですか? 潜在能力だけは高いって聞きましたけど?」
「ああ。確かにあいつの基礎魔力量、魔力出力量は並外れたものがある。実際、中学一年の時に新記録も作っているようだしな。だがそれより大事なのは……いや」
「自分自身ですか?」
「よくわかっているじゃないか。事故の件に、推薦した生徒が全く使えない件、奴が自主退学したことによって、少しは俺に対する批判が軽くなるだろう。いいか。世の中って言うのは、そう上手くいくもんじゃない。だからな、こうやって器用に生きて行かないといけないんだ」
「なるほど、参考になります」
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「鴨居さん、初日の学校はどうでした?」
丸メガネに寝ぐせが一本立っている、いかにも優しく、生徒に甘そうな内藤先生は、何やら書類を整理している。この学校【堀上高等学校】の職員室は随分と小さい。他にも先生がいるが、どの先生もゆとりがあり、落ち着いている雰囲気だ。蘇我東高校の職員室は、殺伐としていたので、職員室に足を踏み入れづらかったが、ここだったら、気軽に入っていけそうだ。実際、隼人以外にも、数人の生徒が職員室で先生と楽しそうに話している。
「はい、それなりに慣れることができました」
制服がブレザーから学ランに変わり、少し田舎臭くなったのは気になるが、それもすぐに慣れるだろう。
内藤先生は、「それはよかったですね」と作業をしながら言う。
「そういえば、部活は入る予定ですか? 前の学校ではスカイング部だったんですよね? 一応、この学校にもあるらしいですけど……」
「いえ、部活は何も考えてません」
即答する隼人。先生は封筒を隼人に渡した。
「これお母さんかお父さんに渡してください。大事な書類です」
「わかりました」
「まあ、この学校は、蘇我東高校と比べたら、小さいけど、ゆとりのあるいい学校ですからね。もし、他の部活とかに興味があったら、言って下さい」
「ありがとうございます。では、失礼します」
前の学校で何があったのか、なぜ転校してきたのか。先生は知っているのだろうか。隼人にとっては先生の暖かさは、胸を締めつけられるように痛かった。
隼人は職員室を出た。
リュックを床に置くと、チャックを開け、貰った封筒を折れないよう慎重にしまった。ふと、廊下の窓から外を眺めた。職員室は三階にあるので景色は悪くない。一周二百メートルの土のトラック、芝生を挟んでその奥には、白い砂利が敷き詰められているサッカー場がある。その横には野球場とテニスコートが並んでいる。葉が枯れ落ち、骨だけになった杉が学校を取り囲んでいる。その先には一面、耕された黒とも茶色とも見て取れる田んぼがどこまでも続いている。蘇我東高校は海だけでなく、都市部からも近かく、周辺の道路も交通量が多かった。それに比べ、この学校は随分と静かだ。
自主退学の後、実家の近くにある堀上高等学校に転校してきた。一年とはいえ、それなりに長らくこの牧歌的な町の空気に触れていなかったので、戻ってきた当初は地元なのに新鮮さを感じたが、三日もすれば消えてしまった。
リュックを背負い、一階の昇降口へ向かう。
上の階から、吹奏楽器の音が聞こえてきた。初めはフルートが響いている。すぐに、他の楽器の音が、全く別の音程とタイミングが割り込んできた。割り込みの数はどんどん増えて行き、まるでゲームセンターのように、多種多様な音が混ざりあっている。しかし、流石楽器と言える。混沌としているのに、全く不快感がないから不思議だ。
窓の外でも、チラホラ生徒が見え始めた。
それを横目にズンズンと廊下を進み階段へ向かった。
「危ないッ!」
後方から、明らかに吹奏楽部の練習とは異なる音が聞こえてきた。
誰か運んでいた物でも落としたのだろうか。もしくは、廊下を走っていた哀れな生徒が、誰かとぶつかったのだろうか。いずれにせよ、隼人は後方で起きている出来事に興味が一切なかった。
そんな小さなことを気にして振り返ったところで、自分の愚かな過去は何も変わらない。
「そこの君だよッ!」
女の子の声が先ほどの何倍も大きくなった。随分と騒がしい。
だが自分は関係ない。
「君だよッ! そこの俯いて歩いてる冴えなさそうな君ッ!」
「え? 俺?」
隼人は思わず振り向いた。
そのときだった———
フライヤーに乗った女の子が、猛烈なスピードで隼人目掛けて突進してきた。隼人は口を開けて唖然とした。そう、まるで原付バイクで校舎内を暴走しているのを見かけたときのように。彼女は減速している様子はなく、そのままのスピードで廊下の真ん中を飛んでいる。
あまりにも危険で、ありえない出来事に、頭の中が真っ白になり、反応が遅れてしまった。
「危なあ———いッ‼」と叫ぶ女子生徒。
隼人は反射的にステップで廊下の端っこへと退避した。
若干、鼻の頭を何かが擦ったような気配を感じたが、フライヤーの女の子は風を立てながら目の前を通過した。無事、追突を裂けることができた。隼人はすぐに彼女の背中を目で追った。女子生徒はまだまだ減速する様子はない。
よくこんな狭い廊下でスピードを出せる。人と衝突したら、軽い怪我では済まないだろう。よっぽどスカイングの技術に自信があるのだろう。と、隼人は思い込もうとしたが、
「止まらないッ!」
という悲鳴を聞いて、やっぱり上手く乗れないから、暴走してたんだな。と隼人は悲しい現実を知ることになる。
彼女の行く先に目をやった。廊下の先には窓がある。胸くらいの高さのところにあり、ギリギリ、フライヤーに乗ったまま通過できる程の広さだ。
さらに運が良いことに、窓が全開になっていた。そのまま外に出てしまえば、あとは着陸するだけだ。隼人は「なんだ大丈夫か」と再び胸を降しそうになった。
「落ちちゃううッ‼」
「ですよねッ!」
二回目の悲鳴を聞き、もし彼女が窓の外に出たら、もっと酷いことが起きてしまうのだろうと察知した隼人は、すぐに窓の方へ走り出していた。
女子生徒はコントロール不能のまま、窓へ迫った。ここは三階。落ちたらただでは済まない。打ちどころが悪ければ天国へ行ってしまう可能性も十分にある。地面からの距離を見て彼女もそれを理解したのだろう。女子生徒は窓を通り過ぎる瞬間にフライヤーを捨て、校舎に飛び移ろうとした。上手く窓の縁を掴むことには成功したが、慣性の力に逆らえず、窓の縁をしがみついたまま、窓の外に放り出されてしまった。重力に従って落ちていく、彼女は手をできる限り伸ばし、なんとか窓の桟を掴むことができた。
だが、すぐに、その手が離れてしまった。
落ちるッ———
女子生徒は空中で静止した。
「大丈夫?」
隼人は手が離れないよう、両手でがっしりと女子生徒の腕を浮かんだ。
「あはははッ! いやあ危なかった、危なかった! 助けてくれてありがとうございます!」
「いやいや、まだ助かってないよ!」
彼女は依然、校舎の外にぶら下がっている状態で、隼人が手を放したら、すぐにでも落ちてしまう。隼人は引き上げようとするも、重くてなかなか上がらない。腕が細く華奢な体型をしていたとしても、人間を引き上げるのは相当大変であることを、隼人は初めて知った。
一方で、女子生徒は何も身動きを取ろうともせずにじっとしている。
隼人の手は服で滑ってしまい、少しずつ、掴んでいる位置がずるずると落ちてしまっている。握力も限界に近づいて生きている。
「何してるのッ! 持ち上がらないよ!」
「えッ? 持ち上がらないんですか? ここは普通、男の力というのを見せて、私を惚れさせるベストなタイミングでは?」
「意味が分からんッ! 早くその空いた右手で何か掴んで!」
彼女は残念そうな表情で、「わかりました」と隼人の腕に掴まった。確かに『何か』には捕まったが、彼女一人分の体重を持ち上げることができないので、現状は何も変わらない。
次第に、踏ん張りも限界に近づいてきた。
「やばい、限界かも。だ、誰か来てくれないと……」
二人そろって三階から落ちてしまう。
ずるずると重力に引っ張られていく二人。
学ランのボタンが、窓の桟に引っかかり、力を分散してくれた。
「今だッ! 早く上がって」
だが、彼女は上がろうとする動作を見せなかった。
「いやそれが、実は右手怪我しちゃったみたいで、痛くて動かせないんです。あ、でも大丈夫ですよ」
「なんで大丈夫なの?」
「なんとなく?」
「なんとなく⁉ 落ちたら死んじゃうよッ!」
「大丈夫、きっと天国はいいところですよ!」
「それ大丈夫じゃない!」
ブチっと学ランのボタンが外れる音がした。アンカーが外れ、隼人は体の半分が窓の外へ出てしまう。
「お、落ちる」
力が限界に来ていた。
ふと、女子生徒の後ろに広がる景色が目に映った。アスファルト。冬の寒さのせいか、いつもより何倍も硬そうだ。
———いっそ、落ちて死んだ方が楽になるんじゃない?
心の中から、嫌な声が聞こえてきた。
俺は全てを失ったんだ。抱いていた思いを。好きな人、そして夢。そりゃあ、悲しむ人はいるさ。でも、死んでしまえば、失った苦しみから解放されるんじゃない?
ならいいのかもしれない。死ぬのも。悪くない。
隼人の体は徐々に引っ張られていく。
すぐに落ちてしまうだろう、そのときだった。
強い力で背中を引っ張られた。
まるで一本釣りのように、隼人と女子生徒は建物の中へ引っ張り上げられた。
床に背中を打ち、さらに上から女子生徒がお腹にヒップドロップした。あまりの痛さに隼人は悶絶し、外側からの衝撃で体内の空気が押し出され、咳を誘発した。
「ありがとうございます、助かりましたよ」
咳をしている隼人を覗き込んだ。
隼人は苦しそうにしながらも、「いや、大丈夫、無事でよかったよ」と返事をした。
「いやあ、危なかったね。でもサムすごく楽しそうだったけどッ!」
知らない女の子の声がした。きっとこの子が助けてくれたのだろう。
「楽しくないですよ。てか……アレッタが加減を知らないから、こんな大変なことになったんですよ」とサム。
「え? そうなの?」
二人の会話をよそに、隼人はゆっくり起き上がった。
それに気がついた二人は隼人の方を向くと、
「私は【坂本麦穂】です。略して【サム】と呼ばれてます。改めて、助けていただきありがとうございます」
「あ、どうも」
女子なのにサムって、なんか違和感あるな。と隼人は思ったが、変にツッコむと失礼になりかねないので控えた。
「で、私とあなたを助けてくれたと見せかけて、実は私達を死の直前まで追いやった真犯人が、【アレッタ】です。因みにこれは本名です」
確かに、アレッタは金髪で色白だ。同じアジア人には到底見えない。しかし、ほとんどの白人は年より老けた顔———もしくは成熟した顔の方が良い表現かもしれない―――に見えるが、彼女の顔はどこか幼さを持っている。
「よろしくね!」
「よろしく、えっと、ハーフ?」
「あったりッ! お父さんがアメリカ人! 因みにお父さんの祖先はスカンディナヴィアからアメリカに移ったんだって。因みに自慢だけど英語は一切喋れないよ! ハハハッ!」
「それ、自慢になるの?」
「ホントですね。とにかくうちのアレッタが失礼しました」
サムは笑っているアレッタの頭を持って一緒にお辞儀した。
「暴走してたのは……」
「はい、彼女のせいです! 一切私のせいではありません!」
「いやあ、ちょっと力みすぎちゃったかな」
えへへとアレッタは笑った。
「ちょっとじゃないですよ。あれは。危うく、彼をひき殺しそうになったんですから」
サムはアレッタと向き合うと両方の頬っぺたを軽くつねった。
「イタッ! やったな!」
二人はなぜか頬っぺたのつねりあいを始めた。
「まあ、とにかく、何事もなかったんだし。一件落着ということで」
隼人は立ち上がると、学ランのボタンが何個か取れてしまっていたことに気がついた。腕も少しすりむいているようだ。ボタンは床に転がっていた。拾おうとすると、サムが先にそれらを拾った。
「そうですね。このボタンは、私が直しておきますね」
「いや、いいよ。学ラン、これしかないし」
「そうですか。じゃあ、また今度お礼します」
「よかったね何事もなく一見落着で」とアレッタは自分の頬っぺたをいじっている。
「本当に落着したと思うのか?」と知らない男の人の声。
「今、なんて?」
女子二人は隼人を見た。
「いや、俺は何も言ってないよ?」
「本当に一件落着か?」
もう一度、声がした。まるで、噴火前の火山。噴火前の地鳴りの振動で喋っているかのような、低く、不気味な声。
何かを察したアレッタは
「いや、またまた! 君は腹話術が上手なんだね!」と隼人をつっついた。
「いや、この声、君たちの背後から聞こえるよね?」
隼人は冷や汗をかきながら二人に後ろを向くように促す。
「いやいや、後ろから声が聞こえるように錯覚させる腹話術とは、まさか、芸能の天才か? よッ! 天才!」
「そんなわけないでしょ……」
「アレッタ、坂本、そして見ない顔だな。転校生か?」
女子二人は、ゆっくりと後ろを振り向いた。
そこには、鬼のように顔をしわくちゃにし、顔を真っ赤にしている噴火寸前の男の先生がいた。
「げッ、鬼瓦権三郎先生……」
次の瞬間、
「こりゃああああああッ! 校舎内でフライヤーに乗るとはどういうことだああああああッ! 今すぐに三人とも職員室にこいッ!」
と剣幕があがった。
「え、俺もですか?」
「そうだッ! お前もだ転校生ッ!」