とある子爵家の結婚騒動顛末記
中世ぐらいの価値観なので、女性の扱いや女性自身の価値観が現代に比べて「ちょっとあれだな」と感じるかもしれません。
01.
まず、客観的な事実から説明しよう。
とある王国の南側に位置する場所に領地を持つ、どこにでもあるような平凡な子爵家があった。名産は小麦。と言うか、そのあたりは穀倉地帯だったので、基本的に周囲はみんな名産品は小麦だった。
先祖がその土地の開墾の祖であったため、土地の広さだけはある領地を治める子爵家の家族は子爵当主とその妻、そして王都で騎士を務める長男と、現在学生である長女の四人家族だ。学生である長女は王都の学園にある寮に住まい、長男は王宮の騎士団の寮に住んでいて、お互い顔を見合わせるのは社交シーズンに両親が王都にやってくるときだけ。そんな、ありきたりな家族だった。
そんなありきたりの家族を小さな騒動が襲った。きっかけは長男が末席とは言え王族の警護担当に抜擢されたことだ。
その王族は離宮に住まう現国王の末の妹姫だった。離宮とは言っても一つの建物ではなく、いくつもの建物群がならぶ――早い話が一つの小さめの町程度の規模があり、そこには王族に名を連ねる人々が暮らしていた。その末姫も公爵家に嫁いでおり、その時は里帰り出産として離宮に戻っていたのだ。
そして生まれた赤子の警備に抜擢されたのが、当時騎士団の中隊長であった長男だ。なお、子爵家出身としては中隊長がいわば出世の頭打ちの地位ではあったが、まだ二十代前半と言う若さでその地位についたのは、実力もあっての大躍進であった。
上司の覚えもめでたく、彼ならば信頼できるとの推薦であったという。
実際長男は誠実に務めあげ、末姫の家族にもすっかり信頼されたのである。これには推薦した上司も恵比須顔で祝杯を挙げたという。
だがそれが、子爵家を襲った小さな嵐の始まりであった。末姫の話を聞いた国王は、そんなに優秀な男ならばと、配下の一人に娘を嫁がせないかと声をかけた。
男は子爵家故王族を嫁がせるわけにはいかない。だが上位貴族ならば複数の爵位を持っていることもある。伯爵あたりを持っている家の娘でも嫁がせ、息子の代で伯爵を継承できればいいだろう。そうすればめでたく上位貴族の仲間入りだ。そんな考えだった。
それでしたらと、手をあげたのは侯爵の一人であった。彼には娘が数人おり、そのうちの一人が長男と年回りがいい。王家に恩の一つでも売っておくか。そんな考えで手を上げたのである。
そうして、王家からの見合いと言う名の強制的な嫁の斡旋に、長男は驚いたものの王家の好意を無下にできるわけもなく。喜んでお受けいたしますと、受け入れたのである。
さて、兄に突然の婚約者が出来た後、学園に通う長女にも変化が起きた。こちらも婚約者が出来たのである。地位は何と伯爵家の長男。長男の婚約者となった侯爵家の寄り子の一つにあたり、王族の覚えがめでたい長男と、そして寄り親の公爵家とのパイプを持ちたいという思惑故の婚約だった。
貴族の婚約と言うのは大体自身の家と同じが、上下ひとつづつの地位で行うことが多く、子爵家の長女が伯爵家の長男と婚約することはそうおかしなことではない。ゆえにこの婚約も特に問題なく整った。
お互い学園に通う学生同士であったため、長女は週に一度ほど、学園の共有部分にて婚約者と交流を深めることとなった。なお、学園は子爵、男爵、および平民が学ぶ校舎と、伯爵以上の上位貴族が学ぶ校舎および寮は完全に物理的にも分かれていたゆえの措置である。
そうして、二組の婚約者たちはお互いに交流を持ち、距離を縮めていくことになった。長男の方はその人柄の良さが侯爵やその家族にも認められ、最初は打算ありきではあったが、侯爵に彼が自分の息子になるのが楽しみだとまで言われていたのだ。
しかしながら、長男は侯爵家の一員にはならなかった。
なぜなら、彼の婚約者であった女性が長男以外の男性の子供を身ごもったからである。当然、父親である侯爵は激怒した。相手の男の身分ゆえに子を産むことは許されたが、生まれた子は相手貴族の養子となり、女性は侯爵家から除籍され、平民として修道院へと出家となった。
王族――それも国王が薦める婚約に泥を塗ったのだから、当然だろう。むしろ、父親が率先して激怒し、容赦のない対応をしたからこそ彼女の命は助かったのである。
娘のしでかしたことに侯爵はどうすればいいかと頭を抱えた。侯爵には他にも娘がいるが、さすがにすぐに挿げ替えるというのも外聞が悪い。国王も国王で、自分が薦めたばかりにと悩んだ。そもそも、末の妹の子供を守っている相手への褒美のつもりだったのだから仕方がない。ならばと、「詫びに誰か添い遂げたいものがいれば、それがどのような身分でも認める」と告げたところ、「実は」と告げられた内容に、国王と侯爵は顔を見合わせ改めて長男に詫びを告げた。
と言うのも、長男は学園時代から懇意にしている女性がいたのである。ただ相手は上位貴族の一人娘で、子爵家長男でしかない男には高嶺の花だった。
それでもお互い惹かれあい、長男が中隊長に出世し、王族の警護に抜擢されたことを受けて、女性の父親に会いに行く話が出ていたのだという。
そんな相手がいたというのに、きちんと確かめずに横車を押した形になった国王は、事実を知った王妃にこっぴどくたしなめられ、ひどく体を小さくしたと言うが余談である。
侯爵についても、先に知っていれば娘が間違いを起こさなかったのではと思いはしたが、国王や自分のような上位貴族に薦められれば、下位貴族でしかない子爵家長男にとっては決定事項でしかないということも理解していた。
実際、婚約中に長男の周囲に女の影はなく、誠実に娘や自分たちと向かい合ってくれたことは事実なのだ。それを台無しにしたのが己の娘であり、せめてきちんと話し合っていればと、短絡的な行動に出た娘に落胆を感じずにはいられなかった。
そして長男は当初の予定通り、いやむしろ王家と侯爵家のお墨付きをもらい、相手女性に改めてプロポーズを行った。相手女性も婿も取らず、彼女の父親はもう遠縁から養子を貰うしかないと思っていたところでのこの事態。
喜びの涙を流す娘になるほどと納得し、子爵家長男を婿に迎えることを了承した。もちろん、王家と侯爵家に対する義理や打算がなかったわけではないが、ここしばらく沈んでいた娘の顔に笑顔が戻ったというのが大きな理由でもあった。
さて、長男が婿に行くことが決まったため、長女の方にももちろん影響があった。まず、伯爵家との婚約関係は解消されたのである。
彼女の婚約者は伯爵家の長男であったため、子爵家を継ぐために婿を取る彼女にはいささか不釣り合いだったのだ。伯爵家としても寄り親とのパイプがそこまで望めなくなった子爵家との婚約解消にはさほど難を見せず、お互い円満解消となった。
長女は全く会話が続かない、合わない相手との婚約がなくなってほっとしたと、自身の婚約で妹を振り回してしまったと悔やむ長男に笑って告げたという。
では改めて彼女の婚約者はどうしようかと言う話になった。この国では貴族の少子化が進み、女性でも爵位を継承することはあるが、それでも多くはない。まだまだ男性優位の国だ。
ゆえに、彼女が女子爵として立つならば、夫は彼女を支えられるような、もっと言うならば、背後に立って威嚇できるような相手がいいだろうと、そう言って長男が紹介したのは、騎士団の後輩だった。
王国の北方出身だというその青年は見上げるほどの大きな体格をしている。黒髪に、オレンジかかった赤い瞳をしていたが、その瞳は一つしかなかった。遠征中に失ったという左目の部分には眼帯をしていたのだ。
上位貴族の上司を守ったせいでその左目を失ったという話で、その功績で一代限りの騎士侯を叙爵されたという。ただこのまま騎士を続けるには一つ目では危ないだろうということもあり、後方支援に回っていたという経歴の持ち主であった。
この国の一代限りの騎士侯はほぼ男爵と同じ扱いであるため、子爵家の婿としては問題ない。加えて長女とも話が合った。これならばと、とんとん拍子で話は進み、最初に長男が、続いて長女が学園の卒業を待って婚姻すると、長女は己の領地に夫となった男を連れて戻ったのである。
とある子爵家――タラッタ家のある時代の婿取りの話である。
02.
うららかな日差しが降り注ぐ下町の喫茶店。カフェテリアというほどお洒落ではないけれど、どこかほっとするような内装の一角で、男が一人丸いテーブルに顔を突っ伏していた。
そしてそれを見守る女性が二人。一人は苦笑いを、もう一人はやや冷淡な表情で男の旋毛を見下ろしている。
「まぁ、しょうがないっていうか、なんていうか、兄さんもついてない」
「ううううううう~~」
「仕方ないよ、アベル」
「ううううううう~~」
女性に交互に言われながらも男――アベルは呻くしかない。
女性の一人、アベルの妹であるカリーナは、兄の恋人――近々婚約者になるのではないだろうかと期待していた女性、レイラとともに兄に呼び出され、この店にやってきたのである。
そして告げられたのは、国王の肝いりで侯爵家の娘と婚約することになったという、相談でもなく決定事項だったのである。
「……は?」
思わず、と言うようにカリーナの口から貴族令嬢らしくない呟きが漏れる。もっともカリーナの実家であるタラッタ子爵家は貴族と言えどもほぼやっていることは農家なので多少の口の悪さは勘弁してもらいたい。
平民の小作人に混ざって麦の収穫をしたり、幼馴染みともいえる男爵家の長男に「嫁の貰い手がなかったら俺が貰ってやるぜー!」とか言われてしまうような家なのである。なお、幼馴染みの申し出は丁寧にお断りしたし、申し出た本人は父親である男爵に鉄拳制裁を喰らっていた。
さすがのカリーナも幼馴染みとは言え、いやだからこそ幼いころから「ブス」だの「地味な黒い髪」だの「本ばっかり読んでる根暗」「アライグマ顔」など言ってくる相手は願い下げだ。ちなみにカリーナは母親譲りで兄とお揃いの黒髪が大好きであったので、それを貶める野郎は絶対に許さないと決めている。
なお、よくある「カリーナのことが好きだからそんな憎まれ口をたたくのよ」などと言うような世迷言を彼女の両親は言わなかった。
ただ、兄は「カリーナはアライグマじゃなくてタヌキに似てる。ほっぺたのむちっとしたところがかわいい」と、図鑑でしか見たことがない東方の動物を例に出してきたので、三日間口を利いてやらなかった。三日で済ませたのは、自分でもちょっと似てるな。と思ったからだ。
それはともかく、惚れた相手に対する愛情表現は惜しむな。が、家訓のタラッタ家では、惚れた相手へのツン行為は論外だったのである。カリーナもたとえそう言われたとしても「だから何?」とばっさり切り捨てていただろう。
そしてそんな家に育った兄も、そりゃもうカリーナの隣に座る女性への愛情表現は惜しまず、見事彼女の気持ちを射止めたのである。
そして上位貴族である彼女の父親に認められるための努力も惜しまなかった。
その結果が、王族の警護主任への抜擢であったのだ。まさかそのせいで王家から婚約の打診が来るなんて、誰も思わなかったのである。
「兄さん、どーやっても回避できない? いっそレイラ様のことを言うとか」
「無理、全部決まった状態で話が来てる」
婚約する相手がまだ決まっていないのならばなんとかなったが、全部決まった状態で話が持ってこられた以上、アベルにできるのは「喜んでお受けいたします」と言う返事だけだ。
上位貴族の令嬢であるレイラも、いや、おそらく兄妹以上にそのあたりは理解しているため、沈んだ表情で「仕方ないよね」と言うしかないのである。
「言っておくけどカリーナ。キミものんびりしてられないよ?」
「へ?」
「そうだった。たぶんだけど、お前のところにも婚約の打診が来るはずだ」
「なんで?」
キョトン。と首をかしげるカリーナに、二人はため息をついた。もちろんカリーナも貴族に生まれた以上、政略結婚の可能性は理解している。だが、兄の婚約と何か関係があるのだろうか。
「俺が国王の肝いりで侯爵家から嫁を貰うとなると、うちは王家と侯爵家にパイプを持つことになる」
「そのパイプを目当てにキミと婚約したいっていう家はいくらでもあるよ」
「うへぇ」
心底、心の底からいやだなぁ。と言う気持ちが声に出た。理解はしていても実際にこうもあからさまな駆け引きが見えれば話は別だ。
そんな正直な義理の妹になるかもしれなかった少女にしょうがないなぁと、レイラは苦笑いを浮かべる。
「予想できる候補と、その中でもよさそうな家をリストにして後で届けるね」
「いや、そこまでしてもらうには」
悪い。と言うカリーナの言葉はレイラの表情によって押しとどめられた。少しでもカリーナを通してアベルと関わっていたい。そんな彼女の諦めきれない心情が理解できてしまったのだ。
実際、彼女がくれたリストはカリーナにとっては非常に助かった。なにしろ子爵家である彼女にとっては上位貴族の情報はなかなか手に入らないものだったからだ。
そうしてリストと申し入れがあった家の中からマシであろう相手を選んだのである。一つ上の学園の先輩であったのは、交流する時間が多い方が、お互いを知り合えるだろうと思ったからでもあった。
実際に週一回の茶会は相手の人となりを知ることには十分役にたった。
ただそれは、彼女にとっては苦痛を伴う時間になったのは、完全に想定外である。
彼女が婚約者にと選んだのは、伯爵家の長男だった。中央貴族の一つで、長男が学園の成績も上位に名を連ねる秀才として名が知られている。カリーナは兄がレイラの家に婿入りするという計画で、彼女が婿を取る方向で家族とも合意が採れていたこともあり、領地経営の勉強をきちんと治めていた。
加えて下位貴族たちの方ではあるが――そもそも上位貴族とは科目自体が違うことも多い――上位に名を連ねていた。むしろいくつかの科目ではトップですらあった。
それを知るレイラも、話が合うだろうとおすすめの一人に挙げていたのである。
「女性であるあなたには興味がないでしょうが」
「子爵家のあなたには関係ないでしょうが」
しかしながら、伯爵家長男の会話は万事が万事、この始まりであった。早い話が彼は女性であり、子爵家であるカリーナを完全に下に見ていたのである。
多少は覚悟していたとはいえ、すべてがこれと言うのもなかなか苦痛である。
加えて中央貴族である彼と、土地に根差した地方貴族であるカリーナとでは価値観も大きく異なった。カリーナもそれはもちろん理解していたし、嫁入りするからには相手の価値観を受け入れる覚悟はしていた。それでも、苦痛であることに変わりはない。
半年間に及ぶ彼女の一方的な忍耐力だけが試される婚約期間は、兄の婚約解消により、あっさりと終った。
「あなたとは縁がなかったようです」
「えぇ本当に。二度とお会いすることはないかもしれませんが、どうぞお元気で」
最後の茶会にて、もったいぶるように告げた伯爵家長男に、カリーナはそれはそれは見事に笑顔だけでそう言うと、穏やかに茶会を終える。
今まで見たこともないような晴れやかな笑みに、惜しまれるだろうと自認していた伯爵家長男が唖然とした間抜けな顔をしばらく晒していた。
男から見て、定期的に行われていた茶会ではそれなりに和やかにお互いの距離を縮められていたし、友好的な関係を築いていたと思っていたのだ。
地位だって令嬢より上位の伯爵である。家の事情で結ばれた婚約で、再び家の事情で解消されたとはいえ、令嬢にとっては自分は惜しまれる存在だろうと信じて疑っていなかったのだ。
しかしながら、そんな男の自尊心をささやかながら傷つけていたことなど、軽やかに立ち去った彼女は知る由もない。彼女にとっては男と過ごす時間は苦痛でしかなく、負け惜しみでも何でもなく、この男と縁が切れたことが嬉しかったのである。
しかしながら、彼女の婿取りの問題は残る。学園にいる間に婿となる相手を探すはずだったのだが、一連の騒動で男と婚約している間に、めぼしい男は大体婿入り先が決まっている。
あとは箸にも棒にも引っかからないような貴族の三男、四男か、野心の強い平民ばかりだ。カリーナとしてはタラッタ家の婿となるならば、一緒に農作業を楽々こなせるような男でなくては困る。青白い肌の末成りの瓢箪のような貴族子息ではだめなのだ。
「あとキミは夢中になると周りが見えなくなって暴走するから、一緒に走ってくれて、場合によってはきっちり止めてくれる人ね」
「あと、頭の回転の速いやつな」
「あー」
この度めでたく婚約関係になったアベルとレイラがカリーナの婿取りについてそう話し合う。そんな二人にカリーナは呻くような、それでいて肯定を含んだ声を上げた。
たしかに、出来れば自分と同じような思考速度の相手が望ましい。ただ頭がいいというよりも、記憶力がいいだけではだめなのだ。そういう意味では、かつての婚約者は完全にだめだった。学業の成績はいいだろうが、彼の思考、思想には広がりがない。
付き合いが広いようで狭い中央貴族の伯爵家当主ならばそれでいいのかもしれないが、商人や小作人、時には他の地域の貴族とも丁々発止のやり取りをすることもあるタラッタ家の婿としては役に立たない。
何より自然相手では型にはまらない、うまくいかないことの方が多い。何もかも頭から決めてかかり、そこから逸脱できない彼では、たとえ長男でなかったとしても婚約を解消していただろう。
かと言って、このまま婚約者が見つからずにいると変な横やりが来そうで困る。そう思って頭を抱えるカリーナに、兄が「それを踏まえて、紹介したい奴が一人いるんだ」と告げたのである。
「兄さんが?」
「あぁ」
「まぁ、悪い人ではない。かな」
どうやらレイラも知っている相手らしい。まずは会ってみてくれ。と言うので了承する。学園は半年後に卒業式を控えており、最終学年のカリーナはほとんど授業らしい授業はなかったので、時間は働いているらしい相手に会わせることになった。
「ラインハルトだ」
「あ、と、アベルの妹で、カリーナ・タラッタと申します」
そうして引き合わされた男は、カリーナよりも優に60センチは背が高かった。横幅もカリーナ二人半ぐらいはあるだろうか。腕や足は丸太のように太く、胸板の厚さは服の上からもはっきりとわかる。まさに屈強な騎士そのものであった。
だが、左目を眼帯で隠しているせいで一つしかない右目には理知的な光が宿り、戸惑いながらも同僚の妹を怖がらせないようにしようとする気遣いが見えた。
年はカリーナよりも七つ年上。貴族の婚姻ではさほど珍しくはない年の差だ。少なくとも初対面の際、下位貴族との婚約に乗り気ではないが親に言われたので仕方なく。と言う態度をはっきり見せていたかつての婚約者よりもよほど好印象であった。
「ラインハルト様は」
「ラインハルトでいい。上司を助けた功績で騎士侯に叙爵されたが、もとは平民だ。貴族令嬢に様付けされる身分じゃねぇ」
男、ラインハルトはぶっきらぼうにそう言う。どっしりとした深みのある低い声だった。カリーナは目を細めると「ラインハルト」と小さく呟く。
「なんだ?」
「いいえ。改めましてラインハルト。婚約の件、どうぞよろしくお願いしますわ」
そう言って会釈をしたカリーナに、ラインハルトは一つしかない瞳を動揺で揺らした。少しばかり唇をわななかせる様子は、言葉を探しているようにも見える。
しばらくの沈黙の後、男が絞り出したのは戸惑いが見て取れるような声であった。
「……まってくれ」
「はい?」
「俺はアベルから、あんたの婚約者が決まるまでの虫よけを頼まれただけだ」
「まぁ。私は兄から婚約者候補として紹介されましたわ」
カリーナの言葉に、「やられた」と言うような顔をラインハルトはした。
その様子に、どうやら相手は乗り気ではなかったようだとカリーナはあたりをつける。その事を少しだけ残念に思ったが、カリーナはそれでめげるような性格ではない。
「私の何がご不満でしょうか」
「いや、俺は平民だし」
「今は騎士侯ですわ。子爵家である当家との婚姻に問題はありません」
「年だって、七つも離れてる」
「貴族では大した年の差ではありませんわ」
「顔だって、割と強面だし、目だって」
「名誉の負傷だとお聞きしておりますわ、それに綺麗なだけな顔は見飽きるのも早いそうです」
悪あがきのようなラインハルトの言葉を、カリーナは端から切って捨てていく。むしろそんな相手に対して好感度はますます上がるぐらいだ。
なんたって、学園にはその手の話は飽きるほど、そして腐るほどある。
第三者から見て、うらやむほどの家柄も容姿も、学力すらもそろっているのに、それが気に喰わないと、愛嬌だけの平民に現を抜かす上位貴族の男のなんと多い事か。
まぁそれだけならば一時の気の迷いと、所詮遊びと割り切れる話でもある。――巻き込まれる平民の少女や下位貴族の令嬢はたまったものではないが、こちらはこちらで学園側でちゃんと対処法は真っ先に学ばせている。
それこそ耳にタコが出来るほどに上位貴族にとっては平民などいいところ愛人、妾であると、教師たちに言われているにもかかわらず。上昇志向がありすぎるのか、恋に恋しているのか、自分だけは大丈夫だと思うのか、この手のトラブルは尽きない。
それでも、校舎が上位貴族及びそれ以外、そして男女で別れてからは愁嘆場が発生するほど多くはなくなったのである。――少なくなった。と言えないあたりが、思春期の男女の難しいところだ。何しに学園来てんだお前ら。と、まじめに勉強に来ている学生が思うのも無理はないだろう。
それでも、毎月のように嫉妬に狂った婚約者が愛人候補の平民をいじめたの、いじめてないのと騒ぎ立て、捨てられた平民が捨てた貴族に対して刃傷沙汰、人気のない場所からアレな声が聞こえてくるなどが発生していたころよりは、少なくなったのである。
「……大丈夫か、上位貴族」
「さぁ?」
そんな学園のあれやこれやをぼやいたカリーナに、ラインハルトは思わずと言うように呟いた。他に聞かれれば不敬罪間違いなしの発言だが、幸いなことにここにはカリーナとラインハルトしかない。――二人きりではなくメイドは控えているが。
加えていうなれば、もめ事を起こすのはあくまでも一部であって、多くの上位貴族の子息女は――元婚約者も性格に難有とはいえ――家や民のことを思う真面目な者達である。
それはそうと、カリーナは話を続けた。
「今お付き合いしている女性は?」
「いない、が」
「むしろラインハルトは私に不満はございませんか? 七歳年下の、その、あまりうちの家系は豊かな肢体とは縁がないのですが」
「いやべつに、そこは」
年頃の娘としてはむしろそこが気にかかることだ。学園にもそれで泥沼になる婚約関係は多い。
こだわりがないというラインハルトの言葉にニコリと笑みを深めた。
「ラインハルト」
「あ、あぁ」
「貴族令嬢に紳士が敬称なしで名前を呼ばせるということがどういうことか、ご存じないのかしら?」
知らないか、まだ自分の騎士侯と言う地位に考えが及んでいないか、そのどちらだろうが、カリーナは知ったことではない。男女ともに、尊称を付けないで呼ばせることはあなたと寄り親密になりたいという宣言に他ならない。このような見合いの席ならばなおさらだ。
カリーナがそう言うと、ラインハルトは息を飲む。自分の対応のミスに気が付いたのだろう、どう挽回しようか頭を巡らせているのだろうが、貴族としてのやり取りならば、カリーナの方に一日の長がある。
兄のお膳立てだろうが、カモがネギをしょって目の前に転がり込んできたのである。いやむしろ、さすが兄だ。カリーナの好みを、実によく理解している。これでものにできなかったらタラッタの女が廃るというものだ。
すっと、カリーナの手がラインハルトのテーブルの上の手に載せられる。体格がこれだけ違う二人だ、貴族とは言えども働き者のカリーナの手だが、それでもラインハルトの手は彼女の三倍近いサイズだった。ビクッと震えるラインハルトの手にのせた手にそっと力を込め、微笑む。
――逃がしてたまるかこの大胸筋!
「よろしく、お願いしますわ、ラインハルト」
「あ、あぁ」
この時のことを、タラッタ子爵家に婿入りしたラインハルトはのちこう懐古している。
まるで猛禽類に狙いを定められた獲物の気分だった。あと、めちゃくちゃ己の胸を見られていたことだけはわかった。
男が女の胸を凝視してれば、恥知らずと平手を貰うにふさわしい事案だというのに、男女違うだけで誰にも言えないこの寂しさ。ラインハルトは生まれてくる子に、男女関わらず滾々と言い聞かせたという。
こののちの二人の付き合いは何の波乱もなく順調に進んだ。ラインハルトは左目の負傷により後方支援部隊に配属替えをされていたこともあり、騎士をやめることはさほど難しくなかったこともある。
二人は間近に迫ったアベルとレイラの結婚式の準備などを手伝う傍ら親交を深め、兄夫婦が無事に結婚式を挙げた翌日には正式に婚約を交わしたのであった。――何しろ彼女の両親が王都に来るタイミングがそこしかなかったのである。
そうしてデビュタントも兼ねた学園の卒業式はカリーナはラインハルトが送ったドレスを身に着け、彼のエスコートで参加したのである。
上位貴族の方では今年も何やら騒動が起きたようではあるが、カリーナとラインハルトには関係ない話だった。
「大丈夫か、上位貴族」
「学園の卒業式の名物のようなものですから」
デビュタントを兼ねているため、白いドレスを身に纏う婚約者をエスコートしながらぼやいたラインハルトに、カリーナはニコリと微笑んで、そう返したのだった。
03.
「と言うのが、先々代のお婆様とお爺様の話です」
それはもう見事な大胸筋で、お婆様が誰にも譲らんとそりゃもう。と言う最近娶った若い妻に、夫であるアーゴン公爵は遠い目をした。
「大胸筋」
「旦那様も素敵ですわ」
私は上腕二頭筋の方が好きなんですけど。と言う妻。おそらく、男としては喜ぶべきなんだろう。
ちなみにかの妻が夫である公爵の最も好ましいと思うところは赤い瞳であるのだが、ひとまずこの場ではどうでもいい話だ。眼球は直接触れないが、腕なら触り放題ですわね。と、楽しそうによく腕に抱き着いていたりするがそれもひとまず横に置いておこう。
「ちなみに、その年に起きた騒動は何だったんだ?」
「なんでしたかしら。なにしろ、下級貴族や平民にとっては本当にお祭りと言うか、名物行事みたいなものでしたので」
「名物……」
時には王宮の勢力図すら一新されることがある醜聞だが、無関係な者たちにとってはエンターテイメントでしかないようだ。
そう言えば、彼女の卒業式でも騒ぎが起きた時も彼女は冷静だった。――そのあとのファーストダンスの一件でそれどころではなくなったのであまり気にも留めていなかったが、思えばアレも一種の慣れなのだろう。
自分が世界の中心になって、物語に酔っているものは気が付かないが、それ以外の観客にとってみれば、今年は誰が何をやるのかなぁとと言う期待でしかないのだろう。
「むしろ、私たち下位貴族や平民には誰が何をやるかは割とバレバレでして」
「あー」
公爵は呻いた。確かに卒業式の数か月ほど前に、渦中となった王子や令嬢の家との関りを確認されていたことを思い出したのだ。その時にはすでに第一王子の排斥に向けて王宮が動いていたこともあり、問題ないと返したのだが、もう少し話を聞いておくべきだったのかもしれない。
上位貴族たちはメイドや使用人に囲まれて生活していることが一般的なので、貴族でない平民はもちろん、下位貴族などは家具や背景に等しい。ゆえに、そこにいてもいないものとして扱ってしまい、自然、いろいろとバレる。
とは言え、学園に通っているものは平民でも裕福な家の者も少なくなく、下位貴族も寄り親に何かあれば影響は免れない。だからこそ、自分の親には素早く情報は伝達するし、寄り親の関係者が学園にいればその耳にも入れる。
もちろんこれは、当事者も含まれるのだ。
「それでも止まらない、聞く耳を持てないのが、恋の病の恐ろしい事ですわね」
「道理でいろんなものが準備万端で整えられていたわけだ」
王宮における、王妃の勢力の一掃にも一枚かんでいる公爵はそうひとりごちた。
おそらく、ファーストダンスを踊る伯爵家の者も調整がつかなかったというよりも、彼女を踊らせるためにあえて決めなかったのだろう。
学園のダンス講師としては自分が手塩にかけて育てた教え子に、華々しい発表の場を用意してやりたかったに違いない。幸いにして彼女は公爵家の後妻になることが決まっており、理由付けには問題なかったのも幸いした。
結果として、彼女は公爵家の後妻として十分なお披露目を行うことが出来た。それを見た者たちとの話題のきっかけにもなっているようで、まずまずの滑り出しを見せている。
王家と公爵家の仲も良好。一部不穏な動きもあるが、自分が当主である限りは彼女には表立っては何かできるわけでもない。そのあとは息子だよりだが、ここ最近は随分と息子も態度が軟化してきている。息子に虚偽を吹き込んでいた使用人はすでに解雇し、遠くに飛ばしてあった。家庭内に不和を振りまくような言動をする使用人など、公爵家には不要である。
そのかいあってか、新しい妻と息子の関係もそう悪くはならないだろう。
「リーベ」
公爵はそう結論付けると、ニコニコと己を見上げている妻を抱き上げる。向かう先は二人の寝室の予定だ。
元婚約者は普通に価値観の合う女性と結婚してます。
修道院に行った元侯爵令嬢はそのまま静かに神に祈る生涯を送りました。(親が寄付金積んだ)
アベルのことは嫌っていたというよりは姉妹の中で自分だけが下級貴族の男と、親に言われたまま結婚することに対するささやかな反抗心みたいなものを甘言に付け込まれたという感じの普通の貴族令嬢です。結局男に捨てられ、アベルも他に好きな人がいたのに無理やり自分の親が…と言うのをご丁寧に他の姉妹が教えてくれたので「私って」と虚脱状態に陥ったりしてましたが、まあ余談です。
その侯爵令嬢を孕ませたバカ野郎はそれ以外にもいろいろやらかしていたことが親にばれ、廃嫡のち蟄居となりましたが、侯爵令嬢の産んだ赤子が両親(赤ん坊からすると父方祖父母)の養子に入って跡を継ぐ形になります。まーやらかした両親の血を引いて、やらかし野郎を生産した祖父母の教育を受けた子供がどうなったかはわからんが……。
アベル
誠実な人柄で優秀な騎士。そのせいで上位貴族のバランス調整に利用されそうになった。婿入り先も上位貴族としか決めてなかったが、子爵家がちょっと手が届かないぐらいなので、侯爵ぐらいじゃなかろうか。
タラッタ家の嫡男なので、中身は脳筋です。頭が悪いわけじゃないけれど、根本的に物理解決になるタイプ。
レイラ
侯爵令嬢。アベルと恋仲になりようやく親に紹介できると思ったら横からかっさわられた。泣いて暮らしたし、いっそカリーナの家から養子でも貰ってやろうかと思っていたが、巡り巡って元鞘に戻った。
カリーナ
タラッタ子爵令嬢。黒髪にたれ目のちょっと狸っぽい愛嬌のある顔立ちの少女。
兄の婚約話に翻弄されたが、最終的にはドストライクな大胸筋。もとい、婚約者をゲットした。父親がタラッタ家、母親が伯爵家出身で、彼女の頭の良さは母親譲り。もし婚約者とそのまま結婚していたら、正式に結婚するまではいい夢見させてやったんだよ、感謝しろよとばかりに人目のないところで婚約者のプライドを叩き折ってから再教育していたと思われる。結局彼女も肉食系座敷童だ。
ラインハルト
騎士侯に叙爵されたばかりの元平民。アベルの後輩で小隊長時代に部下だった。アベルが中隊長になるときに小隊長を任命された。王族の血を引いているちょっとどんくさい隊長を助けた際に左目を負傷。
助けた相手の対面もあって叙爵された。実力と言うわけでもないのであまり嬉しいわけでもなかったらしい。
カリーナとは仲睦まじい夫婦ではあったが、閨で無心に胸を揉んでくるのだけはどうにかならんだろうかとずっと思っていたらしいよ。
王様
良かれと思ったことが完全に裏目に出てしまった。王妃にめっちゃ怒られた。末の妹と王妃の間に確執があったりなかったりしたかもしれないが、まぁタラッタの皆さんには関係ない話である。
侯爵
婿候補がかなりの好青年だったので逃がしたのはちょっと悲しかった。娘ともうちょっとちゃんを話し合っていれば回避できたかもしれないが、後の祭りである。
アーゴン公爵夫人リーベ
公爵家の後妻に入ったタラッタ子爵家長女。どちらかと言えば恋愛体質で、惚れた相手に尽くすタイプ。ただ相手に惚れなければ惚れるようになるために相手を肉体改造することも厭わない栽培系である。
アーゴン公爵家
リーベを後妻に迎えた公爵。相互理解のためにタラッタ家の歴史を聞いてパンドラの箱を開けた気分になっている。
最初の妻が大変アレだったので、毎日自分を愛していると言葉も態度を惜しまない妻に、政略結婚とは?となりながらもすでに絆されており、たぶん半年後に妻の妊娠が発覚するし、子供は六人ほどこさえるのだが、また別の話である。