人生の否定
お久しぶりです
私は一人の男の生涯を、真っ向から否定することとなった。化学、哲学、数学の如何なる仮設も、更に言うのであれば、人の人生すらも証明することの何億、何兆倍と否定するのは簡単だった。あまりに簡単すぎた。
「俺は俺の最善世界を歩んでいる。つまり、死なねぇってことだ。死ぬのは最悪だからな」
彼はひどく楽天的で、”最善世界”という単語をまるで呪われたかのように連呼していた。そして何より、最善であるがための努力を誰よりもしてきた。
最善の回答を出すため、九十九の知識を蓄えてきた。
最善の人間と出会うため、己を磨き続けてきた。
最善の結果になるために、如何なる怠慢も弱音も許さなかった。
それでありながら、自己の中で完結していた男だった。誰にも強制はせず、むしろ他人にはいくらでもだらけさせてきた。その分己が……と。その生涯は、最善世界であっただろうが、しかし、最善世界をただ歩んでいるのではなく、最善世界に必死にしがみ付いていたかのように見えた。
私は大学にも入れなかった、赤点だらけの馬鹿だが、努力の数は、世界はおろか歴史を見回しても誰も肩を並べさせないほどだっただろう。
その末に死んだ。
丁度納骨も終わった頃だ。都市化が進み場所の確保が難しい現代、遺骨は全く知らない赤の他人のすぐ隣の小さな扉の中に収納されていった。隣人を愛した人間だ。きっと打ち解けるにはそう時間はかからないだろう。
駅で飛び込み自殺をしようとした女子高生を引き戻した反動で線路に落ちてしまい、撥ねられた。聞けば英雄譚だろう。人生を終わらせる手段としては、他人を助けて死ぬというのは最も美しい一つなのかもしれない。憧れを抱く人間もいるかもしれない。
誰も何も責められない。女子高生の家族はせめてものお礼として、封筒が膨れ上がるほどの万札を渡しに来たが、受け取る人間がいないのだ。いたとしても、きっと彼は拒むだろう。金の為にやったのではない。自己満足でやったんだ。最善の選択が出来てよかった。彼が言いそうな言葉は幾らか思いつく。どれもこれも、憎いほどの笑顔で言うのだ。
著名人でもない人間の葬列がここまで続いたところを、私は見たことも聞いたこともなかった。大学を出て、普通に就職し、出世した男がたった一人死んだだけで、数えられないほどの人間が葬儀に参加した。家族が取っておいた小さな葬儀会場では入りきらず、八割弱の人間はめそめそと泣きながら「せめて外で待たせてくれ」と粛々と外で待っていたものだから、家族もビックリしていた。
人徳。ただの一単語で済ませられる性質だが、それ故に実に奇妙だった。
彼の人生、その主義を否定したのは、私ばかりではないだろう。彼自身もまた、己を最後の最後で否定することになってしまった。
映画でしか見たことないような、仰々しい車が、反対に、ただの普通車が、奇妙に静かに列をなしてこの都会の大きな道路を走る。これから送別会があるのだ。そうめそめそもしてられないだろう。彼が今の私の顔を見たらどれほど笑うだろうか。下手したら写真も撮りかねない。そうしたら高校の連中に見せつけられるかもしれない。そればかりは避けよう。
笑って送り出そう。これが彼の選んだ最善であったのだから。そして、彼が私たちに一度だけ押し付けた最善なのだから。
ここまで読んで頂き、誠にありがとうございます。
近頃何かと大変ではございましょう。来月から新しい環境に身を置く方も多いことと存じます。引っ越しの荷造りであったり、新しい人と出会うために身だしなみを整える方もおられるのではないでしょうか。
ですが、何時だろうと、人は死にます。その人が生命体であり、確率が全くのゼロパーセントではない限り、死というのはじんわりと浸食するのです。
先日ありました大きな地震。亡くなった方もいるとお聞きしました。死者というのは紀元前から何千年と蘇生を試みているものの、一度として戻ってきてはおりません。
私の死生観と言いましょうか、そういったものはひどく馬鹿げていてそれでいて己でも説明しきれないほど難解でありますので、ここで死をとやかく言うことはできませんが、いつか、遺しておくために投稿しようかと思っております。
私が死んだら、盛大に送り出してほしいものですね。ひとしきり泣いたら誰しもが笑って酒の肴にして、毎年の花なぞいりませんから、時折「あんな小説書きがいたよな」と思い出してほしいものです。
では、またの機会にお会いいたしましょう。
あるネットの言葉を引用しますか「幸運を。死にゆく者より敬礼を」