幕間・ある朝のやりとり
膳を持った女が廊下をしずしずと歩き、とある部屋の前で立ち止まる。
「人狼様、本日の朝食をお待ちいたしました」
まだ少し慣れない様子で、女はそっと御膳を障子の前に置く。そのまましばし迷い、女は立ち去ろうとするが。
――いつもは硬く閉ざされていた障子が、すぐに開いたことで女は面食らうこととなる。
障子を開き、立ち上がりかけた女を上目で見遣るのは布を被った銀髪の美丈夫。驚いて硬直した女はそんな男の紅玉のような瞳に捉えられ、居心地が悪そうにさっと視線を外した。
「どうかされましたか? 人狼様」
「クチナシ」
女がピクリと眉を動かす。
すでに済ませた自己紹介と全く同じ言葉。少しばかり怪訝そうな顔になった女は、すぐに表情に笑みを乗せて受け応える。
「存じております」
「そうか」
「ええ」
困ったような笑みを浮かべたまま、女は今一度廊下に正座をし、男に頭を下げる。立場上男は女の夫であり、妻は夫の意向に従うものである。彼が顔を出している間、彼女は立ち去ることができない。
すでに一度、立ち上がりかけて硬直するという失態を犯しているため、女は「頭が高くて申し訳ございませんでした、人狼様。お許しいただけますでしょうか?」と、謝罪する。
「クチナシ」
「え? え、ええ、存じておりますが」
女は今度こそ怪訝そうな顔を隠そうともせずに「え?」と口にした。先程もしたやりとり。なぜ繰り返すのかが分からず、本来は気の短い女だ。笑顔のまま床に手をついた拳を握り込んだ。
「……人狼様。お食事が冷めてしまいますので、お早めに召し上がりください」
「クチナシ」
「……」
男が顔を出したままでは、女は立ち上がり、立ち去ることができない。彼女はとうとう、その笑みを崩して唇をひくつかせた。
わがままな妹の所為で女は己の感情を押し殺す術を覚えていたが、抑圧する人物がいなくなったことで、本来の性格がほんの少しばかり浮き上がってきている。
そのひとつが気の短さというのがなんとも言えないが、女はそんな自身の変化に気づかず言葉を紡ぐ。説明もなしに同じことを繰り返されては、さすがの女も苛立ちはする。
「……じ・ん・ろ・う・さ・ま。お早めにお食事を召し上がってくださいませ」
「……」
わざとらしく言葉を区切り、女は不機嫌を隠そうともせずに言った。彼が己の名前ばかりを連続で告げる理由は皆目見当もついていないという風に。
山の守り神にこのような無礼な態度を……と、女は内心で少しばかり不安に思っていたが、男は沈黙を守り、ひとつだけ頷く。
御膳を引き込み、障子を閉める直前の男の顔は――少しばかり眉が下がっているように、女には見えたのだった。
……
人狼様のお屋敷へ嫁いできて、早くも一週間ほどが経つ。
私は、意思疎通が図りづらい人狼様にだんだんと不安を覚えて来ていたが、それも一応ギリギリで保っている。
彼が決して悪い人じゃないことは分かるのだ。分かるのだけれど、それとこれとはちょっと別である。
故に、彼から教わったことや、屋敷の生活において必要そうな知識をこれから日記として記していくことにした。彼の行動も、一度筆を取って想いを馳せながら書けば好意的な解釈をできるようになるというものだ。
せっかく初日に便箋をいただいたことだしと、日記はあまりある便箋に少しずつ書いていくことにする。
大事なメモ。
朝食は6時。昼食は12時。夕食は6時。
毎日ご飯を作って、人狼様のお部屋の前に運ぶ。食べている間は特にそばにいる必要はなく、御膳だけ部屋の前に置いてあとは自由。一時間後に御膳を下げに行く。
他の時間は洗濯をしたり、庭の世話をしたり、掃除をしたり、ある程度は自由にしていても良い。
お屋敷の大体の地図も便箋を一枚使って描いてみたし、ひと通り生活をする分には問題なし。あとは……お料理の感想ひとつでもほしいな、とか。
そんなことを思うのは、贅沢かしら。
……あの人、何度も何度も名前を教えてなにがしたかったのだろうか。
どうして、あんなに悲しそうな顔をしたの?
知ったら、納得できる理由なのかしら……ちょっと知りたいと思っちゃったりして。やっぱり、彼がなにも考えずにそんな行動を取っているとは思えないし。
……いえ、違う。私は、あの人のことを知りたいんじゃない。
私は、認めてもらいたいんだ。お礼のひとつも言ってくれないなんて、悲しいじゃないかと。認めてほしいんだ。
少しくらい、たった一言でもいい。なにか反応がほしかった。
ただ、それだけ。




