生贄令嬢、白銀の大狼にお出迎えされる
馬車が止まり、周囲にどよめきが起こった。
山脈の前までつくと、そこには巨大な銀色の狼が佇んでいたのだ。
「……っ」
思わず息を呑む。けれど、不思議と狼の瞳は穏やかで怖くはない。
けれども、私以外のものは違った。
馬車の馬達は驚いていななき、御者も悲鳴をあげる。見送りに来てくれた者など一人もいなかったので、私は御者に追い出されるようにして馬車から下ろされ、その場に捨て置かれてしまう。
あれよあれよと言ううちにその場に残ったのは、私と狼だけである。
馬車は無理な速さでもと来た道を走っていき、私が目を向けたときにはもう、豆粒のように見えるほど遠くまで逃げていた。
いくらここから先が禁足地だとして、そして馬ほどもある大きな狼が待ち構えていたとして、女性を一人置き去りにして真っ先に逃げるというのは情けなくはないのか。
「……あの」
「……」
しばし銀色の狼と見つめ合う。
紅玉のような美しく、鮮やかな瞳は私をじっと見据えて品定めしているようにも見えた。
狼様の柔らかそうな白銀の毛並みと、目の覚めるような赤色の瞳。私のくすんだ金髪と、青草のような緑の瞳とはまるで真逆。
色彩もそう、真逆で。けれど、それ以上に……私のような下賤な者が触れてはならない清廉なかただと感じた。
故に、ここで本当に生贄として食い殺されてしまっても構わないとすら思う。
「……」
「……」
お互い無言だった。
私が思い浮かべた噂話は、やはり元は彼が人喰いなのかもしれないというもの。私はすっかり生贄としてやってきた気分になっていたので、むしろこのまま食べてくれればいいのにとすら思っていた。
だから、そのまま私は喰われてもいいようにと思い切って腕を広げる。受け入れ態勢は万全だと言わんばかりに。けれど、やはり怖いものは怖いので目はぎゅっとつむった。
もふん、と。なにか柔らかいものが腕の中に差し入れられる。
びっくりして目を開くと、銀色の狼は鼻面を黙って私の腕の中におさめていた。ちょっと予想外だった。
「あ、いや、えっ、ち、違うんです! も、申し訳ございません!」
「……?」
狼様の鼻面は私の腕におさまったままだ。お互いの顔にハテナが浮かんでいる。
「あの、私、そのですね……」
ああ、なんてみっともない。一応は令嬢の端くれだというのに、言葉を乱すだなんて。
「このまま食べられちゃったほうが、幸せだったかもしれないと……思ってしまって」
「……」
狼は上目に私を見る。
そして、小さく口を開いた。
――あんた、死にたいのか。
その問いには、咄嗟には答えられなかった。
私は、死にたいんだろうか? 惨めだから、そのまま消えてしまいたいと? このまま、ちょうど良いから殺してほしいと?
……神様に、ちょうどいいからって殺してもらおうと? 他力本願で?
なんて、無礼なことを思っていたのだろうか。それに、本気で死にたいかと言われると、そんなことはないのだ。私は静かに首を振って、「死にたいわけでは、ございません」と答える。
「私は、嫁入りをしに参りました」
「……」
狼様はそのお顔を私の腕の中から引き抜き、ひとつ頷くとその場に伏せの状態で座り込む。それから、鼻先をくいっと背中に向けて指し示してみせた。
「そ、そんな、恐れ多いですわ」
「……」
狼様の紅玉が私をじっと見つめる。彼のほうから言葉はかけられない。
噂通りに冷たいかとか、無愛想か……というと、なんとなく違う気もする。ただ寡黙な性格をしているだけなのかも。
「し、失礼……しま、す……」
無言の圧力には敵わなかった。
狼様の小山のようになった柔らかな毛皮を、なるべく慎重によじ登り、背中にしがみつく。このときほど、手荷物が最低限でよかったと思ったときは恐らくないだろう。
狼様は、私が両腕でしがみついたことを確認するとゆっくり体を起こし、そのまま軽い足取りで山脈の中へと足を踏み入れた。
その後のことは、ほとんどしがみつくのに必死で、覚えていない。
ただ、頭の中ではひとつだけ。
人狼様は人の姿であらせられるのではなかったのか? と、疑問が浮かんでいたのだった。