幕間・愛され子には耐えられない日々
「いやぁぁぁぁぁ!」
豪奢な廊下を走る少女が一人。
カナリアの妹。ルリエラ・シェイフォルトである。
彼女は無事にカナリアの元婚約者、アイジス・ジェスリンと結ばれて嫁入りを果たしていた。しかし、愛する者と結ばれて幸せ絶頂にいるはずのルリエラは、その美しい相貌を涙に濡らして声をあげて泣いていた。
新しく仕立てた美しいドレスも、綺麗に結われた金の髪も、残念なことに真上から水を被ったように濡れている。
彼女は泣きながら、濡れたドレスのままで走っているのだ。遠くから「待ちなさいルリエラさん!」と怒鳴る声が響いている。
その声から逃れるように、ルリエラはとある部屋に飛び込んだ。
「アイジス様、アイジス様ぁ!」
「おや、どうしたんだい? 天使ちゃん」
部屋の中の主人、アイジスはベッドに腰掛けており、手元の本から顔をあげるとルリエラを慈しむような視線を向ける。
泣いているルリエラはそんな彼の懐に抱きつこうとしたが、そっと手で押さえられて首を傾げる。アイジスはそんな彼女に、憐れむように声をかけた。
「ああ、そんなに濡れてしまって……また食器をひっくり返してしまったのかい? 仕方のない子だ。早く食べられる手料理が作れるようになるよう、祈っているよ」
「無理よ! だってわたし、お料理なんてしたことないもの! それに違うわ! わたし食器なんてひっくり返してない!」
「頑張っておくれ、愛しのルリエラ……それじゃあ、その髪と服はどうしたんだい?」
「お義母様が……」
「ママンがどうかしたかい?」
ルリエラはシェイフォルト家の、お飾りの御令嬢だった。
長男のシェイドは家督を継いでいるが、社交界に出ては女遊びに明け暮れるボンクラ御令息。長女のカナリアは生まれた当初可愛がられていたが、末妹のルリエラが生まれると途端に放り出され、使用人に混じって働かされていた。
故に、末妹のルリエラは両親から蝶よ花よと甘やかされて育ち、その可憐さと相貌以外に取り柄と呼べるものはいっさい存在していない。
このジェスリン家に嫁入りしてからの彼女は、義母となったリイシャにチクチクと嫌味を言われ続け、お茶ひとつ淹れられぬ役立たずと罵られ、肝心のアイジスにさえ「食べられる手料理が作れるようになってくれ」と言われている始末である。
毎日ルリエラは義母にせっつかれ、なにもできない、やりたくないお飾りの御令嬢であることを脱却するようにと扱かれているのである。
それは当然、今までなにもせずともお茶や食事が出てきて、何不自由なく過ごせていた彼女には耐えられないことだった。
怒鳴られることでさえ初めてであったルリエラは、すっかり義母のことを嫌っている。義母は義母でルリエラのことを「可愛い息子ちゃんをたぶらかした」と思っており、嫁姑。二人の間柄は始まる前から冷え切っている。
だからこそ、ルリエラは愛するアイジスさえ味方につけてしまえば全て解決すると考えているのだ。アイジスさえいれば義母を跳ね除け、自分の天下が戻ってくるはず。そんな幼い思考で、彼女はなにも考えずに癇癪を起こす。
「ぐす……お義母様が! お義母様がね! 私に役立たずって言って水をかけたの! すっごくひどいでしょう!?」
その言葉でアイジスはピタリと硬直する。信じられない。そんな風にルリエラを見つめていた。
しかしルリエラは、彼のその動揺を「もうひと押し」なのだと勘違いをして捲したてる。
「アイジス様、ねえアイジス様ぁ! どうにかしてちょうだい! わたしあの人にいじめられているのよ! ずっと、ずーっとよ! ここに来たときからいじめられていて、すごくつらいの! 今までは逃げる前に捕まってしまって、ぶたれたりしていたけれど、今日、ようやく逃げてこられたの! お願い! お願い! アイジス様、助けて!」
言い切ると同時に、その場に乾いた音が響いた。
「…………え?」
アイジスがルリエラの頬をぶったのだ。
今度はルリエラのほうが「信じられない」とアイジスを見つめる番だった。
生まれてこのかた、一度だって手をあげられたことのなかったルリエラは、愛する人の豹変にただ戸惑うしかない。痛みで込み上げてくる涙が頬を流れる。
声をあげて泣くばかりで、静かに泣いたことなんてなかった少女ははじめて呆然としたまま涙を流している。
一方、無言のままルリエラに手をあげたアイジスは、形の良い唇をわなわなと震わせて彼女を睨みつけていた。しかし、彼はあくまで穏やかな声色で、ルリエラを諭すように話し始める。
「いいかい? ルリエラ。そんなことはありえないんだ。自分の不手際と失敗で起きたことをママンのせいにするだなんて……わがままも大概にしてくれ。君はもう、僕達の家族になったんだよ? 家族を侮辱して誤魔化すだなんて、最低なことだ」
これにはルリエラもたまらない。彼女が義母に辛く当たられているのは事実である。義母のリイシャは息子を大事にするあまり、息子に嫁いできた格下の子爵令嬢であるルリエラを憎んでいる節すらある。
ルリエラは頬を押さえながら涙を流す。しかし、彼女はここで折れるわけにはいかなかった。折れてしまっては、やってもいない失敗を伯爵夫人のせいにして侮辱したことになってしまうからだ。
彼女は化粧が流れていくのにも関わらず、みっともない鼻声で訴える。
「ほ、本当にわたし」
しかし、その言葉は最後まで言わせてもらえなかった。
「ママンがいじめなんてするはずがないだろう! 馬鹿にするな!」
先程まで冷静にルリエラを諭そうとしていた彼は、大声で彼女の言葉を封殺する。
「ひっ……」
ルリエラは、アイジスのあまりの剣幕に声を喉に詰まらせ、ゆっくりと彼の膝に置いていた手を離すと……よろよろと逃げるように後退った。
手をあげられてもなお彼を信じていた彼女は、あまりのことに顔を蒼白に染めている。
「アイジスちゃん! ここにボンクラ嫁は来ているかしら!?」
と、そこにリイシャ夫人が訪ねに来た。その姿を見てルリエラはますます縮こまり、恐怖に震えている。
「ママン、ルリエラならそこにいますよ」
「あら本当」
ルリエラは小さくなって伯爵夫人の目から逃れようと必死になっていたが、その努力をアイジスが台無しにしてしまった。彼女の目にはもはや絶望しか映されていない。
「ねえ、ママン、当たり前のことだけれど貴女はルリエラ嬢をいじめてなどいないでしょう?」
「あら、この子がそんなことを言ったのかしら? 当たり前じゃない。わたくしは、なんにもできないお嬢様に、妻としての全てを教えようとしているだけですわ」
「ああ、そうですよね。ほうら、どうだいルリエラ。ママンはただ、君に立派な伯爵夫人になってほしいから厳しくしているだけなんだ! それをいじめだなんて……人聞きの悪いことは言わないでおくれよ?」
流れるようにルリエラ一人が悪いと結論づけられていく。
「あ……あ……いや……わたし……やだ……」
ルリエラはそんな二人を見上げながら、上擦った声をあげる。
普段は明るく、わがままで、自分の望みはなんでも叶うと思っていた少女は、可哀想なほどにその幻想を打ち砕かれ、絶望していた。
彼女の味方になる者は、その場には一人もいない。
家事のひとつでもできれば。もしくは、少しでも学習しようという意欲を見せていれば……あるいは、運命は違ったのかもしれない。
しかし、彼女が彼女である限り、この家にいて幸せになれることはないだろう。
愛され子には到底耐えられない日々がいつまで続くのか。
それは天のみぞ知ることである。
本日はここまで。
明日の12時頃、午後8時頃、午後10時頃に3話投稿予定。




