消えないきずあと
「君との婚約を、解消させてもらうよ、アンリエル」
――すまない。
婚約の破棄を告げられたその言葉の裏で、私はそう言われた気がした。
王宮、謁見の間。
わざわざ貴族、公人を多く招いた上での、王子であるセシル殿下による宣言だ。
こんな悪趣味なことをするのは、彼ではない。
その後ろで、玉座に背をもたせて成り行きを見守る国王陛下に決まっている。
「そういうことだ。聞き分けるように」
陛下は、多くの人々の前で言葉を失っている私に向けて、そう言った。
何の感情もこもっていない、命令ですらない、言葉の形をした音。
陛下が言い終えると、途端に周りがザワつき出した。
しかし、それは王子からの私に対する婚約破棄に驚いているワケではない。
「ああ、やっぱりこうなりましたな」
「自ら身を引かぬから、このように恥をさらすことになる」
「然様、やはり不相応な身分にあっては、慎みを忘れてしまうのでしょうな」
全て、予想通りといった風な声ばかり。
そして、その声の裏にあるのは、粘ついた歓喜と、露骨なまでの嘲り。
これで王宮雀共は、しばらくの間噂話に飢えることはなくなるだろう。
しばらくというのがどれほどの期間かはわからないけれど。
「アンリエル――」
セシル殿下が、私のことを見ている。
その顔つきは神妙で、でも、瞳がかすかに揺れているのを、私は見逃さない。
金髪の、精悍な体躯を誇る、ついさっきまでの、私の婚約者。
「これまで、御苦労だった。もういい。下がってくれ」
「……はい」
固まり切っていた心と体を、私は無理矢理に動かす。
「どうか殿下も、ご壮健であられますよう。……失礼いたします」
別れの言葉を、私は果たしてよどみなく言うことができただろうか。
きちんと頭は下げられただろうか。
貴族としてのふるまいを、私は保てていたのだろうか。
わからない。
そんなことに気を回している余裕が、今の私にはない。
ただ、必死で。泣くのを堪えるのに必死で。
私はいつまでもそこに立っている殿下に背を向けて、謁見の間を去っていく。
「フフ、いい気味。自分の地位を鼻にかけているからよ」
「これで、殿下の隣が空いたわね」
「さっさと消えてしまえばいいのよ、あんなきずもの」
きずもの。
耳をかすめる数々の言葉の中で、その一言だけが私の胸を突き刺す。
私を嘲る笑い声なんて少しも気にならないのに、その一言だけは、どうしても。
一瞬だけ立ち止まりそうになった。
下がれと命じられた以上、もはやここにいてはいけない。でも、
「……私は」
止まりそうになる足を、強引に体を前に傾けることで動かす。
そうして、私は謁見の間を出た。
荘厳な大扉の両脇に立つ兵士が、無言で私を見ていた。その視線すら、辛い。
私は足早にその場をあとにしながら、右手で頬に触れる。
その指先に感じる、ほんのかすかな違和感。
それは本当に些細なもので、でもはっきりとわかってしまう。
これが、私に刻まれた烙印。
これからも決して消えることのない、私の人生を台無しにした元凶。
私の頬には、消えない傷がある。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
私の家は公爵家。
現当主の父には王位継承権があり、私も、低いながらも継承権を有していた。
有している、ではない。それはもう、過去の話だ。
五歳のとき、婚約者としてセシル殿下と引き合わされた。
私と彼の婚姻は、二人が生まれる前から決まっていたことらしい。
国を栄えさせるために、身分を持つ者は己の人生を全て捧げなければならない。
まだ幼かった頃のセシル殿下がそう言っていたのを覚えている。
思えば、私は彼に恋をしていたのだろう。
婚約者同士という関わり以前に、すっきりとした性格が、私には好ましかった。
セシル殿下は、悪く言えば凡庸な方だ。
突出した能力を持っているわけじゃない。けれど、情熱の人でもあった。
足りていない能力を、一念によって補っていく。そんな人。
そう、いい言い方をすれば、頑張り屋さんだ。
いずれ自分はこの国を支えるのだから、と、彼は常に努力を怠らなかった。
能力だけを見れば、弟である第二王子の方が優れている。
でも、国王陛下が王位継承権第一位に選んだのは、セシル殿下の方だった。
陛下は、人としての情に欠ける部分があって、正直、尊敬はできない。
でも統治者としては比類ない方で、その判断が間違ったことは一度もない。
陛下に認められた。そのときの殿下の喜びようは、今も忘れない。
そんな彼の背中を、ずっとそばで見ていたい。
そう思う自分を自覚したのは、何歳の頃だっただろうか。
自惚れではなく、きっとセシル殿下も、私を好いてくれていた。
彼はことあるたび、私の屋敷を訪れていた。
生来、体が弱くてあまり外に出ない私も、殿下の来訪を楽しみにしていた。
彼は私にいろんな話をしてくれた。
国の情勢、街の流行、国内で起きた事件。魔物や、それを倒す騎士の話。
殿下は次期国王として、常にいろんな場所に赴いていた。
そんな彼が聞かせてくれる話は、全て本物のような臨場感があった。
いつしか私は、彼が聞かせてくれた外の世界に憧れを持つようになっていた。
――だから。
ううん、違う。
それじゃあ、殿下に責任を押し付けることになってしまう。
悪いのは、全部、私。
私が、外の世界を見たいなんて言わなければ、こんなことにはならなかった。
体の調子がいい日に、空が晴れ渡っていて、ちょっとだけ、外を見たくなった。
それがいけなかったのだ。
今なお、私は心の底から後悔している。そんなこと、思わなきゃよかった。
あの日、私はお忍びで近くの街まで行こうとした。
連れて行ったのは、護衛の騎士二人だけ。
彼らが駆る馬車に乗って、ほんの軽い気持ちで外に出てしまった。
殿下の婚約者として、屋敷と城を往復するだけの日々にうんざりしていた。
でも、今思えば、それはあまりに自覚が足りていなかった。軽挙だった。
私の体は殿下同様、将来の王妃として国に捧げられるべきもの。
それも忘れて、外への憧れを募らせた私は、少しだけと自分に言い訳した。
結果、その浅はかな考えは、最悪の報いとなって私に跳ね返ってくる。
魔物。
街の近くには普通は出てこない、狼の形をした魔物なのだという。
馬車で街に向かう最中、その群れに行き当たってしまった。
その足は馬車よりも速い上、一度狙った獲物に付きまとう性質を持つらしい。
逃げられない。ならば、戦うしかない。
護衛の騎士達はそう判断し、私に馬車の中に隠れているよう言って出ていった。
怖かった。
外から聞こえる音は金属音と鈍い音、そして人と獣の叫び声ばかり。
それまで触れたことのない、戦いというものに私は震え上がった。
このまま私は死ぬのだろうか。
生まれて初めて、そんなことまで考えた。騎士達の頑張りを全く無視して。
だから、音が消えたとき、私が感じた安堵は底知れないものだった。
終わった。助かった。
全身を強張らせていた恐怖はやわらぎ、私は大きく息をついた。
そして、外がどうなったか確認するため馬車の窓から外を覗こうとして――、
「お嬢様、まだです!」
そのときの騎士の絶叫が、今も耳に残っている。
顔を出した私を狙って襲いかかってくる魔物の狼。その前足が鋭く振るわれて。
「あ……」
爪が、右頬をかすめた。
感じたのは、つん、という小さな手応え。でも、血がポタリと滴った。
自分が傷ついた。
そう思うまでもなく、落ちた血の滴を見て、私は意識が遠くなった。
幾度も私を呼ぶ護衛の声を聞きながら、私の記憶は途切れた。
次に目が覚めたとき、私は屋敷のベッドにいた。
一瞬、何があったのか思い出せなくて、でも、すぐに記憶が呼び起こされた。
血の気が引いた。汗が止まらなかった。
歯がカチカチいうほど、体が激しく震えていた。
私が目覚めたあと、両親と、私の主治医の神官様が部屋に入ってきた。
魔物の狼は、あのあと駆けつけた兵士達によって討たれたという。
護衛の騎士達も何とか無事で、それを聞いて私は心から安堵した。よかった。
私は父に、騎士達の潔白を訴えた。悪いのは私だ、と。
しかし、すでに騎士達は屋敷を出ていた。自分から願い出たのだという。
それを聞いて、私は一瞬意識が遠くなった。
なんてことだろう。
私のくだらないわがままが、彼らの人生を狂わせてしまった。
何とお詫びすればいいのだろう……。
そう悩んでいる私に、だが、母が何か思いつめた顔を向けてきた。
その時点ですでにイヤな予感はしていた。
母が涙ぐみ、父が沈んだ面持ちで押し黙る中、神官様は言った。
「右頬の傷は、一生消えることはないでしょう」
――と。
魔物とは、魔法的な性質を有した生物の総称であるらしい。
そして私を襲ったあの狼は、爪と牙に魔法毒を宿していると、神官様は語った。
傷はすでに癒され、神官様の手で解毒も終わっていた。
けれど、毒による腐食の跡までは消すことはできず、私の頬には傷痕が残った。
こうして、私はきずものになった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
朝、目を覚まして、髪を整えようと鏡台に向かう。
そこには愛用の髪を梳くブラシがあって、私はそれを手に取って鏡を見た。
まだ、若干目覚め切っていない私の顔がそこにある。
黒い髪、やや薄いとび色の瞳。
父方の先祖に東方の血が入っていて、私の髪の色は先祖返りした結果らしい。
周りにはあまりない髪の色で、父も母も、いつも綺麗だと言ってくれた。
でも、そう言われて一番嬉しかったのは――、
「……ダメね」
真っ先に思い浮かんだ顔を、私はかぶりを振ってかき消す。
もう、私にあの方を想う資格はない。
この右頬に刻まれたほんの小さな傷痕が、私にそれを許さない。
別に、この傷痕が私の命を奪うわけではない。
毒は神官様が漏れなく浄化してくれたし、後遺症なども別に何もない。
ただ、この傷痕は消えてくれないのだ。
化粧を施しても、隠し切れない。
逆に傷痕が隠れるほどに分厚く化粧をすれば、顔そのものに違和感が生じる。
この傷痕は、貴族令嬢としては致命傷だった。
特に、将来王妃となる、次期国王の婚約者としては。
当たり前だ。
王妃とは、国王の隣に侍り、国王と共に国の象徴の一部としてあるべき者。
いわば、その顔は国の顔。顔についた傷は、国の権威に刻まれた傷に等しい。
そんな傷を許した愚か者を、どうして次期国王の婚約者にできるだろう。
婚約を破棄されるのは当然の話で、だから、私にはもう資格はない。
あの方を想う資格も、想われる資格も。
思いながら、気がつけば私はブラシで髪を梳いていた。そして、ハッとする。
髪を梳いて、どうしようというのだろう。
もう登城する必要はないのに。王妃としての勉強も、しなくてよくなったのに。
このブラシで髪を梳くことが、私の朝の始め方になっていたから、か。
長く伸びた自分の黒髪を一房、手に取ってみる。
手入れを欠かしていない髪は窓から差し込む朝陽を受けて、光沢を見せている。
ふと、私の耳に、あの人の声が蘇る。
――黒曜のような、綺麗な髪だね。
その言葉に、刹那の歓喜が湧き、それはすぐに胸の痛みへと変わった。
鏡に映る自分の姿が、唐突にグニャリと歪む。
自分が涙ぐんでいることに気づいて、情けなさに死にたくなった。
でも、それでも――、
涙に大きく歪みながらも、鏡の向こうの私の頬から、傷痕は消えない。
「……ッ!」
怒りにも似た衝動に駆られて、私は愛用のブラシを鏡に投げつけた。
ビシッ、と、音がして、鏡に放射状の亀裂が入る。
私は椅子に座ったまま身を曲げて、きつくきつく、目を閉じた。
泣いて、どうなるというのだ。
全部、全部、自分が原因なのに。自業自得でしかないのに。
理解はしてる。でも――、いなくなってくれない。
想う資格はないのだと、この三日間、ずっと自分に言い聞かせてきたのに。
私の胸の奥から、あの人がいなくなってくれないの……!
「……セシル殿下」
一度だけかすれ声でその名を呼び、私は、声を殺して泣いた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
公爵である私の父は、私にとって自慢の種の一つだ。
あの方は正しく貴族であり、常に民の模範であろうとしている。
この国は豊かなのだと民に示すため、父は常に肥え太った。
私は知っている。父は本来、さほど食べる方ではない。
それでも無理に食べ続けて太ましい体でいたのは、領民を安心させるためだ。
父は言っていた。
領主が貧相な体でいれば、領民は心細さを覚えることだろう。
だが、領主がその身をもって豊かさを示せば、領民の安堵に繋がるのだ。と。
「しかし、周りからは私腹を肥やしていると見られるのでは?」
一抹の不安をもって私がそう返すと、父は、あっけらかんと笑って答えた。
「言わせておきなさい。領民の安寧こそが私の願うところだからね」
事実、口さがない宮廷雀共は、父に関する様々な噂を飛び交わしていた。
王妃としての教育を受けるため登城していた私も、幾度それに触れただろうか。
だが、父は清廉だ。貴族として後ろ暗いところは何もない。
人の口に戸は立てられないが、火のないところに煙は立たないものでもある。
どんな風聞が流れようと、そもそも事実がないのだから、噂以上にはならない。
そう、だから、私が気にするのは、そんなくだらないものじゃない。
父自身だ。
「お父様、大丈夫ですの?」
「ハハハハ、何を言っているんだ。大丈夫に決まっているじゃないか」
登城しようとする父に、私は声をかける。
父は笑ってそう言うものの、そんなワケがなかった。明らかに痩せ細っている。
婚約破棄から二週間。
その間にも、父の体はどんどんと細くなっていった。
明らかに尋常ではないその変化に、私は心配し、母に何事か尋ねた。
「何でもないのよ。あなたは気にしなくていいわ」
そう、言われてしまった。
しかし私は、今までにない母のよそよそしさを、見逃していなかった。
そして、今度は私の世話をしてくれる使用人の女性に何があったのか尋ねた。
「それは……」
言いにくそうに言葉を濁す彼女に、私は直感する。
ああ、そうか。
この二週間での父の変化には、私が関わっているのか。
ならば、尚更私がそれを知らないワケにはいかない。
私は使用人に強く頼み込んだ。
するとようやく観念したらしく、彼女はポツポツと話し始めた。
彼女が語るその内容に、私は吐き気を催した。
端的に言えば、父は、私が受けた婚約破棄を原因としたイジメを受けていた。
私の家は公爵家。王家に連なる大貴族だ。
そのため、父には何かと敵が多く、また同じ派閥を形成する味方も多かった。
しかし、私の婚約破棄によって敵味方のバランスが崩れたのだという。
王家の庇護下にあった父は、愚かな娘を育てた男として国王に見放された。
それをきっかけにして、父が属していた派閥からも人が離れていった。
逆に、味方が少なくなった分だけ、敵が増えることとなった。
そうすると、どうなるか。
孤立した父を待ち受けていたのは、消えることのない風聞、風説、流言飛語。
王妃になれなかった愚かなきずものの父親。
そんな酷い風聞が王宮の内外を流れて、常に父を攻撃し続けた。
父は、清廉な貴族だが、豪傑ではなく、その心も決して強くはない。
それでも王宮に赴かねばならない父はきっと、この二週間を耐え続けたのだ。
だが、そんな責め苦に晒されて、平気でいられるものか。
「お父様……」
その身を窶れさせながらも笑いかけてくれる父を思うと、胸が詰まった。
全ての原因は私にあるのに、何故父がそんな目に遭わなければならないのか。
理不尽にも程がある。激しい怒りが、私の中に沸き起こった。
――誰でもない、自分に対する怒りが。
私は、決意した。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「二度とそんなことを言うんじゃない!」
願い出た私は、生まれて初めて父から怒鳴られた。
けれど、私も退くつもりはない。
もう一度、私はしっかりと父を見据えて、己の願いを告げる。
「お父様、私に『誉れの杯』を口にする栄誉をお与えください」
「馬鹿を言うな! おまえは、それが何を意味しているのかわかっているのか!」
父はその目を血走らせて、私を激しく叱責する。
しかし、私だって王家に連なる公爵家の令嬢。もちろん知らないはずがない。
貴族に与えられた最期の栄誉。それが『誉れの杯』だ。
最近は錬金術の進歩も著しく、苦痛もなく眠るように逝けると聞いている。
けれど、私のような愚か者、長く苦しんで逝くべきだと思うけれど。
「おまえは……、何てことだ」
私の目に本気を見て取ったか、父が天を仰いで手で顔を覆った。
「アンリエル、誰から聞いたのだ?」
「……申し訳ありません」
情報の出所を問う父に、私は一言、それだけ返す。
父が知れば、どれだけ温厚だろうとあの使用人に厳しい沙汰を下すだろうから。
「どうしても、言えないか」
「私は愚かな娘です。それでも、二度同じ愚を冒すことだけはしたくありません」
脳裏に、私を守ってくれた二人の騎士が思い起こされる。
私がくだらない思い付きをしなければ、二人は今もここにいられただろうに。
「――おまえは愚かなどではない。賢く、聡い娘だ」
父はそう言ってくれる。でも、その言葉は私に響かない。
本気で言ってくれていることはわかるのに、自分には不相応だと感じる。
ただ、そんな私にも、明らかなことがある。
「私が死ねば、お父様の苦しみはやわらぐのでしょう?」
それは、父が受けている屈辱の理由のほとんどが、私にあること。
そして今も私が生きている。
その事実が、父が受ける屈辱をさらに加速させていること。
「公爵家の体面に泥を塗った私を何故生かすのか、そう言われているのでしょう」
貴族にとって、面子、体面は誇りに直結する大事なもの。看板そのものだ。
私は、婚約破棄によって長らく続いた公爵家の体面に傷をつけた。
本来であれば、それは死をもって償う他ない大罪のはず。それなのに父は――、
「それを決めるのは私だ。周りがどうこう言うことではない」
「お父様、ですが……!」
「黙りなさい!」
父が、声を荒げた。
「おまえは、私に新たな苦しみを与えようというのか!」
あ……。お父様、どうして、泣いて――、
「アンリエル」
父の目に浮かぶものを見て絶句する私に、母が声をかけてくる。
「この人の弱さを、許してあげて」
「お母様……」
俯き、拳を握り締める父に、母がそっと寄り添う。
「この人も、私も、あなたを愛しているのよ」
母は言う。
父も、自分も、貴族の誇りより私が生きていることを望んでいるのだ、と。
その言葉に感じる溢れんばかりの愛情に、私はどう返せばいいのか。
考え、悩み、それでも何も思い浮かばなくて、私は立ち尽くす。
そこに、涙をぬぐった父が顔を上げ、慈しみに満ちた優しい笑顔で告げてくる。
「おまえは生きていいんだ、アンリエル」
私は、思い違いをしていた。
ずっと自慢の種だった私の父は、本当は、貴族に全く向いていない人だった。
今さらながらにそんなことを知って、私は自分の愚かさを痛感する。
でも、この人が私にとって自慢の父であることは変わらない。
いやむしろ、今の方が、前よりももっと胸を張って自慢できそうだと思った。
同時に、私は気づいてしまった。
私が『誉れの杯』による最期の栄誉を賜ろうとしたのは、家族を想ってのこと。
そう、自分でも思い込んでいた。
だけど違った。そんな綺麗な感情じゃなかった。実際は、もっと薄汚れたもの。
家族のためという理由を口実にし、私は死にたかっただけだ。
単純に、私は死にたいのだ。もう生きていたくないのだ。
生きていたって、周りに迷惑を振りまくだけ。今の私はそういう人間なんだ。
父に『生きていい』と言われて『そんなはずない』と思ったとき、気づいた。
私は、私が死にたいから、そのための理由として、父の苦しみを利用した。
何という愚劣。
何という卑怯。
こんなにも愛してくれる両親に、私が返すのはそんな自分勝手な感情なのだ。
消えたい。死にたい。
その想いが、私の中で一層強くなる。
だけど、死ねない。
今すぐ消えてしまいたい。そんな衝動が収まらないのに、私は死ねなくなった。
私が死ねば、きっと、父と母は後を追う。それにも気づいてしまった。
いっそ、私の親が国王陛下のような人間であったなら。
彼のような、私を道具としか見ていない人間が親であったならば、私は死ねた。
千の呪詛と万の恨み言を遺して、躊躇なく命を絶てただろうに。
父と母の間に生まれた幸福を噛みしめながら、けれど、私は動けなくなった。
こんなにも死にたいのに、こんなにも……。嗚呼。
――助けて、セシル様。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
一晩話し合って、結局、私は死ぬことになった。
もちろん、本当に死ぬわけじゃない。
私は父より『誉れの杯』を賜り、公爵令嬢として最期の栄誉を得た。
表向き、そのように王宮には報告し、私は領内の僻地に隠遁する。
それが両親と向かい合って決めた、私のこれからだ。
修道院に入る、という選択もあった。
しかし、それは母に止められた。
万が一にも、私が自裁する可能性をなくしておきたいらしい。
もうしない、と、断言することはできなかった。
それどころか、二人の目が届かないところで、私はそれをするかもしれない。
依然として、私の中には死を希求する衝動が激しく渦を巻いていた。
ひとたびそれに身を委ねれば、私は完全に自制を失うだろう。
今、こうして己を保っていられるのは、ひとえに両親がいてくれるからだ。
「至らぬ父親を許してくれ」
私に頭を下げる父を見て、それは逆だろうと思った。
父は、すっかり痩せ衰えてしまった。
でもそこに、一片でも父の責任はあるのだろうか。もちろん、そんなはずない。
悪いのは、私。そしてくだらない風聞を流した王宮の連中なのに。
死のうとしたとき以外、一度も私を責めようとしない父の優しさが、辛かった。
私が隠遁する先は、領内でも最も辺境とされる西の山奥に決まった。
同じ国だけど、外からはほぼ隔絶しており、私の噂も届かないような場所だ。
標高が高く、避暑地でもあるそこには大きな別荘がある。
その別荘がこれからの私の家となる。
近くには農村もあって、全く人がいない孤立した場所ではないのが嬉しい。
「時々行くからね、手紙も寄越してね?」
真夜中、馬車の前で、母がそう言って私を抱きしめる。
冷たい夜気の中で冷え切った体に、母のぬくもりは格別、温かく感じられた。
西の別荘には、私の他、数人の使用人と騎士が同行することになった。
私から求めたわけではない。皆、自分から願い出てくれた。
使用人は、ずっと世話してくれた馴染み深い侍女達。そして騎士は、彼らだ。
「今度こそ、お嬢様をお守りしてみせます」
そう、私が外に出たときに同行した、二人の騎士である。
護衛として父が選んでくれた最善の人員。私としてもこれ以上ない人選だ。
そして当然、彼らも彼女達も、私が自裁しないよう監視する役目も負っている。
「お父様、お母様、これまでありがとうございました」
私は見送りに出てきた父と母に頭を下げて、馬車に乗り込んだ。
夜が明ける前に出発する。誰にも見つからないよう、細心の注意を払いつつ。
西の別荘まではおよそ一週間。
私は馬車に揺られながら、これからの自分の人生について、思いを巡らした。
別荘に着けば、私はもう、二度と外に出ることはないだろう。
この頬の傷痕と共に、私は静かに生きて、静かに死んでいく。そんな人生。
それでいい。それでいいのだ。
そうすればもう、誰にも迷惑をかけずに済む。
「……殿下」
無意識に漏れた呟きに、私は驚いた。
そして、胸の奥からまた、怒りの衝動がこみ上げてくる。何て、恥知らず。
次期国王となる彼に恥をかかせておきながら、未だに吹っ切れずにいるなんて。
自分に対する殺意が、怒りと共に噴き出そうになる。
どうして、そんな厚顔無恥な想いを抱き続けられるのだろう。
「止まれ、止まれェ!」
と、叫び声と共に馬車が大きく揺れた。
急停止したからだと気づいたのは、前の方から咆哮が聞こえてきたあとだった。
「何てことだ……」
御者を務める護衛の騎士が、緊迫した声を漏らす。
そして、直後に聞こえる唸り声。それはまるで、あのときの焼き直しだった。
「お嬢様、身を低くしてくださいまし。あれは――」
長年、側仕えを務めてくれている馴染みの侍女が言う。
間違いない。この唸り声の主は、私の頬に傷をつけたあの魔物の狼だ。
「数が多い。完全に道を塞がれてるぞ」
「やるしかないだろう。誓ったはずだぞ、今度こそお守りすると!」
二人の騎士の声と共に、あのときのように戦いの音が鳴り響き始めた。
馬車の中を見れば、侍女達が一様に震えながら身を伏せている。
それもまた、あのときの私のようであった。
一方で、不思議なことに私はあまり怖いとは感じていなかった。
聞こえる音は普通ならば恐怖を駆り立てるような重く激しい音ばかり。
それなのに、心に波の一つも立たない。今の私は完全に冷静そのものだった。
だけど、所詮それは錯覚に過ぎない。
私は感じていた。真の脅威は私の外ではなく、内側にあるのだと。
聞こえてはならない声が、耳元で小さく囁いてくる。
――死ぬなら、今しかない。と。
何と馬鹿げた考えか。
しかし、その声はこうも囁いてくる。騎士や侍女達を道連れにしていいのか。
彼らは、彼女達は、自分などのためについてきてくれた得難い人々だ。
こうして、一緒に旅立ってくれた時点で、私は皆に大きな恩を受けている。
きっとそれは、私が一生をかけても返しきれないほどの恩だ。
これから無為に生きるだけの人生で、そんな恩を受けてどうしろというのか。
共についてきてくれた皆に恩を返せるのは今、このときしかない。
私という縛鎖から皆を解き放つことが、この大恩に報いる唯一の方法だ。
返しきれない恩を返せる、唯一無二の機会。
それは、今の私にとってとても甘美な響きを持っていた。
わかっている。
これはあのときと同じだ。父に『誉れの杯』を求めた、あのときと。
私は、皆への報恩を言い訳にして自分から死にに行こうとしているに過ぎない。
……でも、もういいや。
「お嬢様……!?」
馬車から出ていく私に、侍女が悲鳴をあげる。
ごめんね。こんな女のために、あなた達まで人生を無駄にすることはないの。
魔物の狼の一頭が、私の方へと迫ってきた。
騎士達は、他の狼と戦っていて、こっちに来ることができずにいる。
あと数秒もすれば、狼の鋭い牙が私の喉元に食いつき、私は命を失うだろう。
ごめんね。ごめんなさい。
こんな死に方しか選べない愚かな娘で、ごめんなさい。
私は頭の中で幾度も謝った。
侍女達に、騎士達に、私を想ってくれた父に、母に、そしてあの人に。
視界が歪んで、溢れた熱いものが頬を伝う。
結局、私はとっくの昔に生きることを諦めていたのだ。
私にとって、あの人は全てだった。
あの人の隣にいられないことが決まった瞬間から、この最期は必然だった。
父は貴族に向いていない、そう思った。
でも私こそ、私の方こそが貴族である資格を持っていなかった。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
「……ごめんなさい、殿下」
「謝るくらいなら、最初から俺に心配をかけないでくれよ」
――え?
涙に歪む視界の向こうで、大きな影が躍った。
直後に、すぐ近くで狼の鳴き声。それは何かに弾かれたかのような。
私は手で軽く涙をぬぐって、前に向き直った。
見慣れた背中が、私の前にあった。
もう二度と見ることはできないはずの、誰よりいとしい人の背中。
「泣き止んだかい、アンリエル」
「セシル、殿下……?」
思わず、気の抜けた声で彼の名を呼ぶ。
「ま、積もる話とお説教は後だ。馬車に戻るんだ。ここは任せろ!」
私に言うだけ言って、彼は愛用の長剣を手に、狼の群れへと立ち向かっていく。
「悪いな、君達! 応援は俺一人だが、行けるか!」
「何をおっしゃられる、殿下。俺達二人でも、余裕でしたとも!」
「いかにも。後方でお嬢様をお叱りいただいてもよろしいのですよ?」
騎士達に言われ、セシル殿下が軽く笑う。
「何とも頼もしいが、俺も今は格好をつけたいのでな、聞けない相談だ!」
「それはそうでしょうな。然らば、御存分に力を奮われよ!」
そうして、殿下を加えた三人が魔物の群れに切り込んでいった。
馬車に戻った私は、それをぼんやりと眺めていた。
ワケがわからなかった。
どうして、セシル殿下がここにいるの。何で、何故、どうして?
考えても疑問は深まるばかりで、到底答えは見つからない。
やがて、外から聞こえていた音がやみ、一気に場が静まり返る。
傷ができたときの記憶がぶり返しかけるが、それより早く殿下の声が聞こえた。
「もう出てきて大丈夫だ。安心していい」
その声に、私のみならず、侍女達も揃って安堵のため息をつく。
「お嬢様!」
そして、一番年上の侍女長が、涙目になって私を叱ってきた。
「あなたは、何ということを……!」
「申し訳ない、侍女長。言いたいこともあるだろうが、僕が先に話していいかな」
私の肩を掴んできた侍女長に、殿下が外から声をかける。
侍女長はその言葉に畏れ多そうに身を引き、自由を得た私は殿下に呼ばれた。
「アンリエル、外に来てくれないか」
「は、はい……」
私は従うしかない。
外に出ると、むせ返るほどの血臭が辺りに漂っていた。
殿下も、騎士達も、揃ってその身を血に染めて、私は気が遠くなりかけた。
「安心してくれ、大体返り血だ。けがはほとんどないよ」
そうはいうものの、見た目から受ける凄惨さが凄まじい。
「もし君が死んでいたら、今とは比較にならない衝撃を受けていたけどな、俺は」
「……それは」
私は恐縮し、顔を俯かせる。
我に返った今ならば、はっきりわかる。私は、何という愚かな真似を……。
いや、私のことはいい。それよりも、
「殿下は、どうして、ここに……?」
おずおずと顔を上げて、私は殿下に尋ねる。
彼は、こんな場所にいるはずがない、いていいはずがない人。それなのに。
「ああ、君が隠遁すると聞いて、嫌な予感がしたから飛び出してきた」
「飛び出して、って……」
私は絶句する。
この方は、国を支えるべき次期国王。山のような公務を抱えているはず。
「投げ出してきたよ、全部」
実にあっさり、彼は言った。当然、私はさらに言葉を失った。
投げ出した、だなんて。そんなこと国王陛下がお許しになられるはずが……。
「そうだな」
殿下はうなずく。
「だから陛下に廃嫡してもらった。笑ってくれ。俺はもう、殿下じゃないんだ」
「ど、どうして……、どうして、そんな」
あまりのことに、私は体も声も震わせて、彼に問うた。
すると、セシル殿下はいっそ清々しいと呼べる笑顔を浮かべて、言う。
「決まっているだろう。俺は、君を助けに来たんだ」
「わ、たし、を……」
殿下はまた、うなずく。
「隠遁のことも含めて、君の様子は君の御父上から聞いていた。そして今日、何故か胸騒ぎがしてな。君が、俺に助けを求めてる。そんな気がした。だから、来た」
「だから、って、そんな理由で……」
信じられない。信じがたい。
そんな、ただの直感を理由にして、大事な公務を放り出すなんて。
「俺がいなくても、城には弟がいるからな。あっちは、あいつがいれば何とでもなる。だが、君には俺しかいない。だったら、どっちを選ぶかなんて、明々白々だ」
言って、笑って、殿下は「ん? 待てよ?」と眉間にしわを寄せる。
「待て待て、俺しかいないというのは乱暴な決めつけだな。もしかしたら、すでに頼れる殿方がいるかもしれないのにな。……アンリエル、一応聞きたいのだが」
「そんな人、私にはいません」
私が言い切ると、殿下は子供のようにふにゃりと笑った。
「そうか、よかった。颯爽と駆けつけた結果が道化では、悲しすぎるからな」
「そうではありません。そうではないんです。殿下……」
胸の奥に渦巻いているものを、私は、声に出す。
「どうして、私なんかのために、自分の将来を捨てるようなことを――!」
「決まってるだろ」
それに、セシル殿下はまっすぐに私を見つめ、答えた。
「君のためだからだ」
心臓を、射貫かれた気がした。
その言葉は私の心に届いて、蕩けそうな甘さを伴って髄へと沁み込んでいく。
「アンリエル。多分だけどな、君は勘違いしているよ」
「わ、私が、勘違い……?」
「そうとも。ずっと俺が頑張ってきたのは、国の未来のためなんかじゃない」
あの頑張りが、私が見てきた彼の努力が、国のためではない?
じゃあ、殿下は一体、何のために――、
「君に、カッコいいところを見せたかったからだよ」
「そんな……」
目を瞠る私に、殿下は照れくさそうにはにかみながら「バカだろ?」と笑う。
「でも、本当のことだ。俺にとっては、それが全てだったんだ」
語る殿下の瞳はあまりにまっすぐで、嘘でないことは一目見ればわかった。
「殿下、でも私は、もう、あなたの婚約者では……」
「それでも俺は君が欲しい。君が隣にいないなら、俺は、王になどならない」
まっすぐな瞳のままで、まっすぐにとんでもないことを言う。
しかも彼は、すでにそれを実行済みだ。
廃嫡されたというさっきの言葉が、私の心に、あまりに重くのしかかる。
「私の、せいで……」
「違うな」
だが彼は、そんな私の心を読み取ったかのように言って、かぶりを振った。
「君のおかげで、俺は自分の心に答えを出せたんだ」
さらに殿下は今度はいたずらっ子のように笑って、
「それと、あの野郎に意趣返しをすることもできたしな」
「あの野郎、って、陛下ですか……?」
「城を出る前に、母上に俺が掴んでいたあいつのやらかしをブチまけてやったよ」
何か、殿下がすごいことを言い出した。
「あいつは、王としては有能だが親としてはクソだからな」
「あの、殿下、そのやらかし、っていうのは……?」
「愛人に、隠し子に、隠し財産に、まぁ、他にも色々とな」
そう言う殿下の顔からは、何とも毒々しいものが溢れていた。
そういえば、昔から陛下は王妃様にだけは頭が上がらないんだったっけ……。
「今頃、王宮はしっちゃかめっちゃかだろう。特に隠し財産など、関わっている人間が多すぎる。さて、何人が牢にブチ込まれるか。――っと、もう俺には関係ない話だし、これ以上は君の耳を汚すだけだな、忘れてくれ」
彼は溌剌と言い切った。
知らなかった。殿下が、こんな思い切ったことができる人だなんて。
「……殿下」
「そんなことより、俺の左頬を見てくれ、アンリエル」
言って、殿下は血を拭った自分の左頬を私に向けて示す。
そこには、大きな傷が刻まれていた。
「殿下、おけがが……!」
「解毒剤は持ってきてたから、心配はしないでいい。ま、跡は残るだろうがな」
殿下の顔に、傷が。私と同じ、消えない傷痕が……!
「君を守った、誉れの傷だ。俺にとっては、一生の自慢の種だな」
「え……」
声を出す私の右頬を、伸ばされた殿下の左手が触れた。
「これで俺は、君と同じだ。アンリエル」
「セシル、殿下……」
殿下の瞳に、泣きそうな私が映り込んでいる。
映り込んでいる私の瞳に、優しく微笑む殿下が映り込んでいる。
「君を愛している。どうか、俺と一生添い遂げてくれ」
その言葉は、私が何よりも待ち望んでいたもの。
全身を、歓喜の熱が満たしていく。
あれほど強かった死への願望が、嘘のように消えていく。
こみ上げてくるものを抑えきれず、私は涙をあふれさせて笑い返した。
「心よりお慕い申し上げます、セシル様」
騎士達と侍女達から祝いの声を受けながら、私と彼は強く強く抱きしめあった。
これは、私と彼に刻まれた、消えないきずあとの物語。
――誰よりもいとしい人の腕の中で、私は声をあげて泣いた。
読んでいただきありがとうございます!
よろしければブックマーク、評価いただけましたら、今後のモチベーションに繋がります!
よろしくお願いいたします!
新作を公開しました!
このページの下部にリンクがあるのでよろしければご一読ください!