決起の夏
『前略 新谷一樹 様
ずいぶんご無沙汰してます。三浦です。お元気ですか?
こちらの生活が一段落したので、お手紙させていただきます――――』
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夏休みも近づいた7月のある日の夕方。
扉を開けると、昼間の熱気をたんと溜め込んだ部屋の空気が俺を出迎えてくれた。
「あっちぃ……。窓ぐらい開けとけばよかった……」
温室サウナと化した我が部屋に悪態を付きながらも、俺はいつものように机の脇にバッグを置く。
「ん? これは……」
と、ふと視線を移した机の上に一通の手紙が置かれている事に気付いた。
手紙の裏に書かれた差出人の名前は、俺のよく知る名前だった。
手紙の差出人と出合ったのは約一年前。俺が高校二年という人生で最も華やかなりし年の夏休みをバラ色で彩るべく、入念に計画し実行に移し――。
『えっと……君、誰? ごめんね、名前も知らない人とはちょっと……』
そして、見事に玉砕した、その日だった。
完璧な計画だと一人浮かれていた自分のあまりの滑稽さに、俺は逃げるように学校を飛び出した。
ひたすら自転車を飛ばし、普段は滅多に訪れない川向こうにある公園にまで来て、そこで初めて彼女を見た。
小麦色に日焼けした顔とショートカットが活発な印象を与える女の子。
日が陰ってきたのも気にせず、彼女は一人真剣な表情でボール追いかけている。視線の先には仮想の敵でもいるのか、フェイントやよく知らないボールテクニックを何度も繰り出していた。
俺はいつの間にか公園のベンチに腰掛け、無意識にその姿に見入っていた。
と、そこへ強烈な一撃をもらった。
「えっ!? う、うわ、ごめん!」
「いってぇ……」
「えっと、大丈夫……?」
「だ、大丈夫。これくらいなんともないよ」
人がいると思っていなかったのか、彼女の蹴ったボールはぼーっとその姿を眺めていた俺の顔面へと直撃した。涙で霞む視界にうつる彼女の心配そうな顔に、俺は男ならばこんな小さなことで怒りを露わにしてはいけないと、よくわからないプライドを発揮し、平静を装いつつ笑顔でそう告げた。
「そか、よかった。気をつけてね。そんなとこでぼーと座ってると危ないから」
だが、当の彼女は俺の気遣いMAXな笑顔をまったく意にも介さず、点々と転がるボールを拾いあげると、さっさと定位置へと戻りボールと戯れ始めた。
普段は紳士として鳴らす俺だが、さすがにむっと来た。
「……なるほど、そういう態度で臨まれると」
俺はベンチから立ち上がり、無造作に彼女に近寄ると、すれ違い様にするりとボールを奪った。
「え……?」
彼女の間抜けな声が後ろから聞こえる。中学時代までFCクラブで鍛えたスキルは、まだまだ衰えていない。
「むきー! かえしてよ!」
必死でボールを取り返そうと迫ってくる彼女を、何とかやり過ごす。こちらは革靴制服に2年のブランク。一方の彼女は多分現役の女子サッカー部員だろう。ハンデ、とは言わないが現時点での実力の差は感じられない。
俺がボールをキープし、彼女が奪い返そうとアタックをかけてくる。1対1の攻防がしばらく続いた。
「はぁはぁ……なかなか、やるな」
「くっそ、返せ!」
彼女は女性とは思えないほどうまかった。何度もボールを取り返されそうになった。
どれくらいそうしていただろう。もうあたりはすっかり暗くなりボールがはっきり見えない。ボールが足に触れる感覚だけでまわすのにも限界があった。
今日はこれまで。
そう思った俺は、彼女の隙をつき、天高くボールを蹴り上げた。
「あんた、うまいね。私の完敗」
「はは……。それほどでもないよ」
出た言葉とは裏腹に体力は限界だった。俺はぺたんとその場にしりもちを付いてへたり込んだ。
「また明日もやろうよ。来るよね?」
彼女は当然とでも言うように、俺を見下ろしそう言った。
「ああ、勝ち逃げされちゃサッカー少女の名前に傷が付くだろ?」
また余計なプライドが出てしまったと、言葉に出してから気付く。
「ふん! 明日は容赦しないからね!」
だが、彼女はそんな事一切気にしない様子で、ビシッと俺に人差し指を突きつけてきた。
宣誓と共にじっと見つめてくる彼女の視線はとても、とてもまぶしかった。
それから放課後は俺達の秘密特訓の時間になった。聞けばこのサッカー少女の通う高校には女子サッカー部がないそうだ。だから彼女は一人公園で練習していたのだという。俺はクラブで覚えた技術を彼女に教えてやると言って、練習に加わった。でもそれはただの方便。彼女と過ごす時間は俺の中でかけがえのないものになっていた。
クローゼットの奥にしまい込んでいたシューズを掘り出し、なけなしの小遣いでトレーニングウェアも新調した。学校の授業中もそわそわと落ち着かない。終業のチャイムが鳴ると同時に教室から飛び出し、自転車に跨った。
そして、公園で会えば毎日毎日、陽が沈むまでボールを蹴り合った。
夏休みに入っても秘密特訓は続いた。学校が無い分、たっぷりと時間が取れる――と思っていたのだが、昨今の異常気象が俺達の前に立ち塞がった。
「熱中症には気を付けないとダメ!」
サッカーの事しか考えてないと思ってた彼女にも、なるほどその程度の知恵は回るのか、と感心した。
思わず声に出してしまい、再び顔面ボールを頂戴したのはいい思い出だ。
結局、二人で相談し日差しの強い昼間は、近くの公民館で大量に出された夏休みの宿題を片付ける作業を行う事となる。
それでも俺には不満はなかった。日がな一日彼女と一緒に居られるから。
夏休みが終わり新学期に入っても秘密特訓は続いた。秋に入り、一度だけ――ほんのちょっとした気の迷いから――学園祭に誘ってみたのだが、え? うち普通にその日授業だし。と身の蓋もない断られ方をした。
季節が冬になっても、相変わらず放課後の秘密特訓は続けられていた。この半年、彼女の成長はすさまじいものがあった。もう、俺には教えることは何もない。と、上から目線で何度も告げたのだが、まだまだ! さぁ、次いくよ! と、取り合ってもらえなかった。
そして、年を越し、終業式を終えた。
「ふっはぁ! もう動けねぇ……」
「わたしもぉ……」
終業式だというのに、当たり前の様に公園で汗を流した俺達は、二人仲良くグラウンドに倒れ込んだ。
既に彼女の実力は俺と対等。いや、もしかしたらそれ以上かもしれない。まぁ、高校で挫折した俺と対等なんて言われても、彼の嬢は嬉しくもなんともないだろうけど。
「なぁ、春休みはどうする? 宿題でないし、何なら、毎日朝からでも――」
「え、あ、うん。そうだね。どうしようか」
「え?」
思わず口に出た。彼女なら即座に肯定してくると思ったから。
「えっと、今日は遅いから。とりあえず、またね」
「お、おう……」
さっさと帰り支度を始める彼女。俺は汗に濡れたその背中を見つめることしかできなかった。
それから春休み中、彼女からは一度も連絡は来なかった。
新学期に入り、俺は最高学年になった。新しい教室、新しい教科書、新しいクラスメイト。いつもの年であれば多少の期待と多大な不安に支配される時期なのだが、俺には
春休みの間、俺は何度もあの公園に足を運んだ。しかし、一度として彼女に会う事ができなかった。
4月に入り、春休みも残り1週間を切った日の事。俺は再び公園へ訪れていた。
「いない、よな……」
やはり彼女の姿はない。俺は自分でもわかるくらい肩を落とし、公園を後にしようとして、
「今日はサッカー、やっていかんのか?」
背後から突然声をかけられた。
振り向いた俺の前には、杖を突く一人の老人が立っている。
「え、えっと?」
知り合いだったっけ……? いや、たぶん知らないと思うけど……。もしかして、遠い親戚の――。
「一人になっちゃ、つまらんか」
そんな考えが、その言葉で吹き飛んだ。
一人になっちゃ? なんで、そんな言い方を。
俺は思わず爺さんに詰め寄った。
俺達二人はこの公園周りでは結構有名人――というか、毎日来てれば有名にもなる――になっていた様で、爺さんの言うには3月の終わり頃、彼女は突然引っ越したのだという。彼女も何度かこの公園に顔を出していて、爺さんはその時に聞いたそうだ。
親の仕事の都合だそうだ。引っ越し先は二つ向こうの県。高校生の俺にとっては遠すぎる場所だった。
「そうか……。もう、会えないのか」
この時、俺の中で何かが終わりを告げた。
1学期。受験を控えているからだろうか、教室はどことなくピリピリとした雰囲気に包まれている。
そんな中で、俺だけが一人取り残されている、そんな感覚が常にあった。ふと気が付いたら、無意識に川向こうの公園の方角に視線を向けている自分がいる。
あの公園に行けば会える。そう思い込んでいたから、彼女の連絡先を聞いていなかった。その事を何度も自責し後悔した。直接会いに行くという考えがなかったわけではない。ただ……会いに行く言訳を思いつかなかった。
そんな悶々とした日々を送り、そして、また夏がやってきた――。
●
「なんで……なんで今頃」
最後に会ってから4カ月。もらった手紙の内容は、新しい街や学校のこと、クラスメイトのこと、サッカーのこと。今彼女がおかれている環境についてとても丁寧に書かれていた。彼女の字を見るのは久しぶりだった。性格に似合わずかわいらしいその文字を見るだけで、俺の心は自然と踊った。
そして、最後の一文。
『また会いたいね』
俺はその最後の一文から、しばらく目が離せなかった。
手紙が届いてから数日、夏休みがはじまった。
俺は机に向かうと、買っておいたレターセットを取り出し、返事を書き始めた。
『前略 三浦真帆 様
お手紙ありがとうございます。新谷です。
夏休みになりましたね。そちらの夏は熱いですか――――』
もらった手紙に倣い、こちらの近況を報告する。普段、手紙なんて書かない、というか書いた記憶がない俺だったけど、なぜか筆は自然と進んだ。自分の中にどれだけ伝えたいことが詰まっているんだと、自嘲しながら。
便箋の2枚目が文字に埋まり3枚目に入ると、俺は本当に伝えたかったことを書かいた。
あまりの内容に、見返す事すら恥ずかしかった。
そして、思いの丈を吐き出したあと、最後の一文にこう書いた。
『この手紙があなたに届かないことを願って』
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「次の時間は……11時45分か」
手紙を投函し終え、ポストの横に記されている回収時間を確認すると、あと5分ほどでその時間だった。
「ふぅ」
これは勝負。意気地なしの自分に課した制限。手紙が彼女の家に着く前に到着して、彼女に想いを伝える。手紙ではなく、自分自身の口から。
自己満足なのはよくわかっている。こんなことをしたからといって成功率に変動があるとも思っていない。ただ状況を作りたかった。弱い自分を追い詰める状況を。
「さぁ、回収に行きますかっ!」
俺は愛車に跨り、二つ向こうの県へ向け、一気にペダルを踏み込んだ。