奇妙な噂
たっぷり時間を掛けて髪を乾かし、梳かした俺はくせ毛とは思えないほどのスルスルと解ける髪に軽い感動を覚える
「おぉ~」
「真白様は髪質自体はとてもよろしいですから。絡まってしまう前に定期的にブラシをかけることをおススメします。毛先だけやるだけでも、全然違いますから」
歓声を上げて髪の毛を弄っていると、美弥子さんに普段のメンテナンスについてアドバイスをもらい、次から実践してみようと心に決める
いや、普段は短いからやる必要は全くないのだけど。……男に戻ったら、髪も元に戻るよね?
「じゃあ、戻りましょうか。そろそろ玄太郎さん、私の夫も戻ってきているでしょうから」
全員の用意が済むと、ゾロゾロと揃って脱衣所から出ていく。どうやら、墨亜と千草の父で光さんの旦那さん。この豪邸の主である玄太郎さん、と言う人も帰って来る頃合いらしい
大企業のトップクラスの人が、随分早い帰宅なような気もする。窓から窺える景色が赤く染まっている事から、時刻は夕方。多分19時前とかだと思う
普通の父親が帰って来る一般的な時間と言う物が、生憎俺にはよく分からないためこの時間に帰って来るのが早いのか遅いのか、判別がつきづらいけど、世間一般で聞くともっと遅い時間に帰って来ているようなイメージだ
「今日はパパ早く帰って来る日なんだよ!!」
「あー、そういう事か」
墨亜の話を聞くに、どうやら今日は所謂ノー残業デー、と言うやつなのだろう
この街にある支社のトップを務めているであろう、玄太郎さんが率先して帰らないと、部下の人達は帰るに帰れないはずだ
そうなるとこの時間に帰って来るのも頷ける。普段はもっと多忙で、中々顔を合わせることも難しいのだろう。笑顔の墨亜を見ていれば、なんとなくそんなことも予想がつく
「お義父様にも真白の事は連絡が行ってるはずだからな。多分、帰って来たら顔を合わせることになるが……、無理はするなよ?」
「?」
何故か心配そうにこちらを見る千草に、俺は首を傾げて応えるが本人から返って来たのは何とも曖昧な笑みだった
父親に何か難があるのだろうか。いや、それだとしたら美弥子さんか光さんが何か言いそうなものだけど
「真白様。もし、何か体調が優れなくなった等がありましたらすぐに申してくださいね」
「わかりました。……何かあるんですか?」
「いえ、無いに越したことは無いのです。もしもの事を想定して、ですので今はお気になさらないで下さい」
「はぁ」
そう思っていたら、美弥子さんから体調の変化があったらすぐ言うようにお願いされた
迷惑を掛けている以上、あまり言いたくはないが、黙っていて何かあったらそれはそれで問題になる。それも考えれば当然のことなのだが、どうにも過保護が過ぎる気がする
どちらかと言うと、問題があるのは墨亜達の父よりも俺の方のような、そんな感じだ
「んー?」
なにかあっただろうかと首を捻りながら、俺は車椅子を押されながら考え込むのだった
その考えこむ時間もすぐに終わりだ。如何に豪邸と言えど、移動に数分かかるような不便な家はあまり実用性が無い
どちらかと言うと機能性を求める傾向が多い日本人は、お金持ちでもこの傾向が多い。端的に言うと、過剰に大きすぎる家は早々無いという事だ
まぁ、家を過剰に大きくするほど、建物を建てる土地が広くないとも言うのだが
ともかく、俺が眠っていた部屋だと思われる場所まで戻って来た俺達は、美弥子さんが扉を開け、中へと入って行く
「おっ、全員風呂から上がって来たな。先に寛がさせてもらっているぞ」
すると中から聞き覚えの無い男性の声が聞こえて来る。落ち着いた、低めのバリトンボイスだ
優しそうな声で語り掛けて来たその声の主に目掛けて、墨亜が駆けていくのが視界の端に映る
「パパー!!」
「ははは、元気だな墨亜。ただ、遊ぶ前にお客さんに挨拶をさせておくれ」
「真白お姉ちゃんでしょ?優しいんだよ」
「そうか、真白と言うのか。自己紹介が遅くなって申し訳ない。私は諸星 玄太郎。光の夫で、千草と墨亜の父だよ。どうかよろしくね、魔法少女アリウムフルール」
害意の無い、感じようもない優しい声音と表情に、自分の胸が早鐘を打っているのは、なんでなんだろうか