奇妙な噂
終始和やかな雰囲気で場が満たされる中、そう言えばと千草が口を開いて、美弥子さんに問いかけた
「お義父様とお義母様にも、真白が起きた連絡は行っている筈だが……」
「旦那様と奥様は、いらしていたお客様のご対応をしております。もう間もなくお越しになるかと思いますが――」
美弥子さんがそれ答えている真っ最中、部屋の扉が盛大な音を立てて開いたかと思うと、そこには一人のドレススーツに身を包んだ女性が、扉を開け放った状態でこちらを見ていた
対するこちらは突然の事に呆然とするしかない。えっ、何事
「あー、お義母様。彼女は目が醒めたばかりだから、あまり勢いに身を任せたことは――」
頭を抱えている千草は、眉間を揉み解すような動作をしながらその女性を諫めている
様だが、女性は聞く耳持たず、と言った様子でズンズンと、俺目掛けてやって来た
あまりの気迫に、スコーンに夢中になっていたパッシオが、スコーンを抱えて逃げ出す。いや、スコーンは置いて行けよ
「え、えっと、初めまして?この度は、誠にありぎゃむぅ?!」
俺だって、無言で目の前にやって来た気迫マシマシの女性にはビビるしかない。その上逃げられない、と言うかこれで抜けてる足腰が更に立たなくなりそうだ
普通に怖い、とか思いつつ自己紹介とお礼を言おうと思ったら、むんずと両頬を女性の両手で包まれ、ズイっと更に顔を近づけさせられ、目線を強制的に合わさせられる
「???」
何がどうなっているのかさっぱり分からないまま、ずっと目の前の女性を見つめながらどうすれば良いのか考えていると、また唐突にぎゅうっと抱きしめられた
「よく頑張ったわね」
「うぇ?」
抱きしめられた上で、耳元で突然労われる。少々のムズ臭さは良いとして、特に労われる理由に心当たりも無いからもうひたすら頭にはクエスチョンマークしか出ない
それでも、女性は言葉を発し続ける
「怖かったでしょう?寂しかったでしょう?辛かったでしょう?でも、もう大丈夫、大丈夫よ」
冷静に聞けば聞く程、急にやって来て、急に何を言い出すんだと思うが、それよりも、女性のその言葉が、スッと何故か頭に入って来る
まるで隙間を縫うように、間を埋める様に入ってきた言葉を、俺は拒むことなく、ただ聞き始めていた
「『もう、貴女は一人じゃない。』一人にさせないわ、怖い思いも、寂しい思いも、辛い思いもさせない。しても、直ぐに忘れさせてあげるくらい、素敵なことを一杯しましょう?だから、我慢しなくて良いわ。頑張らなくて良いわ」
女性が言葉を紡ぐたびに、抱きしめる力が強まっていく。正直痛いくらいだ。それでも、俺は振りほどかない、振りほどけない
それどころか不思議と、女性の身体にしがみ付くように腕が伸びていく
人の体温にここまで意識して触れるのは何時ぶりだろう。人の言葉にここまで揺り動かされるのは何時ぶりだろう
脳裏に浮かぶは今まで付きつけられた無情な現実ばかり。どうして俺ばかりと嘆いたこともあったどうしようもない事実。覆り様も無い、理不尽
――あぁ、きっと、この人の言ってくれている言葉は
「一人になろうとしないで。嫌なことは全部、泣いて忘れちゃいましょう?私は、絶対に貴女の味方よ」
俺が、ずっと言って欲しかった言葉ばかりなんだ
それが分かった瞬間。留め金が外れたかのように、俺は人目も憚らず大声で泣き出した
一体どれくらい泣き続けたのだろうか。泣くのに乗じて何だか取り留めのない事を叫び散らしたような気もする
「良い子ね。沢山吐き出せて、偉いじゃない」
「ううっ、恥ずかしい……」
ようやく落ち着いた頃、冷静に頭が回り始めた時には、女性に抱きしめられたままポンポンと頭を撫でられ、子供のようにあやされていた
ううぅ、それをやるのは何時もなら俺の方なのに……
「恥ずかしくなんて無いわ。ただ、その顔で人前には出られないわね」
「すっかり泣き腫れてしまっていますね。後でクリームをお持ちします」
残った涙を指で拭われ、恐らく真っ赤になった目元とその周辺を見て、女性はあらあらと笑みをこぼす
で、結局この女性は誰なのだろうか
「さて、自己紹介がまだだったわね。私は諸星 光。千草と墨亜の母親よ。アリウムちゃん」
パチンとウィンクを決めて、自己紹介をした彼女が千草と墨亜の母親に当たる人らしい
……俺は人様の母親の胸で大泣きしたのか