お袋とウチと親父候補
インテリ眼鏡もお袋の前の席に座ってふぅと息を吐く。よく見ると少し汗をかいているような気もする。
「すみません。こういう席は初めてでして、俺も実はものすごく緊張してるんですよ」
「じゃあ余裕なのは私くらいかしら?」
「お袋だって家出る前は緊張してたクセに……」
余裕ぶって頬杖をつくお袋の家での様子をバラすとちょっととお袋に咎められる様な視線を向けられるけど、ウチは知らんぷりしておく。
ウチのことを散々弄ったんだから、お袋だってちょっとは恥ずかしい目に合うべきだ。
そんな母と娘の攻防に、インテリ眼鏡も小さく笑い声をあげると場の雰囲気が一気に和らぐ。
「緊張してない人なんて一人もいないってことね。逆に気が楽になったかも」
「ですね。今日は貸し切りにしましたから、お互いもっとリラックスしましょうか」
「貸し切り!?すげ……」
皆で笑ってる中でインテリ眼鏡が驚きの発言をする。
この高級ホテルのレストランを貸し切りって金持ちはやることが違うな。常識ってのが通用しない、ウチが今までいた世界とは全然違う場所で生きて来た人なんだと思う。
お袋も元々はそういう世界で生きてた人間らしいし、金持ちってのはそういうもんなのか?
「しかし凄いわね。ホテルごと貸し切るなんて」
「ホテルごとっ?!」
前言撤回。完全におかしい。
レストランの貸し切りは百歩譲っても庶民にも理由が分かるかもだけどホテルごとは意味不明だ。全然理由が読めない。
いや、えっ、だってウチらが使うの精々このテーブルと行きと帰りに通るエントランスから入り口までだろ?
たったそれだけのためにホテルごと貸し切るってマジか。
このインテリ眼鏡、確かにぶっ飛んでやがる。やることがメチャクチャだ。
「あぁ、ディナーが終わったらホテルのロイヤルスイートで休んでもらおうと思ってね」
「ロイヤルスイートっ?!」
もうやることなすこと規格外だ。泊まるのも初耳だけど、その部屋がロイヤルスイート。
もうどんな部屋か想像も出来ない。
いや、飛びっきりの金持ちの諸星の部屋に泊まったことがあるから多分ああいう感じなのかも知れないけどあれはあくまで個人の家で、客人が寝泊まりするだけの部屋って感じだった。
ロイヤルスイートともなると部屋の広さも部屋の数もホテルとは思えないものなんじゃないかと思う。
諸星の体験が無かったらどうすればいいのかわからなかったに違いない。
「凄いサプライズね。明日が休みじゃなかったらどうするつもりだったの?」
「もちろんスケジュールを把握させていただいて、しっかり裏付けをしてからの采配です。あ、それと勿論俺の方は別室で部屋を取らせてもらってますからご安心を」
いや、何も安心が出来んが?と頭の中で突っ込みを入れつつ、驚きと緊張で乾いた喉を潤すために水を一口飲む。
水の入ったグラスも、家にあるようなありきたりな円柱状のグラスじゃなくて、ワイングラス、だと思う。詳しいことはさっぱりわからないから多分そうだとしか言えない。
そうやって会話も弾みだしたところで、ウチはインテリ眼鏡の名前だとかを知らないことに気が付いて、でも聞いて良いものなのかもわからないから、チラチラとお袋とインテリ眼鏡の顔を交互に見ていると、お袋がその視線に気付いて首を傾げた。
「いやさ、名前とか知らねぇなって思って」
「あぁ、そういえばアオにはまだ教えてなかったわね」
「これは失礼しました。俺もやっぱり緊張してるんですね、こんな基本的なことを忘れてるなんて」
ここがチャンスだと聞いてみると、そういえばと大人二人が口を揃える。
インテリ眼鏡が謝りながら胸ポケットをごそごそと漁ると平たいケースからカードみたいなのを取り出すとウチに差し出してこう言った。
「改めまして、俺の名前は諸星 翔也。諸星商社の社長を努めさせてもらってるよ。よろしくね、碧ちゃん」
もう何度目かもわからない驚愕の事実に、いよいよウチは頭がくらくらしてきた。




