秘密
恋は盲目というのか、そんなことに気が付いていながらも、彼がそんなことをするはずないと勝手に決めつけていた当時の私をぶん殴ってやりたいものだ。
結果として、碧を身籠ったことを告げた数日後、その男は忽然と私の前から姿を消して、私を二度目の絶望に叩き落とした。
一度目は実家にこのままいれば飼い殺しにされると分かった時だ。実家は古い家柄で、いわゆる古典的な考えを持つ一族だったから。女に生まれた私に基本的に自由は与えられてなかった。
そんな実家からようやく飛び出したと思ったら、その矢先に信じていた人間の裏切り。頼れる友人もいないと絶望の淵で嘆いてた時に偶然再会したのが、小学生時代に家を抜け出しては一緒に遊んでいた、近所の家の子供だった朱里と由香だった。
幼馴染ともいえる二人の大事な友人に支えられ、私は何とか持ち直し、碧を産み、子育てしながら大学を卒業して、今の職に就いた、というわけだ。
「まいったな」
「……ご心労をかけてしまうようでしたら、私から翔也兄さんに伝えますが」
「いや、大丈夫だ。恥ずかしい話だけど、この歳でそういう経験がないからさ。私も混乱してるというか、今は考えがまとまらないんだ。悪い気はしない。ただ、本当にどうすればいいのかわからなくてな」
口にしてから、教え子に何言ってんだかとまたため息を吐く。
思春期真っ盛り、これから恋愛経験値を貯める年頃の子供に、20歳ほど離れているおばさんが同じ目線に立ってもしょうがないというか、情けないというか。
そんなことを相談されても彼女たちも困ってしまうだろうに。
「雫先生は翔也お兄さんのことどう思ってるの?」
「おい、墨亜」
「あぁ、いいって。まぁ、そうだなぁ」
頭を悩ませては悶々としているところに、墨亜が子供らしくド直球の質問を投げつけてくる。それを千草が諫めているけど、私からすれば考えを纏めるのにはちょうどいい質問だ。
真白はパッシオを撫でながら、聞き耳はしっかりこちらに向けている雰囲気。
案外、女子らしく色恋話には敏感なようだ。
「何度言うけど、悪い気はしない、だな」
「それって嬉しいの?なんでもないの?」
「むむっ」
そう、悪い気はしない。色々な物事を総合的に考えても、ああしてストレートに好意を示されるのは私としては好感が持てる。
ただ、それが嬉しいという感情として表面に出して良いのか、というのが私が内心に抱えている悩みというか、迷いのようなものなんだと墨亜の二度目の質問で思い至った。
これが学生時代なら、きっと二つ返事だったのだろう。実家にいたとしても、両親は飛んで喜んでいただろう。
ただ、今の私の立場や年齢が彼の好意を真正面から受け止めて良いのか、迷わせていた。
まず、年齢差。10は離れているだろう。10歳となると結構な差だ。価値観も違うし、世代も違う、話がかみ合わない可能性が十分にある。もちろん、10歳くらいの年の差婚は世の中にはあるのだろうけど、いきなりOKを出せるほど、私の肝は座っていなかったらしい。
次に実家の問題。私は村上工業という企業、血を辿ると旧財閥や華族に名を連ねた家系の生まれだ。
そこを飛び出した一人娘が諸星の長男を捕まえたとなれば、必ず実家が動く。
確実にややこしい話になるだろう。こうして向けてもらった好意をそんなもので無下にはしたくない。
それに付随して、碧の存在を実家に知られたとなれば、力づくでも碧を上流社会に引き込む可能性もある。
一番避けたいのはそこだ。碧は私と同じで上流社会の雁字搦めになりやすい世界には向いていないだろうし、連れていきたくない。
価値観も私と違い、根っからの庶民のそれだ。その点を考えると、千草や真白はよくあの世界に馴染めているなと感心するところだ。




