なんてことない日常のひと時を
誰が言ったか、風呂は命の洗濯である、と。
まさしくその通りだと私も思う。お風呂に入るとその日一日の疲れや嫌な事をすっきり洗い流して、気持ちのいい気分で明日への準備をすることが出来るから。
とカッコつけては言ってみるけど、一日の疲れも何も今日は朝風呂。昨日入ってなかったから朝入っただけの話なのだけど、朝のお風呂はそれはそれで格別であると私は思う。
「はふぅ……」
「すっかり蕩けきってるわね」
完全に気の抜けた声を出しながら、肩までしっかり浸かっている私は大きな浴槽の壁に身体を預けながら芯まで温まって行く身体をしっかり感じ取っていた。
それを見ながら、湯船に浸からずに浴槽の淵に腰かけて足だけ浸かっているのは朱莉だ。
他の面々は同じように肩まで、あるいは胸辺りまでしっかり湯船に身体を沈めている。
「しかし意外だな。朱莉が水がダメとはな」
「昔ちょっとな。それ以来ダメでよ」
お湯にふよふよと大きな脂肪の塊を浮かばせて肩を揉む千草が、朱莉を見ながらそう口にする。
それに応えたのは碧ちゃん。どうやら、昔というからには多分本当に幼少期の頃だろう。その時に、水に関する何かが朱莉ちゃんの身を襲ったらしく、それ以来水がダメらしい。
「ごめん、折角お風呂まで用意してもらったのに。ウチのお風呂なら大丈夫だったから、大丈夫だと思ったんだけど……」
「気にしなくていいよ。私も分かるよ、その感覚。自分だけじゃどうしようもないよね」
申し訳なさそうにしゅんとする朱莉に、私もその感覚がよく分かるから気にしなくていいと答える。
私がASDによる対人恐怖や男性恐怖を感じる様に、朱莉はそれが水。これはもう本人の意思どうこうの話じゃない。
私なんて言うのは随分まともになった方で、信頼できる誰かがそばにいるならギリギリ何とかなるけど、朱莉はおそらくは水面の広さで、その潜在的な恐怖を感じてしまうかどうかが決まるみたい。
自宅の浴槽では普通に入れるらしいから、この諸星家の大きなお風呂ほどになるともうダメなのだろう。
「大変っすね。ボクはあんまりそういうのないっすけど、やっぱりある人にはあるんすね」
「朱莉お姉ちゃん寒くない?お湯かける?」
「あ、墨亜ちゃん。それは私がやるね」
同情、という訳ではないけど、こればかりは本人にしか分からない感覚だ。同じような潜在的恐怖を感じる人でも、微妙な差異がある事が多くて治療するには根気強いカウンセリングがいる。
そもそも治るかどうかも分からない。私みたいに完全に後天的になる人もいれば、先天的にダメな人も中にはいるようで、やはり難しい話だ。
重要なのは、周囲がそれにしっかりとした認知や協力、理解をすること。決して、こういった疾患を持つ人に冗談半分でその症状を引き出させる行為をしてはならない。
場合によってはパニックによって半狂乱状態に陥ってしまったり、ショックで本当に身体機能に障害を引き起こす可能性もある。
そういう意味では、自然と墨亜の幼い気づかいを優しくフォローする紫ちゃんの存在や、私を日頃からフォローしてくれている千草の存在は本当にありがたい。
「お湯かけるね」
「うん、大丈夫」
ああやって、苦手な水ないしお湯を他人の手を使ってかける時は事前に声かけが必要なのだろう。雨つぶや飛沫ならともかく、風呂桶や小さなバケツ程の水量をいきなりかけられたら、朱莉はびっくりして跳びあがるに違いない。
私も、いきなり知らない人が前に出てきたら一目散に千草のところに行くしね。
「生活に支障はないのか?」
「水面を見るくらいなら平気よ。本当に入ったりするのがダメなのよ。プールとかはもうダメ」
「一回、それを分からない奴が根性が足りないからだとか言って、朱莉をプールに蹴落としてな。ぶち転がしたわ」
「あれは大変だったんですよ、色んな意味で」
それは確かに色んな意味で大変そうだ。
どんな立場の人が言ったのかは知らないけど、絶対にNG。虐待と言われてもおかしくない。
その後にその人を碧ちゃんが多分ぼっこぼこにしたのも大変な騒ぎになったことだろう。
色んな人が頭を抱えたんだろうなぁ。