プロローグ:うちの扉を開けたら異世界だった。
――神の救済を開始する。――
――神の試練を開始する。――
――神の名の元、苗木優伸を異世界に召喚する――
――2/14 PM:16:54:32――
少年は足早に、自らの生家生まれ育ったその家を目指す。
引篭りが故だろうか、男にしては少し長い黒髪を揺らし、不満げに黒の瞳を伏して。
久しぶりに、外へ出るからと久々に梳かした髪はわずかに光を帯びている。さほど太っていないせいで、その後ろ姿は女のようにも見えるだろう。少年は内心、なれることはするものではないと嘆息する。
「早く帰ってゲームしてぇ……」
不満げに漏らすその声は、未だ春遠く冷たい風に白い煙となって彼方へと消えて行く。
既に全て葉を落とした木々は、もはや路面にその枯葉を落とすことなく。落ちた枯葉は既に片付けられて何処にもなく。殺風景で、退屈な都会の街並みがどこまでも続いている。
焦げ臭く、乾いた都会の空気はどこまでも冷たく。西の空から、真っ赤に燃える夕日が差し込むも僅かな温もりを、乾いた心で保てるはずもなく。故に、凍えぬように冷え切った外気から逃れるべく、その足を早く運ぶ。
歩道を歩く少年を追い越す車の影、幾多と連なり、科学の毒を撒き散らす。
「げほっ……ごほっ……。あぁ、くせえ……」
少年は苛立っていた。自らの足が遅いことに。早く家に帰りたいのにも関わらず、それを嘲笑うかの如く、車は少年を追い越していく。願わくば、載せてもらえるのなら少しは暖かいだろう、徐々に暮れる日差しが少年の心を急かす。
三番目の角を左、その次に右の路地。それが少年の帰り道である。無機質なコンクリートの囲いが、家々の領地を仕切っている。鎮座する、壁は入ってくるなと言っているようである。
実際、そうなのだ。その囲いの内は、家主の所有地である。入れば、不法侵入で手首に鉄の曲輪を巻かれることだろう。そう、俗に言う逮捕である。
少年には、一度その経験があった。団地への侵入である。団地の敷地は広く、まるで公園のようになっている。普段あるかない少年が、その公園のような場所で休んでいると住人の誰かが通報したらしい。運悪く、凶悪犯罪対策課の警察官が暇を持て余しており、少年のもとに急行したのだ。彼らは、自分の都合で少年の手首に手錠をかけた。故に、少年はそれら家主の領地に対し不当な不満を募らせている。遅めの反抗期特有の、反骨精神である。
恨めしげに、囲いを睨みつけながら歩くこと五分ほど、少年はようやく自分の家にたどり着いた。明かりは消えている、今日は両親揃って出かけているのだ。
今日限り、ここは我が城、だから思う存分遊んでやろうと意気込んで扉を開けに掛かる。
ガチャガチャと音を出しながら、二つ掛けた鍵を開き、ノブを回して扉を開ける。扉が、カチャリと音を立てるのを聞くと条件反射的に扉を施錠した。
ここは、我が領地。そう思うからこそ油断していたのだろう。少年はまだ、足元と背後の扉しか見ていなかったのだ。
これから行く先、長い廊下の果の自らの城壁。自室を臨んで、そこに急ごうと靴のかかとに手をかけた。
少年は、硬直した。
そこには、見慣れたフローリングの廊下があるはずであった。だというのに、どうしたことだろう。そこにあるのは、見慣れたフローリングの床ではなく、まるで漫画本か何かの中のような白黒の世界。絵画の中らしく、音も、風も、温度もない。
よくある、勇者と魔王の世界の漫画本の中のようだ。だとしたら、その風景はありふれて描かれた王城のようである。
白黒、故に空想でしかないが、地面に惹かれた線は床と絨毯の境界だろう。
それを、辿って目線を少しづつ上げていくと一人の男が立っていた。明らかに異質な男だ
何もかもが白黒に見える今、この場所で、男だけは色を持っている。肌色の肌、茶褐色のトレンチコート、黒いシルクハット。中に見えるベストなど、鮮やかな赤である。その男だけが、鮮明に、克明に、世界から浮き上がって見える。
「だれだ……?」
思わず、少年は呟いた。つぶやかずには、いられなかったのだ。明らかに異質なそれは、泥棒であるとして常軌を逸している。殺人犯であるとすれば、それこそサイコパスだろう。故に少年は強く警戒した。ありとあらゆる可能性が少年の脳内をまるで走馬灯のように駆け回る。
「誰だと構わないでは無いか。ここは、君の家ではないのだから」
男は、無機質な声で言った。少年の後ろを指差し、無機質な声質ながらも、その狂った調子にはどこか嘲笑が込められていた。
少年は、振り向くとそこにはドアがない。いや、確かにドアはある。だが、それは少年の思っている、望んでいるドアではない。遠く、絨毯の境界線が描く平行線が交わらんばかりに狭く見えるほどの場所に巨大で豪華な扉があるのだ。
少年は男を探し、再び、向き直った。そこには既に男はいなかった。前も後ろもさして変わり無い、絨毯の境界線と、その果に玉座に座る男が一人。その横に、控える少女が一人居た。
まるで、ゴシック様式で建築された王城である。ここはそう見える。装飾過多な幾多の柱、天使、あるいは女神を象るステンドグラス、ドーム状の天井には複雑な幾何学模様が描かれていた。
不意に、風がうごき出す。ほんの微かに。
止まった、風の中にいた分だけ敏感にその風を感じ取った。
やがて、絨毯は目がくらむほどの赤を、柱はまるで陶器のような白磁、ステンドグラスさえその鮮やかな彩りを取り戻して、壁にかけられた燭台が揺れ動き出す。
どこからともなく、微かに香水の香り。それは、中世の時代、ヨーロッパの貴族たちが好んで使った香水の香りによく似ていた。