表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ルサンチマンにさよなら

作者: ルンババ12

ルサンチマンにさよなら



   ***



 朝桧はたまにしょうもない冗談をいう女だった。

「実はタモリさん、アタシの親戚なんだよ」

 彼女が急にそんなことを言い出したのは、確か大学一年のことだったと思う。

 その日はちょうど学期末試験の最終日で、テストから開放されたオレ達はサークルの同級生を誘い、皆で大学近くの居酒屋に繰り出して飲んでいるのだった。

 朝桧の苗字は高階だったし、そんな有名人と親戚なのをいままで隠しているなんて可笑しいし、そういうわけで、最初は誰もが彼女の事を相手にしようとせずつまらないものを見る眼で返事するのだった。

「ちょっと、ホントなんだってば。アタシのお母さんの兄さんが、婿養子でもらわれたんだけど、その奥さんのお兄さんがタモリさん、つまり森田一義だったわけ」

「だったわけ、じゃあねえよ。証拠でもあるのか?」

「もっちろん」今にも閉じそうなトロンとした眼でVサインを作る。

「お母さんサイン持ってるんだから」

 普通ならばここで

「じゃあそのサイン見せてみろ」など疑うものだが、アルプスの雪解け水より純粋なオレは

「マジかよすげーな!」と子供のようにはしゃいでしまった。しかも彼女はそれから二年間、自分はタモリの親戚だと嘘をつき続けた。そんなオレを皆は

「あんな根拠のない話を二年間も信じられるお前が信じられない」と呆れ顔でため息さえつくのだった。


 だから朝桧が東京に行くといったときも勿論冗談だと思った。何せもう二十二だ、さすがのオレも疑うということを覚えている。

 しかし彼女にふざけた様子は全然ない。むしろ真剣そのものだ。グラスになみなみと注いである焼酎を一気にあおり、大きな瞳をこちらに向けてくる。

「アタシは東京に行く。東京で、すんごい映画作ってやるんだからっ」

 んっ、と朝桧は口を真一文字に引き結んでグラスを差し出した。もう七年も付き合いがあるので彼女の要望は大体わかっているつもりだ。オレはリクエストを聞くことなく黙ったまま焼酎ロックを作ってやる。まず氷からいれて、次に焼酎を注いだらマドラーで右へ七回半、左へ十三回半まわす。

 からから音を立てる氷の入ったグラスを渡しながら、そういえばこのやり方も朝桧から教わったなあ、なんてボンヤリ思い出す。彼女いわく

「科学的にも証明された一番おいしいお酒の作り方」だそうだが、オレにはよくわからない。八回左へ回そうが味は一緒のような気がするが。

 ……それにしても、だ。オレは未だに朝桧が東京に行くという事態がピンとこなかった。いや、ピンとこないのは当たり前のことなのかも知れない。それくらいオレたちは仲がよく、彼女の存在はすでにオレの生活の一部みたいになっていたのだ。

「さっきから黙ったままで…もっとこう、なんか言うことないの?」

 ふと顔を上げると、朝桧の顔が距離およそ二十センチのところにあった。

「…………」

 オレはテーブルにあった缶ビールを引っつかむと一気に飲み干した。





   ***




「だいたいねぇ、アンタは根性がなさすぎるっ」

 空になったジョッキをテーブルに叩きつけながら朝桧は言った。

「いつまでたっても、目標も決めずフラフラしてるから就職先が決まらないのよ。その調子じゃ今年の就活だってうまくいきっこない」

「……あのねぇ、去年はオレの行きたくなるような会社がなかったんだって。行きたくもない会社に受かって定年まで働き続けるより、自分が納得したところで、やりがいのある仕事に携わっていくのが筋ってもんだろうが」

「またそんな事言って。じゃあアンタの言う納得できるやりがいのある仕事って一体何なの?」

「それは、あれだよ」

「あれって?」

 瞳の奥を覗き込んでくる。

「……こ、後世に名を残すようなでかい事することだよ! やっぱ人間に生まれたからには歴史に名を残したいなっ」

「だからそれは具体的になんなの」

「…………」

 立ち上がってガッツポーズまでしたというのに、朝桧は冷静そのものだった。憐れな者を見る瞳に耐えられなくなったオレは、元の位置に腰を落ち着け、すでにぬるくなったビールを少しだけ飲んだ。


 今日はサークルの後輩達がオレ達四年生のために追い出しコンパを開催していた。最後のサークル活動ということで、四年生の出席率は割りとよく、久しぶりに見る面子が多かった。

 場所は大学近くの小さい居酒屋で、一年生から四年生まであわせ三十人以上の学生が所狭しと座っている。店内はカウンターのない、入り口からすぐ座敷に上がるという変わったつくりをしていて長テーブルが四つ設置してあった。それぞれのテーブルにはすでに大量の皿が置かれていて、注文を受けたバイトが忙しそうに厨房と座敷を移動している。

 オレ達四年生は入り口から一番奥、厨房の見えるテーブルに案内された。

 現在、入り口の方のテーブルでは上級生が手拍子とともにコールをかけて一年生に一気飲みをさせているところだ。立たされている一年生は、アルコールが苦手なのか、眉をしかめてグラスを傾けている。

 久しぶりに飲み会に参加した四年生も、最初のほうこそ腰を上げてはテーブルを移動して二、三年生と一気コールをしたり談笑を交わしていたようだったが、ほろ酔い気分になるとそれぞれの就職先のことだったりバイトの愚痴だったりと同学年同士で小規模のグループを作りしゃべり始めた。

 オレも同様に、二杯目のジョッキが空になるころには集団の輪からはずれて同じ学科の高橋と卒業研究について愚痴を言い合った。高橋は内定こそ取っているものの、必修単位をまだ二つ落としていて卒業が危うかった。何人かと喋っているうちに、進路が決まっている友人達は、内定をとるでもなく進学するでもないオレに気をつかってか、その手の話題を振らないようにしているのがわかった。

 彼らと喋っていると、オレはそこまで気を使わせて悪いなと思うのと同時に、一人だけ取り残されたような寂しさ、虚しさ、焦りを感じてしまうのだった。だからこそ、オレは高橋のところに行ったのかもしれない。オレは彼が単位を取れなくてあせっているのを知っていたし、同じように不安な気持ちを抱えていることも知っていた。

 そんな中、一人だけ容赦なく罵倒を浴びせてくるやつがいた。

 高階朝桧だ。

 彼女はどこかのグループを抜けてオレと高橋の間に入ってくると急に二人にダメ出しをはじめた。

 ビールのジョッキ片手に説教する朝桧の態度はどこぞのオッサンのようで、精神的攻撃に耐えかねたオレ達はグラスを持ってさりげなく移動しようとしたのだが、彼女の手がそれを許さなかった。上着のすそに握られた手を後ろにぐいと引っ張られて強制送還される。

「高橋っ。アンタ、本気で勉強しないと卒業できないよっ。必修が一限目で辛いのはよくわかるけど、三年間も出席日数が足りなくて単位落としていいわけないでしょうがっ!」

「はい、ごもっともです……」

 見方によっては三十代後半にも見えるふけ顔の高橋が縮こまって言った。もっともなことを指摘されて弱気になっているのか、彼はいつのまにか正座で話を聞いている。

 説教をしている側の朝桧は、両膝を曲げてお尻を床にぺたんとくっつけた所謂『女の子座り』をしている。彼女は、女では身長の高い部類の入るのだが、瞳が大きく、幼い顔つきをしているので高校生くらいに見えないこともなかった。

 そんな彼女がふけ顔の高橋を説教しているものだから、他人が見たら娘に怒られてるパパみたいで妙に面白い。

「ちょっと、なに笑ってんの暁生。アンタもそんな余裕ないんでしょうがっ」

 どうやら表情に出ていたらしい。にやけ顔が気に食わなかったのか、朝桧は標的を変えて今度はオレに説教をし始めた。

 これで朝桧にも弱みがあればオレも逆襲ができるというものだが、彼女は他の四年生同様ばっちり卒業もできるし就職先も決まっていた。しかも就職先は天下の映画会社『西宝映画』ときたものだからなにも言えるはずがない。


 説教が始まってしばらくすると、今年の春に部長になった二年生が立ち上がって皆に声をかけた。

「え〜、皆さん聞いてくださいっ。ちょっと静かに! え〜今日もいつものように二時間の飲み食べ放題コースなので、そろそろ場所を移動しようと思います。二次会の会場は『メディスン』になってますので、参加する人は手を挙げてくださ〜い」

 元気よく新部長が手を上げると、それに釣られるように部員たちはいっせいに手を上げた。

「あれ、暁生行かないの?」

 隣で耳にぴったりひっつけるように手を上げている朝桧が訊いた。

「ああ、もうだいぶ酔ってるからな」

 二次会の『メディスン』はカラオケとダーツが一緒になった店だ。本当は酔うほど飲んでさえいない。ただ、理由を考えるのが億劫だった。今日は歌う気分じゃないというのが本音なのだが

「そんなの理由になってないよ。アタシの美声で元気出させてあげるから、行くよっ」と強引につれてかれそうだから朝桧には言わないでおく。

「今日はオレもうアパート帰って寝るよ。明日朝からバイトもあるし」

「そうなんだ……じゃあアンタの分まで歌ってきますかっ」

 イヒヒと聞こえてくるような笑顔で彼女は言った。


 全員が居酒屋の外に出ると、二次会組と帰宅組に分かれることになった。

 帰宅組は数人で、自宅生の一年生や、船の上にいるようにフラフラと落ち着きのない酔っ払いが主だった。二次会組はというと、近所迷惑な声でバカ騒ぎしながらひたすらはしゃいでいた。

 部長から解散の声がかかると、それぞれ移動し始めた。ぞろぞろと道路にはみ出して歩く危なっかしい連中を見送りながら、オレは自転車を止めてある大学内の駐輪場へ歩を進めた。

 二月の寒風は身震いするほど寒く、アルコールを飲んでしばらくたったせいか余計に体温が奪われた。コートの隙間から入ってくる風を防ぐべく襟を耐え、首を亀の子のように縮めて対処する。

「…………」

 オレは歩きながら今日のやりとりをぼんやりと思い出していた。

(アンタの言う、やりがいのある仕事ってなんなの?)

 確か、朝桧はそう言っていた。

 そんなこと、おれ自身が聞きたい。

 オレって何がしたいの?

 将来どうなるの?

 わからないことだらけだった。就職活動してみても、担当教授と相談してみても、自分にいくら問いかけてみても、やりたいことがなど皆目見当がつかなかった。

 面接で落ちまくったのもきっとそのせいだと思う。面接の担当官は志望理由の熱意のなさ(適当に理由をこじつけたような内容)をすぐさま見抜いてしまったんだろう。工場の面接に行って

「機械が好きだからです」みたいな理由で受かるはずがない。

 出席とテストだけは人並みに頑張ってきたおかげでどうにか卒業はできそうだったが、オレにはその先がなにもなかった。したいこともなければ特別得意とすることもなく、未来が一向に見えなかった。十年後に自分は何をしてるんだ? 四十年間近く働く職業っていったい何なのだろうか? 皆もうすぐ社会へ飛び出す。そのときオレは何してる? フリーターなのか?

 いやな焦りだけがはっきりとあった。

 どうすれば、なにをすれば、この背中を這うような不快感から逃れられるのか。

 とりあえず働いてみればいろいろわかってくるのかもしれない。卒業したらフリーターをしながら適当な就職先を見つける。そこで働いているうちに、こんな深く考えることはなくなり、無難な生活を手に入れる……

 しかし果たしてそれでいいのだろか?

 曖昧に答えを濁し続けて、オレは自分の行動に納得できるのだろうか?


 こうしてみると、やはり朝桧って凄い女だということに気づかされる。小さい頃から夢があって、その夢に全力で打ち込んで、諦めるだとか、妥協するとか一切知らなくて、社会人になってもその夢を追い続けていくわけなんだから。

 彼女はきっと自分の事を好きでいると思う。ナルシストとかそういう意味でなく、自分に嘘をつかない自分、自分の力を信じてあげられる自分。

 そういう『自分』でいることを朝桧は大事にしている。

 オレだってそういった『自分』でいたかった。納得して生きていきたかった。

 でもそんなのは無理だ。そんな傲慢が通るのは力を持った人間だけだ。

 朝桧には力がある。

 オレにはない。

 彼女のような強さがオレにもあれば――

 これまで挑戦してきた数々の夢が浮かぶ。そのなかでやはり気を重くするのは、あのコンクールのことだった。



   ***




 朝桧は中学生の頃には将来映画関係の仕事につこうと決心していたらしく、夢は映画監督になり自分の撮影した作品をたくさんの人に見てもらうことだった。

 そういう明確な目標があったため、高校の文化祭で行われる各クラスの出し物で自主制作の映画を作ることになったとき、朝桧は真っ先に監督に立候補した。そして文化祭当日。映画会社に勤務している生徒の親が、たまたま文化祭にきてうちのクラスの映画を見に来たのだが、彼は映画を見終えると近くの生徒を捕まえ、監督は誰が勤めた、と尋ねた。

 そこに朝桧がやってくると彼は開口一番

「コンクールに出展してみないか?」と言ってきた。

「さっき見させてもらったんだが、君のカメラワークはなにか光るものがあるよ。少ない費用であそこまでやるなんて、なかなかできたものじゃない。コンクールに出展してみれば、面白いところまで行くかもしれない」

 自分の作品は他人に認められるようなものなのだろうか、と常々思っていた彼女にとってこの申し出はいい機会だった。朝桧はクラスのみんなに了解を取るとコンクールに出展する旨を彼に伝えた。

 結果は、大賞こそ取れなかったものの特別賞を受賞。コンクールに携わった審査員からは

「人物の撮り方や場面の切り替えが秀逸。作品に描ける情熱も伝わってきて、久々に胸にくる作品でした」と嬉しい評価をいただいた。

 それで自信をつけた朝桧はさらに映画のことを勉強するべく、暇な時間があればこまめに映画を見るように心がけ、休日ともなると、文化祭でコンクールの話を持ちかけた親の職場である映画会社に赴いては、隅のほうで見学させてもらったり新しい手法を教えてもらったりした。

 大学に入ってもその情熱は収まらず、彼女はオレを巻き込んで映画研究サークルに入部した。映画研究サークルの本来の活動は、好きな映画を皆で見て批評しあう、というものだったが、朝桧の

「皆で映画を作りましょう」宣言で一変した。

 オレは一年生の提案など部長が許すわけがないだろう、とタカをくくっていたのだが、なんとその意見は通ってしまった。(後から聞いた話だが、実は部員全員、映画を作ってみたかったがどうすればいいかわからず、こうやって誰かが言い出してくれるのを待っていたそうだ)

 それ以来彼女はめきめき頭角を現してきた。サークルで作った初めての映画で佳作を受賞すると、それからは大賞や優秀賞をとるようになっていた。これもすべてとは言わないが朝桧の力によるところが大きく、大学祭の映画発表では彼女の作品を一目見ようとたくさんの来客が詰め寄った。

 次第に彼女の名前は世間にも知られるようになり、地方の新聞社が取材にきたり、映画制作会社の人がサークルにやってきたりした。


 しかしオレは知っている。

 朝桧が才能だけでここまでの偉業を成し遂げたわけじゃないことを。

 確かに、人並み以上の才能もあると思うが、彼女はそれ以上にそれ相応の努力を怠らなかった。

 その途方もない努力というやつは、嫉妬することさえ許さない。

 嫉妬するということは、彼女を妬むだけの努力をしたやつにしか与えられない特権なのだから。




    ***




 大学の正門は閉じられていた。なのでオレは正門のすぐ隣にある小さな鉄門をくぐって校内へと入った。

 駐輪場(といっても屋根などはなく、ただの自転車専用の駐車場みたいな広場だ)は正門から入ってすぐ左手に位置しており、昼間は一台が倒れるとドミノのように端まで倒れだすほど自転車で埋め尽くされているのが、今は閑散としており数えるほどしか駐輪されていなかった。

 暗闇の中、携帯電話の光を頼りに自転車のところまでいく。夜は自分の自転車の場所がわからなくなるということがなくてだいぶ助かる。

 すぐに目的の自転車を発見した。黒い籠つき自転車、いわゆるママチャリである。

 しゃがんでU字ロックを解除しようとポケットを弄っている時だった。

「ねえ」

 背後から突然声をかけられ、一瞬全身の毛が総立った。うなじが痺れて気温が五度くらい低くなったような気がした。

 あわてて振り返る。

「……なにそんなに驚いてんのよ」

 朝桧が呆れ顔でオレを見ていた。

「あほかっ! こんな暗闇でいきなり声かけられたら驚くに決まってんだろ!」

「普通声でわかるでしょう。今さっき知り合ったわけじゃないんだし」

 彼女はしれっとしている。

「そりゃそうだけど……ってあれ、お前二次会行くんじゃなかったのか?」

 あの時、彼女は確かに手を上げていた。自分でも行くと言っていたし、店の外に出てからも二次会に行く集団にいたはずだった。

「やっぱりやめたの。ってそんなことより早く自転車だしてよ。こっちはスカートで寒いんだから」

 朝桧はぎゅっと腕を組み、地団駄を踏むように足を動かしていた。足の動きと一緒に腰ほどまである長い黒髪が左右に揺れている。

「ええっ、もしかして送んなきゃいけないの? お前今日はチャリンコどうしたんだよ?」

「今日は歩きで来たの。だからアパートまで送ってって」

「ええ〜、だってお前のアパート反対方向じゃん」と不承面を見せると、キッとするほど鋭い目線で睨まれてしまった。上手い反論が思いつかなかったオレは、結局言い返すことができずに彼女を送っていく破目となった。

 朝桧のアパートは大学から西へ五分のところにあって、正門前を真っ直ぐ走っている国道に沿っていけばすぐ着く。オレは鍵をはずして自転車を門の外に出すと彼女を荷台に乗せて走り出した。

「ああ、最後のサークル活動がこんな終わり方なんてなんか寂しいね」

 オレはペダルを踏みつつ、前方を見据えたまま答えた。

「じゃあカラオケ行けばよかっただろう」

「あっ、そういうこと言うんだ! アタシはあんたが一人で帰るのは寂しいかな〜って思って付き合ってやってんのに。実はあんたもちょっと嬉しいんでしょ?」

「いや全然……って痛ッ」

 ハンドルを握っているためがら空きになっている脇腹にフックが突き刺さった。

「殴るなよっ。痛えだろうが」

「暁生が心にもない事言うから悪いのよ」

「でも殴ることはないだろうが。こっちは送ってやってんだぞ」

「あら、将来超有名になる美人監督を送らせてやってるんだから、お礼のひとつでも貰いたいんだけど」

「へっ、自分で言ってりゃ世話ないぜ」

「何か言った?」

 握られている肩に力がこもる。

「何でもないです」


 国道を西に走っていると右手に大学生がよく利用する二十四時間営業のスーパーが見えてくる。そのひとつ先の信号でハンドルを左に切った。

 大学周辺だけあって付近には多数のアパートが立ち並んでいる。

ほとんどのアパートが学生用みたいなもので、ロフトがあるとか多少の違いはあるが、基本は二階建てのベランダ付き六畳から八畳のワンルームという作りだ。ひとつのアパートには部屋が八個から十個ほどあって、朝桧のアパート『ベルメゾン』もそのうちのひとつだ。彼女はそこの二階かど部屋に住んでいる。 

 信号から曲がって一分もしないうちにベルメゾンに到着した。光源のないアパート前は闇に包まれていて、まだ十時を過ぎたばかりとは思えないほど静かだ。

「着いたぜ」

 ブレーキをかけて朝桧が降りるのを待った。しかし自転車が完全に停止しても彼女が降りる気配はなかった。

「……ねえ暁生」

「うん?」

 サドルに乗ったまま首だけ曲げた。薄暗くて顔はよく見えない。

「……あのさ」

「なんだよ」

「その……ありがと」

 ハア? オレには彼女の言いたいことがさっぱりわからない。

「だから、ホラ、送ってくれたじゃん」

「ああ、そんなことか。いいよ別に。っていうかお前が命令したんじゃん」

「そ、そうだったね」

 朝桧はそう言うとやっと荷台から降りた。自転車の前籠に突っ込んでいたバックを渡してやる。階段を上り終えるのを見届け、オレは再び帰路に着く。寒さのおかげで酔いは随分さめてきていたが、かわりに睡魔が襲い始めてきていた。今夜中に溜まっている洗濯物をどうにかしようと思っていたが、これでは帰ったとたんに寝てしまうだろう。

 そう思っていた矢先。

「暁生っ」

 急ブレーキをかける。アパートのほうに向き直ると、部屋に帰ったはずの朝桧が階段下に戻っていた。

「確かCD貸してたよね」

 いったい何しに戻ってきたのかと思えばそんな事を聞くためだったのか。

「ああ、『無罪モラトリアム』だっけか」

「それそれ。今持ってる?」

「持ってるわけないだろ」

「じゃあ家まで取りに行こう」

 ハア? ふざけんな! と一喝するより先に、朝桧はこちらまでやってくるとピョンと荷台に飛び乗った。肩を叩きながらレッツゴー、と暢気な声をあげる。

「いやいやいやいや。何で急に? 月曜の昼休みでもいいでしょう?」

「イ・ヤ。アタシは今日聞きたいの」

 なんて我侭な娘なのだろう。強引なのはいつものことだが、今日はいつもと少し違う。なんていうか、行動の理由に冷静さがない。

 オレは言い帰そうかとも考えたが、結局はやめておくことにした。確かに少し貸してと言ったまま一ヶ月以上借りているオレが悪いというのもあったし、なにより彼女はこうすると決めたら最後まで貫き通す性格だからだ。こうやって聞くと自己中心的とか協調性がないとか人は言うかもしれないが、オレは彼女のそんな部分を尊敬していた。

 再びもと来た道を引き返す。さすがに二度も走らせて申し訳ないとでも思ったのか、朝桧は部屋に帰ったときにマフラーを取ってきて貸してくれた。

「暖かいけどさ、なんでオレンジ色なわけ?」

「なにか文句でもあるの?」

「別にないけど……」

「じゃあいいじゃない。ホラ、そんなことより早くペダル漕いでよ」

 オレのアパートは正門から東の位置に存在して、国道から少しそれて田園地帯を抜けた先にあった。大学まで自転車で十五分と少し不便だが家賃が安くて助かっている。六畳一間、水道代込みで三万二千円。

 程なくアパートに到着。手袋はしていたのに手はすでに感覚がない。早くストーブをつけて暖かい毛布に包まって寝よう。

 朝桧を駐輪場に待たせたまま一人部屋へと向かう。お目当てのCDはコタツの上にあったのですぐに見つかった。地面に散らばっている漫画や小説の下に埋もれていなくて本当によかった。

「はいよCD。長い間借りてて悪かったな、ありがとう」

 そう言いながら、オレはついでにキーホルダーに下げてあった自転車の鍵を渡した。

「この自転車で帰っていいから。返すのはまた今度でいいけん」

 オレは現在自転車を二台所有している。一年生の頃、一回盗まれて新しいのを購入したのだが、半年後くらいに届けを出していた自転車の消息がつかめて警察から返却されたという次第だ。

「うん。ありがとう」

「いいって、そんじゃおやすみ」

 ひらひら手を振りながら彼女を見送る。角を曲がり姿が見えなくなったのを確認してからオレはアパートに戻った。

 一人になった途端、急に脱力感に襲われた。体が重く感じる。

 やはり今日はもう洗濯しないでおこうと決めると手早く部屋着に着替えた。一時間で切れるようストーブのタイマーをセットして、ついでに目覚ましも九時になるようにセットした。明日は十時からバイトだった。

 電気を消して冷えた布団にもぐりこむ。

 あとはこのまま意識がなくなるまで目をつぶるだけだった。次に目を開けるときは朝九時で、昨日と何も変わらない、就職もやりたい事も決まっていないオレがのそのそ起き出す筈だった。

 しかし、そうはならなかった。

 さっきからけたたましい音でドアホンがなっているからだ。

 無視して眠ることもできず、煮えたぎるような怒りを抱えて布団から飛び出し、玄関へと向かう。

 遊びに来るなら一言くらい連絡しろよなあ。

 オレはてっきり、友達の誰かが不意に遊びに来たと思っていた。

 力任せにドアを開ける。

「……やっ」

 外にはさっき帰ったはずの朝桧が立っていた。




    ***




 片手を挙げて微笑んだ朝桧は、左手にぶら下がったビニール袋を持ち上げ

「飲みなおそうと思ってさ」と言った。

「飲みなおすって……まさかそれ酒?」

 オレがビニール袋を指差すと、返事をするかわりに中身を見せた。中には缶ビールやら小さめの焼酎やらつまみがぎっしり詰まっている。ご丁寧なことに氷まで買ってきていやがった。

「あの、朝桧さん。オレ正直眠いんですけど」

「またまた。居酒屋で全然飲んでなかったじゃん」

「いやいや、ビール二杯くらい飲ん」

「お邪魔しま〜す」

 言うが早いか、彼女は断りもなく玄関に上がりこむと靴を脱いであがった。部屋をきょろきょろ見渡しながら

「相変わらず物で溢れてるね〜」としみじみ呟く。



 暁生の部屋はいたるところに物が置いてあり、六畳間のはずのアパートには二畳分ほどしか座る面積がなかった。面積の半分以上を占めているのは、四隅に置かれたギターやらアンプやらカメラで、そのどれもが真新しいままホコリかぶっていた。

 これらはすべて、夢の残骸である。

 暁生はいろんな夢を持ってはすぐにあきらめてしまうという癖があった。

女にモテルとそそのかされてはじめたギターも、FとCのコードを覚えて挫折した。どうしてもDのコードに指が届かなかったのだ。文化祭のときに見た写真展の作品にいたく感動し、自分をこういう写真を撮ってみたい、と強くあこがれて始めた写真撮影も、志半ばで諦めた。何枚撮っても自分の納得するような写真を撮ることができなかったから。

 壁の上部にずらっと飾ってある油絵もそのうちのひとつだ。

 幼少時代から絵を描くのが好きだった暁生は、美術部に入ったりするまではないが小学校、中学校とたまに絵を描くことがあった。そして高校に入って油絵と出会った。

 油絵と出会ってからの暁生はのめり込むように筆を走らせた。きちんとし評価をもらっていないので、自分の絵はうまいかどうか皆目見当がつかなかったし、技術的なことなど一切わからなかったが、彼は油絵にはまった。楽しかったのだ。

 熱しやすく冷めやすい暁生にしてはずいぶん長いこと油絵を描いた。対象物を限定することは殆どなく、人物でも風景でも抽象画でも、暁生は作品の完成させたときの、あの高揚感がたまらなく好きだった。

 しかしそんな油絵でさえ結局はやめてしまった。

 友人に強く勧められ、初めて出品したコンクールで落選したのだ。

 暁生は優秀作品に選ばれないまでも、なにか賞が取れると期待していた。それほど自信のあった作品だった。

 コンクールの何ヶ月も前から準備して、下書きの段階で何度も手直しをした。少しでもいい作品にしようと絵の勉強もして、あきらめそうになるほど悩んで、放り出したくなるくらい絵を塗りつぶし、夜が明けるまでキャンバスと向き合って――


 それでも駄目だった。佳作も取れないほどぶっちぎりで駄目だった。

 情熱が大きかっただけにその反動はものすごいものだった。ショックで油絵から逃げるように関わるのを避け、大学受験が始まる頃には他同様、キャンバスにはホコリが積もっていった。


 壁にかけてある作品は、高校時代に書いた中でも自信のあるやつだ。



「それじゃあ乾杯ッ」

「かんぱ〜い」

 カチン、とグラスを合わせる。オレは二ラウンドということもあってチューハイにしているが、朝桧は最初から焼酎ロックだった。

 彼女は一気にグラスを空け

「っっうまい!」と満足そうに喉を鳴らすとすばやく二杯目を作り始めた。対するオレはもともと酒に強くないのもあってあまり手が伸びず、一口飲んではすぐにテーブルに置くという感じだった。

 オレ達は狭いコタツを挟んで向かい合う形で飲んでいた。ベットを背もたれ代わりに座るオレと、壁をもたれかかるように座っている朝桧。

 それにしても二人だけの飲み会を始めたはいいが、会話はまったくと言っていいほどなかった。ただ、焼酎に入っている氷の音とBGMにつけているバラエティ番組の音だけが六畳間を包んでいた。

 オレはポテトッチプスを頬張る彼女の真意をはかりかねていた。何を話すわけでもなくひたすら焼酎を飲んでいる。単に居酒屋一軒では酔い足りなくて、オレを道連れに飲み明かしたかったのだろうか?

「どうして来たのかって顔してるね」

 さっきまで押し黙ったままだった朝桧が不意に口を開いた。アルコールでは染まることのない彼女の頬は、陶器を思わせる白さで輝いていた。

「言おうかどうか迷ったんだけど、やっぱり暁生には言っておこうと思って今日は来たんだ」

「随分ともったいつける言い方だな。いったいどうしたんだよ? 居酒屋だけじゃいじめ足りなかったのか?」

「違うよ。もっと大事なこと」

 彼女はさらりと皮肉を否定すると、なにかを逡巡するようにしばらく目を伏せた。長い睫が頬に濃い影を落としている。そしてさっきまでの表情が嘘みたいな笑みを見せたかと思うと、右手を上げ高らかに宣言した。 

「アタシ、高階朝桧は東京で就職することに決めましたっ」

「…………」

「あれっ、驚かないの?」

 朝桧は困ったように小首を傾げた。オレはというと、あまりに突然のことに凍ってしまい口が利けないでいた。彼女の言っていることがよくわからなかった。東京? 就職? 『西宝映画』は? さまざまな思いが瞬時に巡る。頭がこんがらがりそうになった。

 それでもなんとか心を落ち着けたオレは、一番疑問に思うことを口にした。

「……何しに行くの?」

 尋ねられた彼女は、そんな事もわからないのという顔で答えた。

「決まってるじゃんっ。映画作りに行くんだよ」

 朝桧はいたずらっぽく笑い、オレの頭には疑問符ばかりが増えていった。

「ちょ、ちょっと、待て。いろいろと意味のわからないことが多すぎる。もっと詳しく説明してくれないか?」

 つまり彼女の言いたいことはこうだった。

 映画監督になることが夢の朝桧は、就職活動を始めるとすぐに映画制作会社に願書を出願した。第一候補は全国的にも有名で、特に邦画に力を入れている『西宝映画』で、彼女は早々とそこの内定を取ってしまった。『西宝映画』は競争倍率が高く、入社するだけでも自慢できるような会社だったし、地元からそう遠くないのもあって両親は娘の就職に相当喜んでいた。

 しかし朝桧は、本当は違う会社に行きたがっていた。真に夢をかなえるならば『サプライズファクトリー』に行くべきだと考えていた。

 『サプライズファクトリー』は『西宝映画』よりも規模の大きい会社で、映画業界では一位二位を争うほどの大手だった。彼女の尊敬する監督が制作を手がける会社は『サプライズファクトリー』のものが多く、自分も彼らと同じ環境で映画を作ってみたいと思っていた彼女は一か八か、願書と一緒にこれまで自分の作ってきた映画を送っていたのだ。

 そうしたらなんと、『サプライズファクトリー』から一次面接を受けに来るようにと返事が来たのだ。まさかのことに戸惑いつつも、朝桧は面接で映画にかける情熱を精一杯伝え続け、最終的には合格通知をもらうことができた。

 結果を知った両親は娘の偉業に飛び上がって喜んだという。

彼女自身、自分の力が認められた上での合格だったのでとても嬉しかったが、ひとつだけネックがあった。それは会社が東京にあるということだ。地元から東京まで通うわけにはいかないので、『サプライズファクトリー』に入社するならば東京に住まざるをえなかった。東京に行ってしまえば、そう簡単に帰ってくることはできない……

 彼女はその点で悩み続けていたらしいが、やはり自分の夢は譲ることができず、『西宝映画』を取り下げ『サプライズファクトリー』に就職することを決めた、という次第らしかった。

 オレは詳しい説明を聞いてようやく事態を把握した。しかし、まだいくつかわからないことがある。 

「でもさ、なんでそんなに悩むことあるんだ? 一人暮らしなら今までだってしてきたし、東京を怖がるようなタマでもないだろ?」

 訊くと、朝桧は信じれないものを見る目で顔を見つめた。

 深いため息をつきながら体を前に倒し、あごをテーブルにのせる。

「……やっぱアンタってバカだよね」

「えっ、なんで?」

「ほらね、やっぱバカじゃん。全然わかってない」

「だから、なんでだよ。なにが気に食わないんだよ?」

「うるさいっ。ちっとは自分の胸に聞いてみろっ!」

 テーブルに広げていたポッキーが飛んでくる。棒状のお菓子は放物線を描いて衣服の中へ滑り込んだ。オレの慌てふためいている姿を見て気分を良くしたのか、彼女はケラケラ笑いながら別のポッキーをつまんだ。

 オレはジャケットから救出したポッキーを胃袋に収めると、彼女のほうに向き直った。

「まぁなんにせよ、そんな凄い所に受かったんだ。改めて乾杯っ」

 そう言って、笑顔で友の門出を祝う。ところが、グラスを差し出したときの彼女の表情は、何故だか一瞬寂しそうに見えた。すぐに目を細くして

「ありがと」とグラスを合わせはしたのだけれど。

 確かに、その寂しさはわからなくはない。朝桧とは高校からの付き合いで、就職も地元ですると思っていたから大学を卒業してもちょくちょく遊ぶものだろうと思っていた。

 彼女が東京に行ったら、もう会うことはほとんどなくなるだろう。

年に一回会えればいいほうだろうか? 今まで毎日のように顔を合わせていたのでなんだか想像がつかない。行って欲しくないとは思う。でも、そんな事口にできるわけがない。オレには彼女を引き止める権利もなければ、夢を邪魔する権利もないのだ。彼女には東京で頑張って、凄い監督になって欲しいと心から願う。いつまでも尊敬できる、憧れの存在でいて欲しいと思う。

 だから、だ。

 オレは最高の笑顔で朝桧を送り出してやる。向こうに行っても頑張れるように、東京に負けないように、最後まで笑顔を貫きとおす。


 それからの話は、卒業を意識してか思い出話に花が咲いた。大学生活を振り返り、果てには高校生の頃まで話は遡っていった。

「ホント、昔から暁生はなんでも中途半端だよね〜」と嘆くように朝桧は言葉を漏らし、そばに立てかけてあったギターの弦を弾いた。

「もうギターもカメラもしてないんでしょ?」

「ああ。触れてさえいないな」

「でしょうね、この有様じゃ……」

 朝桧がギターを指でなぞると大量のホコリが取れた。

「こんなになるなら、最初からやらなきゃいいのに」

「ばっか、最初は本気だったんだよ。ロックスターになる予定だった」

「またそんな事言ってる。じゃあもっと練習すればよかったじゃない」

「練習ならしたさ。だけどどうしても指が届かなかったんだからしょうがないだろ」

「はいはい、そういうことにしておいてあげる」

 彼女はオレを無視してゆっくりと部屋を眺めると壁のある一点でぴたりと動きを止めた。その方向には油絵が飾ってあり、そっちをみたまま呟くように言葉を続けた。

「そういえばさぁ」

「なんだよ?」

「高校のとき、一度だけアタシを描いてくれたことあったじゃん。あれどうしたの?」

「ああ、あれね……」

 暁生自身、言われるまですっかり忘れていた。彼女の言うとおり、暁生は高校のときモデルになってくれと頼んだことがあった。ちょうどあのコンクールの前に書き始めて、結局――

「ねえ、まだもってるの、あれ?」

「……いや、もう捨てたよ」

「ええっ! どうして?」

「だって他の作品も同時に描いてたからさ、他のをしてるうちに、なんとなくうやむやになっちゃって……」

 ハハハと笑って頭をかいた。

「笑い事じゃないでしょっ。モデル頼んでおいてやめるなんて、信じらんない……」

 彼女は怒りを通り越し、呆れた様子で頭を抱えた。


 コタツの上にずらりと並んでいたアルコール類が次々と倒れていくと(空にしていったのはほとんど朝桧だが)さすがに本気で眠くなってきた。時刻は深夜一時過ぎ。普段ならまだ起きている時間帯だがいかんせん瞼が重たかった。

 このままでは一時間持たないと思ったオレは、変わらないペースでグラスを舐めている朝桧に提案した。

「そろそろ解散にしようぜ」

 睡眠をアピールするためにわざとらしく欠伸をした。

「なんで? 暁生、もう眠いの?」

「眠いの。オレは君と違って明日朝からバイトがあんの」

 もう一度大きな欠伸をしてみせる。すると彼女は

「バイトじゃしょうがないか」と観念したようにもらし、グラスに残っていた酒を一気に飲み干した。

「じゃあ暁生は先に寝てていいよ。アタシはちょこっと小説読んで帰るから」

「そうか。じゃあお言葉に甘えて先に寝させてもらうよ……鍵はかけなくて帰っていいからな」

 それじゃあおやすみ、と一方的に言いながら背後にあるベットに飛び込んだ。電気ストーブのおかげで、布団の中はさっきよりも随分暖かくて気持ちいい。目を閉じればすぐにでも眠れそうだ。

 コタツ側に背を向けたいつもの姿勢で眠りに入る。

 目をつぶりながら明日のバイトのことを考えた。寒い中自転車を漕いで行くのは、想像するだけでだいぶ憂鬱だ。正直休みたい。

 それに朝桧の東京宣言。

 なぜ卒業間近になった今、教えてくれる気になったのだろう。夏に内定が取れていたのならもっと早く自慢しに来てもいいはずだ。それにわざわざ家にまで来て宣言する理由がわからない。学校でも居酒屋でも、いつでも言う機会はあっただろうに――


 その時、掛け布団がわずかに持ち上がった。

 誰かが寄り添うようにベットに潜り込んでくる。

 背後を振り返って確認したわけじゃないが、部屋にいるのはオレ以外に一人しかいない。

 朝桧だ。

 朝桧がオレの布団に入ってきたのだ。

 酔いつぶれて泊まっていくことはよくあったが、一緒のベットで寝たことなどもちろんなかった。初めての状況にオレの思考回路はフル回転のショート寸前で、心臓は早鐘のように脈を打った。

 いつの間にか部屋の電気は消されていて真っ暗だった。BGM代わりだったテレビももうついていないらしく、聞こえる音といえば、朝桧が体を近づけてくるたびにきしむベットの音と浅い息遣いくらいだ。

 だんだんと近づいてくる朝桧をよそに、オレはというと全く動けないでいた。ありえない、とわかっていながらも不埒な妄想に支配されそうになる。

「ねぇ暁生……詠次から話、聞いてる?」

 話しかけてきた。すぐ後ろから聞こえる声は優しかった。

 詠次というのは同じ映画研究サークルの同級生で、学科こそ違うものの休日などにはよく集まって騒ぐ友達だ。今日の飲み会にも出席していて、さっきあったばかりだった。

「アタシ、告白されたんだ」

「…………」

 返事はいらないらしい。彼女は独白するように続けた。 

「詠次ってさ、ちょっとインテリっぽいけどなんだかんだ言ってモテるよね。喋りにくい雰囲気持ってるけど、話してみたら結構明るいし、やさしいし、あんたとちがって顔だって凄く良いし……。あたしの友達にも告白したやつ何人かいるんだよ。……でもね、結果は全員だめだった。暁生知ってた? 詠次って一年の頃からアタシの事好きだったてさ。いやあ、もてる女は辛いよ全く」

 朝桧はおかしいことでも喋るように話す。

「さてっ、ここで問題ですッ」

 そして唐突にクイズときた。

「私は結局、詠次と付き合うことにしたでしょうかっ? 制限時間三秒ッ。

 三、二、一……。

 はい終了〜。ていうか暁生答えてよ、つまんないじゃん!」

 背中をバシバシたたかれた。全然痛くないが、どうやら怒っているということは伝わってきた。はたしてそれが黙ったまま寝たふりしていることに対してなのか、さっきのクイズに答えなかったのかはわからないが。

「正解は『断った』でした〜。続いて二問目っ。どうして私は断ったでしょ〜か?」

「…………」

「……ねえ、何でだと思う?」

 黙ったままでいると、シャツのすそをぎゅっと握ってくるのがわかった。

 その手はぶるぶると震えている。

 なぜ彼女が震えているのか。

 なぜ東京に行くことを悩んでいたのか。

 なぜ今夜アパートに来なければならなかったのか。

 その理由がなんとなくわかった気がした。



 彼女は返事を待つように動かなかった。

 背中に顔をうずめ、シャツの裾を握ったまま、ベットの中の時が止まる。

 暁生にはその時間が朝が来るほど長く感じた。

 やがてふっと力が抜けた。そして

「やっぱりあんたにはわかんないよね」とため息が漏れた。

「わかんないから、冷静沈着なあたしがこんな馬鹿なことやってるんだろうね」

 布団から抜け出す音。急に温度が低くなった気がした。

「ごめんね。こんな夜遅くまで居座っちゃって」

 靴を履く音が聞こえた。トントン。

 扉が閉まる間際、暁生は

「根性なし」といわれるのを黙ったまま背中で聞いていた。



   ***




 オレは夢を見ていた。

 どうしてすぐに夢と断定できたかというと、目の前に高校の頃の制服を来た朝桧が立っていたからだった。四年前の彼女は髪を肩の位置で切りそろえており随分若く見えた。

「どうして油絵やめちゃうの? あんなに熱心だったじゃん!」

 彼女は叫んでいた。オレに向かって叫んでいた。

「油絵はもうやめたの。今日からオレはギターを頑張るんだ」

 ギターの入門書を開きながら、ためしにCのコードを押さえて引いてみる。音がおかしかった。

 朝桧はその様子を見下すように見つめると、両腕を組みながら冷たく言い放った。

「なに? アンタもしかして初めてのコンクールに落ちたくらいでショックなわけ?」

 ギターを弾いていた指がとまる。

「最初から上手くいくわけないじゃない。アンタ、何様のつもり? 一回駄目だったくらいで逃げ出すなんて、何回も失敗するよりよっぽどかっこ悪いよ」

 仁王立ちのまま、彼女はとどめの一言を放った。

「だいたいアンタ、諦めるだけの努力はしたの?」

 カチンときた。

 極度の怒りで頭が真っ白になった。

「うっせえええええええええええええっ」オレはギターを放り投げて立ち上がった。

「うるさいんだよっ! お前になにがわかる! お前はあんなショック味わったことないからそんな事がいえるんだ! 

 オレが努力してないだって? ふざけんなっ! 

 オレは努力したよ。それはもうコンクールのために、朝から晩まで油絵のことを考えてたさ。トイレに行く時だって風呂に入る時だって夢の中だって、オレは油絵を書き続けた。その結果でこのざまだ。オレの作品は佳作もとれやしない。

 わかるか? お前にこの悔しさ虚しさがわかるか?

 わかんねぇだろうな。だって朝桧は凄ぇもんな。文化祭で作った映画ごときで、大人に認められちゃうんだからな。

 そりゃあお前の努力も認めるよ。お前は凄く頑張ってるから尊敬もするし、カッコいいと思うよ。

 でもだからこそ、この気持ちは絶対にわからない。失敗したものの辛さ、苦しさ、敗北感をお前は知らないんだからなっ」

「わかるよ」

 朝桧は一言呟いた。息を荒くするオレに、後ろ手を組んで言う。

「暁生の気持ち、わかるよ。アタシだって、失敗する辛さ、怖さ、よくわかる。アタシだって監督さんのところに持っていって駄目だしされた作品、いくつもあるんだよ」

 朝桧のいう監督さんというのは、前の文化祭で知り合った親御さんの働く映画制作会社の監督のことだろう。

「制作に半年以上かかった作品が、ものの二時間で否定される辛さ、アタシにだってよくわかる。暁生だけじゃないんだよ? モノを生み出すってのは、嬉しさと同時に怖さだって秘めてるんだから」

 でもね、と彼女は言葉をつないだ。

「それでもアタシは映画を作るのをやめたりしない。だって私は自分に嘘をついて、自分の夢におびえて逃げていきたくなんてないから」

 穏やかな顔で手を握ってくる。

 不思議とオレは泣きそうになっていた。

「……もし、それでもダメだったら?」

「え?」

「もし頑張り続けて、それでもダメで、気がついたら逃げ場はなくて……。頑張って頑張っても、欲しいものが手に入らなかったらそれはもうかなりショックだ。立ち上がれなくなるくらいのダメージだ。

 だからオレはそうなる前に逃げる。好きな人が遠ざかっていくのが怖いから。好きなことが嫌いなことになってしまうのは嫌だから。だからオレは逃げるんだ!」

「でも、それでいいの?」朝桧は言った。

「そんな自分を、嫌いにはならないの?」

「…………!」


 夢はそこで終わった。




   ***




 カーテンから漏れる光で目を覚ました。外は連日の寒空で、部屋の中も窓に水滴がつくほど冷え切っている。

 暁生はベットから這い出すと、ストーブを点火するのも忘れてすぐさま押入れに向かった。扉を開けて、中のものを全部外に引っ張り出す。

 それは押入れの一番奥にある。引っ越してきたときから、封印するようにしまっておいたのだ。十分くらいかかって、暁生はようやく目的とする板を見つけた。その板を壁に立てかけ、まじまじと眺める。

「…………」

 そこには一人の少女がいた。

 だが、それには色がなかった。少女のいる世界はまだ真っ白のままだった。

 何もかもが途中のままだ、と暁生は思った。

 ギターだってカメラだって全部中途半端なオレ。すぐに自分を見限ってあきらめて、現実を知る前に逃げ出すオレ。

 根性なしといわれるのも仕方ない。

 オレには覚悟が足りないのだ。

 朝桧は自分の夢を叶えるために東京へ行く。そして、きちんと決着をつけるためにアパートへ来たのだ。

「…………」

 暁生は立ち上がると、再び押入れを引っ掻き回し始めた。




   ***




 東京へ向かう日。

 あの日から三週間、アタシは一度も暁生に会っていなかった。気まずいのもあってこちらから連絡を取ることはなかったが、出発の日付は友人達から聞いているはずだった。

 しかし、ホームに彼の姿はない。

 かわりに、ホームには両親やたくさんの友人が詰め掛けて見送ってくれていた。中には

「目指せ世界の巨匠!」と書かれた応援幕まで用意してくれる友人もいて、アタシは涙をこらえるのに必死だった。

 離れ離れになる友人達と、最後のお喋りをしながらも、アタシは頭のどこかで暁生のことを考えていた。彼とはもうこのままずっと会うことはないんだろうか? そう思うとまた涙が零れそうになった。

 やがて出発の時刻が迫ってきて、あたしの乗る新幹線がホームに入ってきた。

「頑張ってらっしゃいね」

 お母さんは荷物を手に取ったアタシを抱きしめ、ぼろぼろ泣いた。お父さんも涙こそ流さないものの、顔を真っ赤にしてお母さんとアタシを両腕で包んだ。

「お前の納得いくまでやって来い」

「うん。ありがとう、お父さん」

 両親と最後の抱擁を交わし、愛すべき友人達に感謝の言葉を送る。新幹線の出発時刻までもう五分となかったので、アタシは

「そろそろ行くね」と笑顔で歩き出した。

 ホームの端っこから声が聞こえたのは、ちょうど新幹線のドアを跨いだ時だった。

「朝桧さ〜ん」

 声のしたほうを見ると、サークルの後輩が額に汗かきながら走ってきているところだった。彼はなにやら大きな板を抱えているようで、足取りがやけに遅い。

「いったいどうしたの? そんな荷物抱えて」

 アタシは後輩の背中をさすってやりながら訊いた。彼はひざに手を突きながら息を整えると

「暁生さんに頼まれたんです」と答えた。

「えっ、暁生から?」

「ええ、なんでも餞別だそうで。向こうについてから開けるようにことづかりました」

 どうぞ、と言れて板を受け取る。板は幅八十センチ、長さ一メートルくらいのもので、白い布に丁寧に梱包されていた。

「向こうについてからって、どういうこと?」

「さあ、俺にもわかんないス。それだけ伝えてくれって頼まれましたから」

「それだけって……」

 アタシがさらに問い詰めようとしたとき、発車のベルが鳴り響いた。尋ねたいことはまだたくさんあったが、とりあえず急いで車内に荷物を運んだ。

 指定席までやってくると、窓越しに両親や友人達が手を振ってくれているのが見えた。彼らは新幹線が出発しても手を振り続けくれて、アタシはそれに応えるよう、息の詰まる思いで力いっぱい手を振りかえした。



 別れを終え、手荷物を収納して席に着くと、アタシは再び暁生からの餞別と向き合った。

 それにしても、この板のようなものはなんだろう?

 約束を破るようで気が引けたが、考えた末、中身を確認することにした。暁生は向こうについてから開けろと言ったらしいが、今開けても向こうで開けても時間的にそう差はないはずだ。なにより、アタシは見送りに来なかったことに腹を立てていた。餞別をやるなら自分で手渡すのが筋というものだ。

 包帯のように包まれている布を取り去る。

 中から出てきたのは、油絵で描かれたアタシだった。

 教室の窓枠に腰掛けたアタシは、いたずらをした子供のような笑顔でこちらを見つめている。

「これは……」

 あの夜、暁生が捨てたといっていた高校時代の頃の絵だった。彼は

「とっくに捨てた」と言っていたけれどそれは嘘だったのだ。

 でもなぜ彼はいまさらこんな物を渡してきたのだろうか?

 しばらくそのまま油絵を見ていると、手に何か当たる感触があった。ひっくり返してみると、そこには一枚の封筒が貼り付けてあった。封筒には何も書かれていない。

 開けて取り出してみると、封筒の中には、チラシと紙切れが一枚入っているだけだった。

 チラシのほうを見ると

「第二十三回 全日本油絵コンクール」と大きくゴシック体で書かれている。コンクールの展示会の日付は八月末で、開催地は東京となっていた。

 それ以外には特に何も書かれていない。

 アタシはチラシを折りたたむと、もう一枚の紙を手に取った。紙には一言

「裏をみろ」とだけ書かれている。

 うら?

 何かわからないがひっくり返してみる。するとそこには習字を習っていたというのが嘘みたいに汚い字でこう書かれていた。

「夏に会いに行くから」




 

初めて小説と言うものを書きました。拙い部分がたくさんあるのはわかってますが、それでも私はこの作品が好きです。一人でもこの作品を読んでよかった、と思ってもらえれば嬉しいです。読了ありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] ためしに届くかどうかやってみる
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ