白い顔
愛犬が死んだ。それからだった。不思議なことが起こり始めたのは。わたしは愛犬がどうして死んでしまったのかよく分からなかった。
その翌日だった。妻が死んだ。妻の首には大きな手形が残っていた。わたしは妻が誰かに殺されたのだと知った。
わたしは警察にそのことを喋った。警察はその首を確認して、はじめにわたしを疑った。しかし、わたしが殺したという証拠がなかった為、わたしはすぐに釈放された。
わたしはよく分からないまま、たったひとりの夜を迎えた。
この広い二階建ての一軒家には、もうわたししかいない。
わたしは静けさの中で、たった一人、ダイニングの椅子に座っていた。
ああ、こんな時間に犬が吠えている。何に吠えているのかな。
隣の家だ。
ああ、犬は吠えるのを止めてしまった。吠えるのを止めてしまった。
……ああ、シズカだ。
わたしはなんだか、妻を亡くした悲しみのせいで、少しボウっとするようになった。
だから犬が吠えるのを止めてしまっても、何も怖くない。怖くない。怖くない。怖くない。
コワくなかったはずなのに……。
わたしは弾かれるように椅子から立ち上がった。
そうだ、犬が吠えるのを止めてしまった……。
吠えるのを止めたのではない。吠えるのは止められてしまったんだ。
ああ、分かったぞ。そういうことか。面白い話じゃないか。犬が吠えるのを止められてしまったのだ。
あれ。そういえば、玄関の鍵はかけてきたかな。
どれ、見てこよう。ああ、鍵はかけたよな。大丈夫だよな。
おかしいな。鍵が開いている。鍵はかけたはずなのに。
あれ、どうしてだろう。どうしてかな。確かにさっき。
ああ、犬は吠えるのを止めてしまって、鍵は外れていた。
わたしはなんだか怖くなってきた。なんだかおかしなことばかり起きてる気がした。犬はどうして吠えたのだろう。何に吠えていたのだろう。そして、なぜ吠えるのを止めてしまったのかな。面白い謎だ。少し考えてみよう。
さあ……。犬が一匹吠えて、そして黙った。
わたしはもしかしたらと思った。何かがオカシイ。何かがオカシイよな。愛犬が殺され、妻が殺され、また犬が黙ってしまった。愛犬も、妻も死んじまったら何も喋らなくなった。どうして、みんな黙ってしまったんだ。お願いだ。またみんな喋ってくれ。またわたしに語りかけてくれ。
それなのに黙っちまった。みんな黙っちまった……。
ははは、みんなどうしてダマっちまった。おかしなやつらだ。目は開きっぱなしでよ。口もぱかっと開いたまま何も言わなくなっちまって。みんなもっと会話しようぜ。みんな俺ともっと会話しようぜ。ははは……。アハハ……。静寂。
わたしは無性に寂しくなった。どうして、こんなことになったのかなぁ……。
わたしはダイニングに戻ると、ふと窓の外を見た。
アア、窓の外、暗闇の中に……。あそこに白い顔があるじゃないか。白い顔がこっちを見て、ニタニタと笑ってるじゃないか。なんだ、白い顔が楽しそうにわたしを見ているじゃないか。
アイツは、わたしと会話してくれるかなぁ。あいつだけはこの寂しさを紛らわしてくれるかなぁ。もう黙らないでくれよ。犬や妻みたいには黙らないでくれよ。
なあ、窓に映る白い顔の君。白い顔を歪めて笑ってる君よ。君はどうしてそこにいるんだい。そこにいるのがそんなに楽しいことなのかい。だったら、俺もそこに連れて行ってくれよ。
なあ君の手は汚れてるじゃないか。ああ、そうか?その手で俺の犬を殺したのかい。その手で俺の妻を殺したのかい。その手で次は誰を殺すんだい。なあ、俺に聞かせてくれよ。そして、俺を笑わせてくれよ。君は白い顔をしたピエロなんだろ。青ざめちゃってさ。君は顔の白いピエロだ。もっと笑いなよ。ゲラゲラと。そうそう真っ赤な口を開けて。ピエロは人を笑わせるのが仕事じゃないか。
それよりもわたしをもっと笑わせてくれよ。そうじゃないと、こんなに悲しくなるじゃないか。もっと笑わせてくれよ。もっとわたしを楽しませてくれ……。なあ、白い顔の君。なあ、窓の中の君。
わたしがはっとして笑うのを止めると、窓の白い顔も笑うのをピタリと止めた……。
…………その夜、わたしは自殺した。