2 狼の瞳
初めてヤったのは妹だった。綺麗な綺麗な満月の夜。月明かりに照らされる中で、ただひたすらに欲望を満たしていった。喘ぎ声のような悲鳴を上げる妹に、興奮せずにはいられなかった。
もっと、もっと欲しい。欲望に身を任せ、ただひたすらに貪っていく。
月明かりが途切れ、我に返った頃にはもう妹はいなかった。快楽の余韻に浸りながら、雲の隙間に隠れた月を見上げる。薄くとも神々しく輝くその光に、恍惚とした表情で見蕩れてしまった。
今日はなんと素晴らしい夜なのだろう。自然と笑いが込み上げてくる。やめられるはずがない。こんな快楽、誰が抑えつけられるというのだ。もう、一線を飛び越えてしまった。抑えつける必要などない。これからは、自分の欲望のままに生きよう。それはきっと、今までの人生の中で一番素晴らしい時間となるだろう。嬉しくて嬉しくて仕方がない。
今日から、人をやめて獣になろう。本物の化け物になるのだ。
部室から発せられた謎の光を見てしまったせいで、僕は強制的に入部することになった。その光の中で何が行われていたのかなどは一切見えていないのにだ。
(適当な言い訳をしてくれたらそれで満足したのに……)
そんなことを思いながら、目の前に座る天原先輩を見つめる。彼女は嬉しそうに僕の書いた入部届けを見つめていた。
「あの……僕たち以外の部員って……」
「いないわよ?」
即答だった。そんなに人気がないのかこの部は。
「いや、いるにはいるんだけど、みんな幽霊部員なのよね。帰宅部みたいなものかしら」
僕の表情で察してくれたのか、天原先輩が説明する。そういうことか、と僕は大変納得してしまった。それを見た先輩が少し頬を膨らまして怒る。
「ちょっと、その納得したような顔は何よ」
「あ、いや、別に……」
「でもね、薫くんは幽霊部員になっちゃダメだからね? 何と言っても、私の魔術を見てしまったんだから。他人に言わないよう、しっかりと見張りをさせてもらうわ」
天原先輩はそう言いながら、ない胸を反って威張った。何度「言わない」と伝えても、この一点張りなのだ。今時魔術なんて胡散臭いもの信じる奴の方が少ないだろう。実際僕だって信じていない。信じたくない。それに、伝える友達だってまだこの学校にはいない。
「魔女見習いである私から逃げることなんてできないからね?」
自分で見習いと言ってしまう辺り、威厳があるのかないのか。そもそも見習いならそこまで怖いこともない気がする。わりとすんなり逃げられたりするのではないだろうか。
「何度も言ってますが、僕は魔術なんて見てませんよ? 見たのは青白い光だけで……」
ダメ元で同じ説明をしてみる。先輩は首を横に振って「ダメダメ」と言った。
「それは魔術の発動過程を見てしまったということ。そもそも薫くんに気付いたから、魔術自体完全に発動していなかったしね」
魔術を使う過程を見てもアウトだとは思わなかった。光っただけじゃないか。そもそも超常現象研究部で魔術の存在を知ったら逃がさないとか、一種の詐欺だ。というか、魔女が超研で一体何をするのか。超常現象の研究と称して自分探しでもしているのではないだろうか。
「納得していない顔ね。ならいいわ。一度見られてしまったわけだし、ひとつ魔術を見せてあげましょう」
(いや、納得していないのは魔術の存在とかじゃなくて……)
心の中で言った僕の抗議が届くことは当然なく、届いたとしても受け入れられるものではなかった。正直もう諦めている。
先輩が席から立ち上がり、窓の外を見る。黄昏色に染まる空は、一日の終わりを告げているようでとても幻想的だった。
「うん、そろそろいい頃かしらね」
「何がですか?」
「ついてきて。良いもの見せてあげる」
先輩が少し意地悪く笑った。美しい風貌から放たれるそれはとても魅惑的な笑みで、嫌でもドキドキしてしまう。情けない。
つれられてやって来たのは校舎裏の近くだった。辺りを見る限り人影はない。部活動も丁度終わりを迎えて、ほとんどの生徒が帰ってしまっているようだ。
「こんなところで一体何をするんですか?」
先ほどは一瞬とはいえドキッとさせられたが、今はもう『良いもの』というのにあまり期待していなかったので、正直帰りたい気持ちになっていた。
「まぁまぁ、そう急かさないで」
先輩は嬉しそうに笑いながら僕を宥めた。それから少し小走りで僕から離れ、近くの木の側まで行く。自身の身体を叩いたりして丁寧に異常がないことを調べた後、二度ほど深呼吸をした。
「絶対、私に近付いちゃだめよ? 危ないし、その……あれだから……」
「あれ? あれって何ですか?」
よく意味が理解できなかった僕は、何が危ないのかぐらい教えて欲しくて問う。先輩は顔を赤くして「とにかく! 私に近付いたら怒るからね!」と言った。赤かったのは沈みかかった夕日のせいかもしれない。ただ、今から付き合わされることが危険の伴う行為だとわかった時点で、非常に嫌な予感はした。
先輩が身体を力ませながら「すぅっ」と息を吸い込み、止めた。何やってんだ、と思いながら先輩を見つめる。その時だった。先輩の身体が微かに揺れ、数十センチほど浮いた。ジャンプではない。確かに浮いているのだ。
魔女見習いだとか言っていたくせに箒も何も持たずに浮いている。空を飛ぶには道具が必要と思っていた僕の小さな夢は、今この先輩によって崩壊させられた。いや、これは偏見でしかなかったけれども。
僕は口をあんぐりと開けて、呆然と先輩を見つめる。細い綱を渡っているかのように両手でバランスを取りながら、先輩は自慢気に僕の方を見ていた。これがドヤ顔と呼ばれるやつか。リアルで見ると予想以上に腹が立つ。そんなことを思っている間にも、先輩はどんどん上へと上昇していた。木の上から糸でも垂らしているのだろうという安直な考えに至ったが、それは先輩が2メートル近くある木の枝のところまで浮いた時点で消え失せた。
人間が風で飛ばされることなんて滅多にないが、今は風さえ吹いていない。その線もナシだ。では先輩はどうやって浮いているのか。答えは見つからない。
「どう? 私の魔術は」
再び自慢気に言われた。すごいとは思うが、あの勝ち誇ったような表情をしている先輩をなぜか褒めたくはなかった。何だか負けたような気がしたからかもしれない。それに、この魔術には正直あまり魅力を感じなかった。どこで使うのだろう。
「う、うーん……。あ、そういうことだったんですね。寄るなっていうのは下から覗かれてしまうから……あっ……」
そこまで言って「しまった」と思った。先輩は空中でスカートを押さえながら顔を真っ赤にしている。あれは夕日のせいなんかじゃないとはっきりわかった。思ったことをすぐ口に出すのは良くないことだ、と良い勉強になった。
「見たの?」
「あ、いえ、見ていません……。すみませんでした……」
「本当?」
「本当です」
「そう。なら、許してあげるわ」と頬を膨らませてスカートを押さえる先輩が言った瞬間、大きく身体を揺らした。それは誰がどう見てもバランスを崩したような動きだった。先輩は両手をブンブンと振り回して必死にバランスを取ろうとしているが、もう間に合いそうにない。空中でぐるりと半回転し、背中から地面に落下する。
「きゃあっ!」
ドサッという鈍い音が鳴る。僕は先輩が地面に落ちる直前に強く目を瞑った。少ししてからゆっくりと目を開けると、先輩が「いたたた……」と言いながら上半身を起こしたところだった。八の字のように閉じられた足の隙間からは水色に白の星柄を散りばめた布が覗いている。
「あっ」
思わず声が出た。その声を聞いた先輩がすぐさまスカートを押さえつける。今まで以上に顔を赤くして、僕の方を睨んでいた。
「見た……わよね……?」
「見てま、せん……」
詰まりながらも何とか即答し、顔を背ける。僕の顔も先輩と同じくらい赤くなっていただろう。「良いものを見せてあげるわ」っていうのはこのことだったのか、と馬鹿なことを考える。
先輩は僕の言葉を無視して、「絶対見た!」と叫んだ。
「もう許さないわよ! 絶対許さない!」
「いや、でも見たくて見たわけでは……」
「何よ! それはそれで失礼じゃないかしら!」
「あ、いや、えっとぉ……」
「もういいわ! 薫くんには罰として今後絶対私の魔術の練習に付き合ってもらうから!」
僕に指を差しながら先輩は言った。どう考えても理不尽だ。
「えぇ! そんな……先輩が体操着でも何でも着ていればこんなことにはならなかったはずなんじゃ……」
「うるさい! 見えるからか、とか言って私を動揺させて落としたくせに! 女の子の下着見といて責任取らない気? そんなの許されないんだから!」
美人でお淑やかなイメージを完全に崩壊させた先輩が、僕に激昂する。自分で浮いて、自分で落ちて、自分で見せたのに、何で僕がこんな目に遭うのだろうか。
「この代償は大きいからね!」
涙目の先輩は僕の方へツカツカと歩み寄り、強い口調でそう言った。奇しくも僕の「嫌な予感」は、ここで命中したのだった。
そして、二週間後の空中浮遊訓練中に、先輩は僕の上へ落下してきた。
「ちょっと、また私の話聞いてなかったでしょ?」
先輩が頬を膨らませながら言った。人狼の話をしていたようだが、今までの経緯に意識を集中させていたため、ほぼ全く話を聞いていなかった。
「聞いてましたよ」
とりあえず適当なことを言ってみる。この先輩の話は話半分に聞いておくのが良いとここ二週間で学習した。最初の頃こそ、罪悪感と新入部員だからという思いでしっかりと聞いていたのだが、話し始めるとキリがない。どこでそんな知識を得てくるのかというぐらい何も見ずにスラスラと話したりするのだ。それで最終下校時間を大幅に過ぎたことも何度かある。以来、先輩の話は話半分でしか聞いていない。こう、右から左へ受け流す感じで。
「まぁいいわ。また下校時間終わっちゃったし、今日はもう帰りましょう」
そう言って先輩は木の近くに立てかけていた鞄を手に取る。そこで僕は初めて先輩が鞄を持ってきていることに気が付いた。
「あれ? 先輩、鞄部室に置いて来てなかったんですね」
「当然でしょ。そのまま帰るつもりだったんだから」
「僕、部室に忘れて来ちゃいました」
「あら。もう、仕方ないわね。はい、これ部室の鍵。待っててあげるから早く行ってきなさい」
僕は渡された鍵を手に取って「先に帰ってもらってても大丈夫ですよ?」と言った。先輩は「鍵は部長の私が管理しなくちゃいけないんだからダメよ。校門で待ってるから早くしてね」と笑いながら言い、校門の方へ向かって歩き出した。校門で待っているなら先生に叱られることもないだろうと考え、何も言わずに僕は小走りで部室の方へ戻っていく。
部室棟3階に僕らの部室はあった。机に置いてあった鞄を取り、鍵を閉めて2階への階段を下りていく。ふと階段の踊り場にある小さな窓から校舎裏が目に入った。先ほどまで僕らがいた場所の近くだ。そこには二人の男女の姿があった。窓が小さくて見にくく、彼らの上から見ているため、顔までは見えない。が、何となく雰囲気で告白でもしてるんじゃないかと思った。女子生徒は何かを必死で訴えている。男子生徒はそれを真剣に聞いていた。
(青春だなぁ……。いや、僕もまだ青春を謳歌できる歳ではあるんだけど……)
ふとそんなことを考え、あの二人がどういう結末を迎えるにせよ羨ましいと思った。彼女はフラれるのだろうか。彼は彼女を受け入れるのだろうか。僕はその結末が気になって窓からこっそり盗み見してしまう。罪悪感がぽつりと心の中で生まれたが、僕には縁のない世界なのだから少しくらい楽しませてくれ、と無視した。
そんな時だった。突然、男子生徒の方が彼女に飛び掛り、押し倒した。ぎょっとして飛び掛った男子生徒の背中を見つめたまま、固まってしまう。女子生徒は嫌がるように足をばたつかせていた。はっと我に返った僕はその小さな窓を開けて叫ぼうとしたが、立て付けが悪いのか焦りすぎてなのか、なかなか開かない。その間にも女子生徒は足をばたつかせて嫌がっている。その勢いは少し弱くなっているように感じた。
僕は仕方なく階段を全速力で駆け下りる。あれは完全に襲い掛かっていた。告白された嬉しさの愛情表現などでは決してない。嫌な汗が全身から噴き出した。
靴を履き替えることすら忘れて校舎裏へ全力疾走する。何とか1分もしないうちに校舎裏へ到着し、人影を探した。そこにはまだ彼らの姿があった。彼はまだ彼女に馬乗りになったままだ。その後姿に「お、おいっ!」と自分でも驚くくらいの大声をかけた。人の命が懸かっていたから出せたのかもしれない。
『そいつ』は僕の声に勢いよく振り返る。そして僕はその姿にぎょっとした。『そいつ』は人のような姿をしていた。しかし、顔はまるで犬のように鼻が細く伸びている。指先には獲物を捕らえるためのようなかぎ爪が付いていた。僕らと同じ制服を着ていて肌色もそっくりなのだが、見た目はお世辞にも人とは言えなかった。
そう。その姿はまるで先ほどまで先輩が話していた『人狼』のようだった。
口元と指先には赤い血が滴っている。それが倒れている彼女のものだと想像するのは難しくなかった。
「う、ぉあ……」
驚きのあまり身動きが取れないでいると、その人狼のような化け物は爛々と輝く目で僕を捉え、襲い掛かる狼のように四つん這いで頭を下げた低い体勢を取る。僕は恐怖のあまり全く動くことができなかった。蛇に睨まれた蛙とはこのことだろう。
その時、突然僕らの耳に旋律が届く。それがすぐにピアノの音だとわかった。しかし、今はもう最終下校時間も終わっているはずだ。ピアノがあるのは音楽室だけなのだが、音楽室が2階にあり、僕が通った時は部活も終わっていて誰もいないように見えた。そんな音楽室から微かに、しかし確かに届いてくる旋律はこの状況を一変させた。さっきまで爛々と目を輝かせていた人狼のような化け物が、急にその目に焦りの色を見せ始めた。困惑するように2階を見上げ、怯えるようにその場から立ち去ろうとする。
「あ、待……っ!」
僕は詰まりながら「待て」と言おうとしたが、もしもここで戻って来られても何もできることがないと悟る。そして人狼のような化け物は僕の声に耳を傾けることなく、たった1回の跳躍で2メートル近くある塀を軽々と越えてしまった。
それを呆然と見送った僕は、はっとして倒れている彼女に駆け寄る。彼女は左肩の辺りから大量に出血していた。携帯を使って急いで救急車を呼ぶ。
顔色は悪いが呼吸はしているし、脈拍もある。しかし意識はなく、呼吸は浅い上に速かった。誰が見ても一刻を争う事態だとわかる。僕はポケットから急いでハンカチを取り出し、止血のために傷口を強く抑えた。禄に応急手当の方法も知らないド素人のする止血だが、これ以外に方法が思いつかなかった。こんなことなら保健の授業をもっと真剣に受けておくべきだったと後悔する。僕はもう一度携帯を取り出し、今度は校門にいるはずの先輩に助けを求める。肩と耳で携帯を挟み、何とか傷口を押さえながら先輩に連絡できた。先輩は「すぐにいくわ!」と言って通話を切った。
先輩の適切な指示の元、何とか止血をした。そうしてしばらくすると警察と救急車が到着し、呆然と立ち尽くす僕の前で素早く作業をこなし、嵐のように立ち去って行った。残った僕と先輩は警察から事情聴取を受けることとなった。僕は警察にあの化け物のことを言いはしなかった。あんなこと言っても記憶が混乱しているだとか、動揺してそう見えただとか適当なことを言われるだけだ。実際僕だってあれが本当に現実にあったことなのかもうわからなくなってきていた。
ただ、あの獣のように爛々と輝く鋭い瞳の恐怖だけは、未だにしっかりと思い出すことができた。