第三話◇事故紹介
少し足を引きずりながらも辿り着いた通いなれた校舎、市立匂坂中学校は一ヶ月前と変わらない外観をしていた。もし一ヶ月程度の時間で目に見える変化があってしまっては、それはそれで問題なのだが、そんな事は一切無かった。
つまりは平常。
学業でも運動でも芸術でも、それ以外でも名を売り出す事なく、校舎自体も他校と比べて特徴を持たない匂坂中学校、匂坂町に相応しいその学校は、僕が知っているままの状態でそこに建っていた。
「はあ、漸く登校が出来た」
溜息と共に、僕は疲れを言葉にする。
こんな言ってしまうと、登校する事も困難な道程を通学路にしているのかと勘違いされてしまいそうだが、それはなく、ただ今日の僕の登校には普段どころか普通は有り得ない行程が含まれてしまい、そのおかげで登校に困難しただけだ。不審者に遭い、交通事故に遭い、朝から内容の濃い時間を過ごしてしまっただけで、通学路自体は一般的なものである。
僕の朝は非凡なものだった。
そして、そんな一般的な通学路を歩き、一般的ではない歩き方をして、『漸く』という言葉を付け加えても問題ない程度には多難な登校を終えた僕は、いつも通りではない事もあり、疲れていた。
病み上がり、という部分もやはりある。一ヶ月病院で怠惰な生活に慣れた事で身体が鈍り、まるで鉛でも引きずりながら歩いてきたかのような疲労を通学路中盤くらいから感じたのは否定出来ない。
しかし、それが主な原因ではない。
それを主な原因とするには、僕が感じている疲労度は度が過ぎている。元々身体能力に自信がある方ではなく、寧ろ自信を持ってはいけない方ではあるが、それでも、自分の通い慣れた中学校まで歩くのに、体力を消費してしまったと実感する事はなかった。また、たかが一ヶ月の入院でそこまで体力を落とした訳でもなかった。
それなら何故か、それは簡単だ。
僕は交通事故によって、怪我を負ってしまっていたのだ。
と、大袈裟に言ってみたが、実際はたいしたことはない。日常生活に支障を感じる事もないし、せいぜいが体育の時間が来る事を憂鬱に思うレベルだろう。
群裂朱璃さん、彼女に言った『大丈夫』という言葉は、虚言でも虚勢でもない。
僕は実際に大丈夫だった。
たとえ、事故から暫くしてから鈍い痛みを感じ、学校に辿り着く頃には右脚を引きずらなくてはいけない状況になってしまっていても、大丈夫だった。
別に自分に言い聞かせている訳ではない、本当に本気で大丈夫なのだ。
では何故、今の状態なのか。
それも簡単だ、僕は弱いのだ。
マラソン大会、五体満足の健康体である少年少女なら経験があるだろう、それを思い出してみて欲しい。
走っている途中に怪我をして、しかし走っている最中には気にならず、ゴールしてから痛み出し、普段の倍の疲労を感じてしまった、そんな経験はないだろうか。今回の僕はそれと似たようなものだった。
目的を果たし、それ以上行動せずともよくなると、目的のみに集中していた思考力が分散され、思い出したかのように身体が重くなる。怪我をすると、無意識の内に庇ってしまう事で普段とは違う身体の使い方をし、余計に疲れてしまう。
この二つの合わせ技だ。
この二つの合わせ技、病み上がり、不審者と変人との遭遇による精神的な疲れ、そんな華麗で奇麗な連携プレイによって、僕の身体は重みを増してしまったのだった。
脚も別段、痛む訳ではない。引きずっているのは疲れた身体に更に痛みまで感じさせたくないという僕の弱さだ。
だから普通に歩けるし、外靴から上履きに履き替える事も難無くこなせた。
けれど、疲れた。早く座りたい。
そんな思いを抱きながら、重い身体をゾンビのようにふらつかせ、僕は校舎の中を歩いていく。
途中、ちらりと他の学年やクラスの教室を窓から覗いてみると、どうやらホームルームの時間帯。担任教師らしき人物が連絡事項を伝えている様子が見える。この分だと、朝、余裕を持って外出したはずなのに遅刻と責められる事になりそうだ。
僕の担任教師、九郎原道典(苦労張る道程、もしくは苦労張る童貞で『苦労先生』や『童貞先生』と呼ばれていて、僕は『苦労くん』と呼んでいる)はお人好しの教員ではあるが、遅刻や無断欠席などの勉強をサボる行為は許さない。服装などには五月蝿く言わないのだが、勉強に関しては五月蝿い真面目な教師だ。いや、待てよ。よく考えてみると、お人好しだからこそ許さないのか。将来の為に勉強だけはさせておこうという有難迷惑なのだろうか。
まあ、それはいいか。
それは考えても仕方ない。その予想が当たっていようと外れていようと、僕には全く関係ない。問題はそれじゃないし、重要なのはそこではない。
このままだと、僕は叱られる。
ただでさえ不良学生に勘違いされる、金髪にピアスにだらし無い服装で注意はされないものの目を付けられている生徒ものだ。この機会に、いろいろと有り難くない説教を、馬の耳に念仏と分かっているのに強行してくるかもしれない。
それは勘弁を願いたかった。
だから言い訳を考える必要がある。
がしかし、それに気付いた時には既に遅し。眼前にはスライド式の扉、僕の教室である二年A組のクラスの前まで、もう辿り着いてしまっていたのだった。
どうやら信じ難い話から信じられる部分を抜き出して、信じやすい話をまとめる時間は、僕にはないらしい。
此処で少し休憩し、時間を作り、その時間を使って話を考えるのも一つの手だ。しかし、現在時刻は不明。ホームルームが終わり、いつ苦労くんが出て来るかも分からないこの状況では、その選択をして後悔する展開にならない保証は出来なかった。
だから、僕は後ろのドアを開けて、大人しく教室に入る事を選び、
「ごめんね、苦労くん……遅刻しちゃった。でもそれにはちゃんと理由があるから取り敢えずは聞いてくれないかな? まず僕って病み上がりじゃん? それなのに姉が海外旅行に出掛けたせいで朝から家事とかいろいろやらなくてさ。それに通学途中にストーカーっぽい不審者に絡まれちゃってね。おまけについさっき車に轢かれちゃってたりして。まあ、そんな訳でいろいろ合った訳で遅れちゃったりした感じなのですよ。退院したばかりなのにもう心身共にボロボロな状態? まあ、そんな訳で見逃してくれたらそれはとっても嬉しいなぁ、って思うんだよね。この上で更にお説教までされたりなんかした日には悪魔の折り紙よりも複雑で硝子細工よりも繊細な僕のハートが粉々になっちゃうぜ? 泣いちゃうぜ? 中学二年生にもなって叱られて泣いちゃう惨めで哀れな少年を生み出しちゃうのかい? 苦労くんはそんな鬼教師になるのかい?」
正直に話して同情を誘う事にする。
……。
…………。
………………。
しかし、反応はなかった。
改めて教室を、教卓の前の担任教師が居るであろう場所を見ると――不在。
どうやら僕は、する必要のない言い訳を、この場に居ない人間にしてしまっていたみたいだ。なんだか気恥ずかしい。
「おはよ、虚言少年」
「教室に入ってきた瞬間に嘘八百とか……今日も絶好調みたいだな、狼少年!」
「あ、おはようございます、愛姫く……じゃなくて嘘吐き少年、とか? 九郎原先生は用事ど遅れてるみたいですからさっさと座ってればバレないですよー?」
そんな若干羞恥を感じている僕の耳に聞こえたのは、入院している間に一回もお見舞いに来なかった薄情者の罵倒だった。しかも、常盤知佳、常盤大夢、鳥居陽菜、順番に返ってきた級友からの返事はどれも、心配の気持ちがこれっぽっちも篭っていない、一切僕を信用していない言葉だった。なんだこいつら。
ちなみに他の級友達を見てみると心配や信用どころか、反応すらしてくれていない。教師不在の状況を雑談に花を咲かせたりして目一杯楽しんでいるようだ。本当になんだこのクラス。
声を大にして叫びたい気持ちになる。しかし、これがこのクラスの平常運転。一ヶ月前から変わっていない通常通りの反応だったりする。級友が退院して登校してきたら、普通は涙ながらに駆け寄って来てもいいはずだが、むしろそういうところは変わっているべきだと思うが、それはそれ。このクラスには適用されていない普通だ。
でも僕以外が入院したりすると、千羽鶴どころか万羽鶴を折ったりするくらいには行動力が溢れ、仲間想いの良いクラスであると一応フォローしておく。本当に必要性の皆無なフォローだが。
ちなみに僕がクラスの中でいじめられっ子ポジションを確率し、無視を決め込まれる程嫌われている訳でもない。
最後にそんな自分へのフォローもしながら席に着き、疲れた身体(特に脚)を休める為に机に上半身を乗せる。
「ちなみに転校生? 転入生? 違いが分からないけど、とりあえず今日からクラスに新しい仲間が増えるみたいだぜ」
が、常盤大夢、双子の妹の常盤知佳と合わせて《チクタクコンビ》と僕が勝手に呼んでいる兄の方が気になる事を言ったので、思わず顔を上げる事となった。
「女の子らしい」
妹の方もそれに情報を付け加える。
どうやら何も変わっていない訳ではなく、当たり前だが僕が入院している間も時間は進んでいたらしい。
「友達になれたらいいですよね」
比較的仲が良い方であるはずなのにお見舞いに来なかった薄情者の最後の一人、鳥居陽菜も大夢が作った会話の流れに乗り出した。
みんな転入生(ちなみに転入生は言葉通り他の学校から入ってくる生徒で、転校生は他の学校から移動してきた生徒、つまり出ていく側と入ってくる側のどちらにも使える言葉だ)とやらを楽しみにしているようだ。耳を澄ませて教室のあちこちで繰り広げられている雑談も同じもので、クラスの関心は僕の退院や二つの遭遇なんかよりも新しい級友が増える事に集まっている。ちょっと悲しい。
しかし、そんな事を不満に思って不貞腐れる程子供でもないので、僕もその会話に混ざる事にする。
「随分中途半端な時期なんだね」
「ああ、確かにそうだよな。まだ二年生になったばかりだし親の仕事の都合とか? 知佳はどう思う?」
「進級して一ヶ月後、……もしかして新しいクラスに馴染めなかった?」
「いやいや、我が妹よ。それだけで転校とかどれだけ子供に甘い親なんだよ」
「でもでも、大夢くん。最近はイジメ問題って自殺に発展したりして危ないってお兄ちゃんが言ってましたよ」
「陽菜ちゃんの言う事も分かるけどさ、やっぱり親なら『虐められたら拷問し返せ』とか言うんじゃない?」
「ああ、お前んとこの“あのお姉さん”ならそういう事言いそうだよな。愛姫が虐めに遭う姿とか想像出来ねえけど」
「愛姫くんなら学校全体で虐めても平然としてそうですよね」
「陽菜に激しく同意」
「いやいや、僕ってメンタル面も弱いからそんな事になったら自殺しちゃうよ。知佳ちゃんも普通に同意しないで」
「それはない。てゆーか愛姫なら逆に喜ぶんじゃね? 通り魔に襲われた時もなんかニヤけてたし。な、知佳?」
「うん、私も見た。愛姫笑ってた」
「えっ、愛姫くんって実は変態さんだったんですね」
「いやいやいやいや、ちょっと待って、誤解しないでくれるかな? 僕はそんなアブノーマルな趣味は持ってないから……てゆーか、あの時はよくも囮にしてくれたな、チクタクコンビ」
「愛姫は殺しても死なないから大丈夫」
「そうそう。でも俺達は殺したら死ぬから大丈夫じゃない……って訳でアレは適切な判断だったな! つかダサいからチクタクコンビはやめろよ」
「じゃあ蝶の幼虫と蜂の幼虫」
「あれは別に兄妹じゃねえよ!」
「私、虫は嫌い」
「……? あ、ああ! なるほど、常盤だからですか! 分かりませんでした!」
「普通に感心してんじゃねえよ、陽菜!」
「ちなみに僕は電気鼠に必ず捕まえられる球を投げたよ」
「それは勿体ない」
「でも可愛いですよねー」
「お前ら人の話を聞けよ……」
と、まあ、そんな感じに最初の話題は何処へ行ったのやら、某育成&戦闘ゲームでの話をする僕、知佳ちゃん、陽菜ちゃん、とついでに大夢の四人。
その話は意外にも長く続き、なかなか盛り上がったのだが、しかし。
「おーい、静かにしなさい」
その会話は教室の扉が開く音と、中に入ってきた人物の言葉によって中断せざるを得なくなった。
その人物を見ると、先程まで騒いでいた級友達は一斉に黙り、自分の席から離れていた者も即座に戻り出す。
それから数秒し、教室の中が静かな状態になるとその人物はまた口を開いた。
「遅れてすまないな、みんな。少しいろいろあってな……」
黒板の前に立ち、出席簿を教卓の上に置き、苦笑する白髪混じりの男。僕達の担任教師の九郎原道典、その人だった。
九郎原道典――苦労くんは手早く出席を確認して欠席者の不在を確認する。名前を呼ばれ、返事をするだけの簡単な作業だ。ちなみに僕も自分の番になるときちんと返事をしたのだが、彼も僕の退院初登校には触れてくれなかった。
まあ、それはいい。
あまり良くはないのだが、今はいい。
僕にはそれよりもずっと気になる事があったからだ。
出席を確認し終えた後、苦労くんが教室の中に呼び出した転入生、僕はその少女を見た瞬間、思わず立ち上がってしまった。そしてその姿に目を奪われた。
とは言っても勿論、別に見惚れていた訳ではない。確かに少女は『美』を語頭に飾ってるべき容姿をしていたがそれは関係なく、僕は単純に、その少女の“髪色”に見覚えがあったのだ。
この匂坂中学校は普通の中学校だ。校則も当然存在する訳で、僕みたいにそれが自毛である場合以外では、黒髪以外は許可されていない。チクタクコンビも黒髪だし、陽菜ちゃんも少し明るいが黒髪と呼べる範囲だ。そして僕以外に特殊な髪色をした生徒なんて存在せず、教員でも白髪混じりの苦労くんみたいな人を除いて、全員が全員、黒髪の学校なのだ。
多分、他の学校もそれは同じで、基本的には何処もそんなものなのだろう。
しかし、転入生は違った。
僕と同じ“金色の髪”をしていた。
そしてそれだけではなく、恐らく転入生も僕とそう変わらない立場に見えた。
金色の髪、金色の眼、白い肌。眼の色は僕が赤という違いはあるが、僕と似ている部分が多かった。どう見ても日本人には見えない。生粋の外国人、もしくは僕と同じダブルである可能性が高い。身長は僕より少し低い程度、百三十以下だろう。
いや、ごちゃごちゃと身体的特徴を確認したが、それはどうでもいい。
問題はその“髪色”だけだ。
朝、僕が少しだけ見たあのリアルお嬢様、彼女も“金色の髪“をしていた。
つまり、彼女は――
「どうかしたのか、南?」
ざわめく教室中で全員が気にしている事を代表して苦労くんが尋ねてきた。それを聞いて、僕は正気に帰る。他人の目から見れば突然奇行に走った奇人だ。
慌てて着席しようとするが、それはもう遅い。教室内は何でもないで済ませられる空気ではなかった。
「……ん?」
そこで初めて転入生が口を開く。そして僕の事をじろじろと観察するような視線を向け、それから何かを思い出したような顔をした。
「そうか、貴様は今朝ぶつかった奴か」
その言葉で更にざわめく教室。チクタクコンビや陽菜ちゃんなんかは、どういう事なんだと聞きたそうにしているが、僕は応えない。ただ、じっと転入生を見続ける。
僕の予想は当たっていたみたいだ。
それを転入生の言葉で確信した。
どうやら彼女こそが僕を轢いた車の後部席に居たリアルお嬢様、その本人だったようだ。
「……つまり、朝のあれは転校生イベントだったんだ」
げんなりとしながら呟く。男子にとって嬉しいイベントを嬉しくない形で体験するとか、どれだけ不運なんだろうか。
まあ、それはいいか。今はそれよりもリアルお嬢様への返事だ。
僕は気持ちを切り替え、そのまま朝についての事を彼女に話し掛けようとして、
「あー、静かに。南も知り合いだったみたいだが、今はそれよりも席に着け」
しかし、その瞬間、苦労くんが両手を合わせて音を出し、注目させてから注意した事によって、その機会を逃してしまった。話し掛けるのは後にするしかないらしい。
僕は大人しく席に着き、他の級友達も静かに黙り込んだ。
それを見届けると、準備は出来たとばかりに苦労くんはリアルお嬢様に言う。
「それじゃあ、クリスティさん。まずは自己紹介をお願いします」
それを聞くと、リアルお嬢様は小さく頷き、黒板に文字を書き始めた。
クリスティという苗字でも分かったが、英語で名前を書くリアルお嬢様を見て先程の仮説を思い出す。やはり彼女は日本人ではないようだ。
「はい、それではどうぞ」
リアルお嬢様が黒板に書き終えると、苦労くんが紹介を促す。
黒板には『Eve Christie』と書かれていた。それが彼女の名前らしい。
僕はかなり奇妙な縁ではあるが、せっかく出来た縁は大切にしようかなと、彼女の自己紹介を一字一句聴き逃さないように集中する事にする。他の級友達も同様。仲間想いな彼等は、新しい級友の最初の一言を聴く為に、一挙一動を逃さないように、全員が注目していた。
歓迎する用意は出来ている。
準備も全てが整った。
そして転入生、クリスティは、
「イヴ・クリスティだ。宜しくはするつもりはない。私は貴様達のような愚民と馴れ合うつもりはない。見るな触るな近付くな。声を掛ける事も許可しない。友達ごっこは貴様達だけでやっていろ」
――とんでもない毒を吐き出した。
13日の金曜日。今回、書き出しから快調に滑り出し、書き終わりにすぐに到達出来たのは、この日に間に合わせようと無意識に頭が高速回転していたのかもしれません嘘です。予約投稿する時に偶然気付いただけです。本当は最近投稿したばかりだし来週にでも予約しておいて「鋭意執筆中」とか言うつもりでした。