第二話◇自己紹介
匂坂町について詳しく知っているかと誰かに尋ねられたら僕は迷わず《No》と即答出来る自信がある。この町について僕が知る事は少ない。せいぜいが一丁目から六丁目まで地区ごとに分かれていて、数字が小さい地区ほど豪華な住宅地になっているという事ぐらいだ。生活に必要な情報については所有しているが、それ以上詳しくと言われると総人口や町の正確な大きさすら分からない。
だから迷子の子供に道を訊かれても自分の生活する範囲外の事ではきっと満足させる事が出来る答えを返せないだろうし、自分の生まれ育った町についてレポートを提出しなさいなんて課題が出たら、義務教育という真面目に勉強しなくても卒業出来るゆとり制度を利用してそれ自体をサボるか、協同作業という名の依存作業で誰かの課題を写して我が物顔で提出する予定だ。
この町は全国的にも有名ではない。都会でもなければ田舎でもなく、田舎であれば都会でもある。そんな中途半端な町に旅行客や観光客なんて訪れるはずがなく、この町から生まれた人間、商品、会社などが名を轟かせる事もなく、有名になるきっかけさえも訪れる事はない。
平々凡々で尋常一様。
それが匂坂町だ。
僕はそんな程度にはこの町を知っていて、僕はそんな程度にはこの町を知らない。それに知りたいと思った事もない。きっとこれからも思う事はなく、そのせいで何か困る事が起きて《あの時ああしていれば》と後悔したとしても、その後に知ろうとする事もないのだろう。
匂坂と書いて《さぎさか》なんて変わった地名の町が日本にあり、僕はその町で今日も日々を生きている。専門的に勉強する予定がない僕には今あるだけの知識があれば十分過ぎる程十分である。
さて、そんな匂坂。その三丁目。僕が住んでいるマンションや通っている中学校がある地域。僕の現在位置は遅刻しそうなギリギリの時間帯になっているのにも関わらず、まだその通学路の中盤辺りにあった。
一ノ宮嘉穂。
自称情報屋の変質者。物知り狸。知り得ない事を知っていたストーカー。心を読んでいるかのように会話する変人。中学生をナンパしてくる変態。事件か何かが始まる前に犯人を決め付ける迷推理、数々の衝撃発言、予知能力者のような問題発言を紡ぎ出した彼女。
彼女と平談俗語を用いて俗談平話を繰り広げていた数十分の無駄な時間が原因なのは言うまでもない。考える事を止めて話を聞き流していたせいか解放されるまでにかなり時間が掛かってしまった。
しかし。
「結局何もされなかったや」
それでも無傷で解放された事は幸運だ。それには深く感謝しなければならない。もし退院したばかりなのに直ぐに入院生活に戻れば面倒な事になる。それだけは避けたいし、それだけは避けなければならない。それにまだ見舞いに来なかった担任や級友達に文句の一つも言えていない。だから学校にすら辿り着けずに病院に送り返されるのは御免被りたい。
「だからそれだけは幸運なのかな」
それにしても一ノ宮嘉穂。
彼女は何がしたかったのだろうか。
あの後に展開された会話は結局普通の域を越えない雑談だった。あのアーティストのアルバムの三曲目は素晴らしいけど実は盗作だとか、あのライトノベルは人気だけれどキャラが可愛いだけで物語や文章表現はクズ以下だとか、この前本物のスナッフフィルムを手に入れただとか、今一番面白い漫画雑誌は月刊ジャンプだとか、某有名小説家が原作を担当している漫画がアニメ化するがあの声優はどう考えても声優オタク狙いでキャラに合ってないし凛としていないだとか、彼女はくだらない事しか話さなかった。
彼女については結局何も聞けなかったし、犯人と宣言された《倉永栄光》なる人物についての話も全く聞けなかった。
本当に何をしに来たのだろうか。
僕に会いに来たような雰囲気を醸し出していたのに僕自身に尋ねた事は本人かどうかの確認だけ。少し警戒していた僕が馬鹿みたいだ。暇だからぶらついていたら知っている人間に会って、少し暇潰しに付き合わせただけだったような気がする。
いや、もしかしたら本当にそうだったのかもしれない。例えば大学へ向かう途中に予てより知っていた人物の姿を見つけ、面白そうだからとついからかってみた。それならあの変質者っぷりにも納得出来そうだし、一目見ただけで性悪だろう事が分かるくらい捻狂っていそうだった彼女の性格を考慮してみても十分有り得そうだ。
けれど納得出来そうなだけで、それが真実だとは納得出来ない僕の感情。そんな単純過ぎる事で終わらないと伝えてくる僕の直感。彼女は間違いなく間違えようなく確実に厄介な人間だと教えてくる僕の経験。
あれだけの事で一ノ宮嘉穂について結論を出すのは早計と言うしかない。
現段階では、分からない。
それが彼女についていろいろ考えた末に僕が分かった事だった。
と、その時。
「………………あ、れ?」
突然の出来事だった。
背中に鈍い痛みが走った。
寸前に聞こえたのはブレーキ音。ゴム製のタイヤが地面と強く擦れて悲鳴を上げ、その音に気付いて後ろを振り返ろうと首だけ先に回したところで背後から思い衝撃を受け、僕は鳥になった。
と、不可思議で曖昧な表現で状況を柔らかく説明しても、僕自身も不可思議で曖昧なふわふわした状態になる訳ではなく、
「げふっ!?」
浮かび上がった身体は重力に引かれてそのまま僕は地面に叩き付けられた。
自分に何が起こったのかは辛うじて理解出来た。自分が何に飛ばされたのかは辛うじて眼球で捉えた。
僕は交通事故に遭ったのだった。
突然で唐突で突発的に。
曲がり角を曲がった瞬間の出来事。
十字路を右に曲がると後ろから黒い車が突っ込んできた。
車には詳しくないから確かな事は言えないが、確かロールスロイスとか呼ばれる車だったと思う。大体四千万から五千万円程度の値段の高級車で、当然の如く一般人には手が出せない車だ。だから偏見かもしれないが黒塗りの高級車に乗っているなら、運転手はその筋の三と八と九の数字で例えられる職種の人間かもしれない。
つまり何が言いたいのかと言うと、また厄介事の臭いがするという事だ。
痛みよりもそれが気になって仕方ない。
左右か後方の確認か、もしくは一ノ宮嘉穂の助言を覚えていたらこんな事にはならなかったのだろうか。
まず甲高いブレーキ音が聞こえて、その直後に何かが――いや、僕と車がぶつかる音がして楽しくない空のお散歩へ。
「あ、そっか。あの不審者が言ってた《ぶつかる相手》ってこれの事か」
偶然か必然か一ノ宮嘉穂の予言は奇しくも的中したという訳か。彼女の異常っぷりが本格的になってきてしまった。
しかしながらそれにしても不満が残る。どうせ《ひかれる》なら車に轢かれるのではなく、女の子に惹かれる方が良かった。更に言うとどうせ曲がり角でぶつかるのなら古いと言われようがテンプレと言われようが、食パンを咥えた転校生が良かった。
今更言っても仕方ないけど。
「……大丈夫ですか?」
と、そんな風に轢かれ引かれたせいか馬鹿な事を考えながら地面に横たわっていると、女性のものらしき抑揚のない無機質な声が聞こえてきた。
無事を確認している割には感情が篭っていない声だが、恐らく僕を轢いた運転手のものなのだろう。姐御とか姐さんとか呼ばれていそうな声質には感じないが僕の心配は外れていたのだろうか。
そんな事を考えながら、僕は少し節々が痛む身体を起き上がらせた。
そして返事を返そうとして砂埃を払いながら声のした方を見ると、
「………………メイドさん?」
そこに居たのは頭にホワイトブリムを飾り、スカート丈が長い黒のエプロンドレスを身に纏った、分類で分けるとヴィクトリアンメイドに該当する女性だった。
「はい、メイドでございます」
気分はアイキインワンダーランド。フレンチメイド型のメイド服を着た女性なら某オタクの街とかで見かけそうだが、装飾の少ないヴィクトリアンメイド型のメイド服を着た本物っぽいメイドさんに出会ってしまった。匂坂町はいつの間にある意味無法地帯に変貌してしまっていたのだろうか。
「……あの、お怪我はございませんか?」
そのままぽかーんと間抜けな表情でリアルメイドさんを見つめていると、また無機質な声が聞こえた。どうやら彼女は僕の呟きや失礼な態度を気にしている様子はなく、身体の状態のみに注目しているようだ。
「…………あー、大丈夫です」
「そうですか。それは安心しました」
取り敢えずいつまでも黙っているのも失礼なので無事を報告してみると、返ってきたのは先程と同じ様に感情の篭っていない言葉だった。別に心配して貰いたい訳ではないがどうも調子が狂う。
「毛も男にしては長い方です」
「はぁ、そうですか」
ボケてみてもくすりともしない。これが噂の鉄仮面メイドとやらだろうか。何か反応して貰えないと恥ずかしいのだが、しかし、メイドさんは僕の心情に気付いている様子はない。いや、もしかしたら気付きつつも反応していないのかもしれないが、それでも彼女が微動だにしない事には変わりがないので同じだ。いつの間に拾っていたのか、僕の鞄を差し出しながら無表情で直立しているだけで、まるで人形や機械のように不気味で気味が悪い姿を晒し続けている。
「あの……ありがとうございます」
「いえ、本当に申し訳ありませんでした。お怪我がなくて良かったです」
そんなリアルメイドさんから鞄を手渡される事にはもちろん緊張したのだが、出会った当初からの無反応は変わる事なく、彼女は僕がそれを受け取るのを確認すると礼儀正しく一礼するだけで何もする事はなく、少し拍子抜けした。
もしかしたら見た目とかは変わっているだけで普通の人なのかもしれない。
そう感じた僕は一先ず警戒を止めてリラックスする事にした。
「申し遅れましたが私の名前は群裂朱璃。先程貴女が呟いた疑問の通りメイドです。あちらの車の後部席にいらっしゃるお嬢様に仕えております」
「あ、どうもご丁寧に。南愛姫です。普通に中学生とかやってます」
「いえ、こちらこそ。しかし本当にお怪我をなさってはおられないのですか?」
「節々が痛む程度です。これなら数日で完治すると思います。怪我には慣れているので一応ある程度はわかるんですよ」
「それは何と申しますか……」
「あはは、お気になさらず」
そんな風に気が楽になったからか慣れないやり取りにも直ぐに返事を返せたし、他に気を配る余裕も出来た。
軽いやり取りをしながらリアルお嬢様という未知の人種が気になり車の方に視線を移す。すると角度的な問題でハッキリとは見えないが助手席の後ろに長い金色の髪の少女らしき姿が窓から伺えた。きっとあれがメイドさんが仕えているお嬢様なのだろう。事故が起きたというのに車から一歩も出て来ない辺り気難しい性格なのかもしれないという推測が出来る。もしかしたら高飛車お嬢様キャラなのかもしれない。メイドさんもいるし。
「……………………………………………………………………………………………………………………あっ」
と、車からメイドさんに視線を戻そうとした時に気が付いた。それと同時に何故今まで全く気にしなかったかのか自分を責めたい気持ちにもなってしまった。
黒塗りの高級車。ロールスロイス。メイドさんを雇える程の人間が乗る車。お嬢様と呼ばれる人間が所有する車。一般人には手が出せない庶民の憧れの車。
その家が買えそうなくらい馬鹿高いだろう高級車のボンネットが凹んでいた。
「にゃんてこったい」
思わずキャラ崩壊。普段クールを気取っている僕らしくない言葉が漏れる。
こういう場合は弁償しなければいけないのだろうか。いや、保険とかで大丈夫なのだろうか。てゆーか僕は被害者っぽいし、基本的に車と人の事故は車側の責任になるって聞いた事あるし。でもお金持ちなら権力による圧力とかありそうだし。しかもお金持ちってケチな人が多いみたいてゆーかケチな人がお金持ちになるみたいだし。高飛車お嬢様キャラな可能性を先程予想してしまったし。
大混乱が頭の中で頭痛が痛い。
もし弁償する事になっても愛華姉さんは確実にお金を出してくれない。あの人なら僕を笑いながら売り飛ばすくらいやってのける気がする。あの悪魔の様な悪女には期待出来ないるはずがない。
えっ、やばい。本気でやばい。
最悪なる女王様が不在ではしゃいでいたから罰が当たったの?
「どうかしましたか?」
そんなメダパニ状態で聞こえる声は当然の如くメイドさんのもの。態度には出さないように注意はしていたが、よく考えたらいきなり黙る時点で不自然だ。彼女はそれを不審に思ったのだろう。
しかし、これは好機だ。限りなく危機的状況に追い込まれつつも見えた一筋の光だ。あちら側から尋ねてきてくれた事で、言い出し難い事を言い出す絶好の機会を僕は手に入れられたのだった。
それを逃す僕ではない。
僕は直ぐさま強気に話を切り出した。
「いや、あのですね……良い車に乗っていらっしゃるんですね。確かロールスロイスでしたか? そんな高級車を所有しているなんて流石はお嬢様と言うところでしょうか。そしてそんな高級車を華麗に乗り回すなんて流石はメイドさん……いえ、敢えて群裂さんと呼ばせて頂きますね、流石は群裂さんです。あ、皮肉とかじゃないんですよ? 群裂さんのブレーキが早かったおかげで僕はこうやって元気に話せているのですし、そもそも曲がり角というのは元来事故多発地域ですし、今回の件は自動車側の責任だけじゃないんですから。僕もちゃんと上下左右確認出来ていたかと問われたら否定は出来かねますし、自動車と人間の事故は自動車の責任ばかり追求される昨今の世の中には疑問を感じているんですよね、あはははは」
あれ? 畳み掛けたつもりが自分を陥れようとしているし、肝心な事自体は聞けてないぞ? おい、しっかりしろ僕。
「は、はあ、そうですか」
ほら、群裂さんも無表情なのに何処となく反応に困ってるような雰囲気醸し出し始めちゃってるよ。ヘタレてんじゃねーよ南愛姫。お前は出来る子。
「…………で、本題なんですけど」
「本題、ですか?」
そうだそうだ、頑張れ僕。
「死ぬ迄にはちゃんと弁償しますから臓器はちょっと勘弁してください!」
爽やかに笑顔を浮かべながら情けない言葉を言い放った金髪ピアスの中学生。こいつが自分であるとは信じたくなかったのだがそれは紛れも無く事実で、
――南愛姫はヘタレだった。
「何と言うか……愉快な方ですね」
そして、初めて見た群裂さんの無表情以外の表情は苦笑いだった。
無表情キャラっぽい人のレアな表情を見れたのに全く嬉しくない。寧ろ下降していく一方だ。これ以上ない程に気分が沈み、気恥ずかしさも合わせて今すぐ消えてしまいたくなってしまった。
しかし、そんな風に気分急降下な僕に嬉しいお知らせが届く事となる。
「心配なさらずとも大丈夫ですよ。貴方に修理代を請求するつもりはありません。寧ろ慰謝料や迷惑料を払わせて頂かないとこちら側が申し訳なくなります」
句の付けようがない完璧な動作で頭を下げながら、群裂さんは言った。
「本当、ですか……?」
「ええ。私は嘘や偽りや裏切りという行為があまり好きではありませんので」
それを聞いて、思わず僕は心の中でガッツポーズをした。
落ち込んでいた気分が上昇していく。
不安は一気に消し飛んだ。
「それにお嬢様はとても優しい方ですから。車で轢いておきながらその被害者から金銭を要求するなどしたらきっとあのお方は心を痛めてしまうでしょう」
そして群裂さんが続けた言葉に更に安心度が高まり、僕は顔も知らないリアルお嬢様に多大な感謝と祈りを捧げた。
いろいろと偏見で悪い言葉を言ってごめんなさい。ありがとうリアルお嬢様。ありがとうリアルメイドさん。
一時は戸惑い焦り諦めかけてしまったが事故と事故後で二重に張られていた死亡フラグは無事に回避出来たようだ。
今すぐにでも跳びはねるたい衝動に駆られた。よく考えたら当然の言葉なのだがそれに気付かず、その場で小躍りしたくなるようなハイテンションだった。
この瞬間の僕は色んな意味で幸せ者という言葉がお似合いの馬鹿だった。
色々と勘違いがあったり第一印象が最悪だったりしたが、群裂朱璃さんというメイドさんは良い人なようだ。礼儀正しく真面目で優しい。少し変わっているが出会ってきた人間の中ではまともな部類に入れても良い方なくらいだ。
「ありがとうございます、群裂さん」
「いえいえ、当たり前の事ですから。とにかく貴方にお怪我が無くて本当に良かったです。もしもそのお顔にでも傷を付けてしまっていたらと思うと胸が……」
「気にしないでください。この通り僕はピンピンしていますから」
「お優しいのですね、南様は」
「そんな事ないですよ。優しいのは群裂さんやお嬢様さんの方です。心配してくださって本当にありがとうございます」
言って、僕は深々と頭を下げた。
同じ様に群裂さんも頭を下げる。
そして。
それからも少しやり取りがあり、
「では、そろそろ時間の都合もありますのでこれで。連絡先はそちらの鞄の中に入れておきましたので後でご連絡下さい。後日改めて謝罪に伺わせていただきますので」
「はい、ありがとうございました」
「南様、それはこちらの台詞です。本当に申し訳ありませんでした。そして本当にありがとうございます」
「はい、それじゃあ今日一応連絡だけはしますので」
「お待ちしております」
それを終えると、リアルメイドさんこと群裂朱璃さんは車塗りの高級車に乗ってお嬢様さんと一緒に去っていった。
「……いつの間に入れたんだろ」
見送った後鞄を確認すると本当に連絡先が書かれた名刺が入っていた。この程度が出来なかったらメイドは務まらないとかそういう技術でもあるのだろうか。
「まあ、いいか」
名刺を学生服のポケットにしまい、それから通学路をまた進み始める。
僕の一日はまだ始まったばかりだ。
お待たせして申し訳ありません。漸く第二話投稿しました。
文字数だけはやたら多くて盛り上がらない話。時間の関係で断念しましたが、この第二話と次の第三話が合わせて第一話になる予定でした。
匂坂町とやらは実在するかどうかは知りませんが、もし実在していてもそれとは別の町です。『この物語はフィクションであり、実在の人物・団体などには一切関係ありません』です。虚構世界で虚言少年がいろいろやるだけの妄想です。
そんな妄言だらけのこの妄想にこれからも付き合って頂けたら嬉しいです。