そして始まりの晩へ 4
「多分この町に入っただろう相手を探していて、手掛かりがほとんどない状態です。どうか手を貸して下さい」
男は面白いものでも見るように人形を見ていた。
「君は若いのに礼儀を知っているね。素晴らしいことだ」
穏やかな男の声に人形は顔を上げた。
人形と目が合い、男は深く笑む。
「しかし君。持ち合わせはあるかい?」
「持ち合わせ……」
それは金銭のことなのだろうが、つい先刻まで人形だった身にそんなものの持ち合わせがあるわけがない。
人形が言い淀んでいると男は言った。
「管理者といっても慈善事業じゃないからね。この町で無償の善意などないということを、君はまず知った方がいい。無償の善意があったとしたら、それは裏に何かあると思って間違いない」
そう言われても人形が男に支払える物など何もない。人形が持ち合わせているものなど、今ここにある自分の身一つだけだ。
俯き黙り込んだ人形を見て、男はしばらく考え込むような素振りを見せた。
「とは言え、どうやら迷子も同然らしい君に金銭を請求するというのは酷か。……君、将棋はできるかい?」
男の唐突な問いかけに人形は軽く面食らいながらも答えた。
「実際に刺した経験はないですが、多分」
将棋は主とその家族たちが指しているところをずっと見ていた。基本的なルールくらいなら人形にもわかる。
そんな人形の答えに男は満足そうに頷く。
「ならいい。では将棋一本勝負をして、君が勝ったら私は君に協力しよう。管理者権限を余すことなく使ってね。それでどうだろうか?」
「……構いません」
男に将棋で勝てるかどうかはわからないが、他に彼の助力を受けられる可能性はないのだ。受ける以外に道はない。
「ふふ。では親爺、将棋盤を貸してくれ」
男は店の親爺に声を懸け、縁台に腰かけ直した。そして親爺が運んできた将棋盤を挟み、人形はその隣に座った。
駒を並べながら男はふと思い出したように声を上げた。
「そう言えばまだきちんと名乗っていなかったね。私はこの町の管理を任されている者でシノと呼ばれている」
「俺は――」
答えようとして人形は口を噤む。
智恵子の言葉が蘇る。この町で名を名乗ってはいけないと。他人に名前を知られればとても恐ろしい目に遭うからと。
しかしそれを思い出したところで紅子と違い、自分には名前などないのだが。けれど便宜上、呼び名は必要か。
人形はしばらくの逡巡の後に名乗った。
「……遊佐です」
主と前の主の共通の名。
つい先刻、死に絶えた家の名前。
決して自分の名前ではない、けれど自分とよく似た主の名前。
この町では本性を晒すべきか躊躇われる。その上つい先程までは人形だったはずなのにこうして自我と人と寸分変わらぬ姿を得た自分という存在をどう説明していいのかもわからない。説明すべきかどうかすらわからない状態だ。
せめてシノが信頼できる人物だと確信できるまで、今の自分と瓜二つの姿を持つ主の素性を借りよう。そう思い、人形はその名を名乗った。