彼らの視点 5
近隣からは「遊佐家の病弱な長男」と称される智恵子の孫はその日も体調が優れず自室で伏せっていた。彼が浅い眠りから目を覚ますと室内は真っ暗だった。
すっかり日は落ち、障子の隙間から赤茶けた色に輝く月が覗いていた。
「……嫌な色だな」
喉から出た声は自分で思っていたよりも掠れていた。その上全身が汗ばんで気持ち悪い。
痩せた手を伸ばして枕元に置かれた水差しから水を注いだ。コップ二杯の水を飲み干すとようやく息を吐いた心地になる。
傍らの時計に目を遣るともう日付が変わろうかという頃だった。まだ体にだるさは残るが、少し空腹感を感じた。朝方粥を一口食べたきりだったので無理もない。家族は皆もう休んでいる時間だし、何か作ってもらうことは無理だが台所へ行けば何かしら食料があるだろう。
ふらつく足取りで布団を出ると、空気の生温さに目眩がした。
この屋敷は風通しのよい造りになっているので、夏と言えど夜はそれなりに快適に過ごすことができる。 それなのにこの肌にまとわりつくような温さは何なのだろう。
地球温暖化の影響か、それとも体調のせいで体感温度がおかしいのか。どちらだろうと考えていると、傍でゴトリと重い音がした。
音のしたほうを見ると、祖母からもらった人形が棚から落ちていた。
――この人形はあなたにお顔がよく似ているから、きっとあなたの身代わりとなって守ってくれます。
幼い日にそう言って祖母に渡された人形。病がちで満足に外で遊ぶことも学校に通うこともできなかった自分の最初の友達。
畳の上に落ちた人形を拾い上げて軽く検めたが以前からあった小さな傷以外、新たな破損個所もなくほっとしてまた棚の上に置いた。
祖母が言う通り、若い男を模したこの人形は確かに自分に似ている。幼い頃から目元や口元が似ていると祖母に言われてはいたが年を重ねるにつれ、鏡に映る自分と人形との顔はますます似通ってきた。家族はずっと一緒に暮らせば似てくると言うが、人形と人間とでも同じことがあるのだろうか。
そんなことを考えつつ襖に手をかけると、再びゴトリと音がした。後ろを振り向くと、案の定先程と同じように人形が畳の上に横たわっていた。
「またか」
今さっき、確かに棚の上にしっかりと置いたはずなのに。古い屋敷だし、家人も気付かないうちに傾いているのかも知れぬ。一度父か母に言っておこうと思いながら、もう一度人形を抱き上げた。
自分によく似た人形。表情らしい表情のないその人形の顔に妙な色を見た気がした。そんなことがあるわけがないのに、なぜかその時、見慣れたはずの人形に今まで見たこともない苦渋のような焦燥のような、そんな表情を浮かべているように見えた。
だが常識的に考えてそんなことはありえない。少し熱っぽいからきっとそのせいだろう。
そう思い、人形を置き直して今度こそ襖を開け放った。
静まり返った暗く長い廊下から、何か鼻につくような匂いがした。生臭く、どこか鉄っぽい匂い。目を凝らし、廊下の奥へ視線を向けると一瞬、暗闇に鮮やかな赤を見た。
赤い。
そう思ったところで彼の意識は途切れ、そしてまたその命も途切れた。