赤迷宮に惑いて 8
時折青白い鬼火が飛び交うくらいしか灯りのない薄暗い通りは大通りとは違ってあまり人気がない。偶にいたとしても、見るからに危険そうな輩や品定めするようにこちらを見てくるような輩がいるくらいだ。
灯りも人気もないここは裏通りと呼ばれる。裏通りとは大通りからは外れた町で最も治安の悪い場所の通称で、ある程度町に慣れた者であっても身の保証は出来かねるような場所だ。裏通りにはより濃く深い闇を好む者が多く居着いているから。
ユズリは太刀を左手に裏通りを歩いていた。
本来なら小娘といえる外見のユズリが一人でこんな場所を歩いていれば、途端に目をつけられそうなものだが、ユズリに至ってはそういった例はあまりない。
小娘でしかないユズリが管理者候補の一人で刀狩番付の上位常連者だということ、さらに管理者の娘というだということを知っている者は知っているので、用心深い連中は迂闊に手は出してこないのだ。それに、手出ししてくる相手がいれば返り討ちにすればいいだけだ。正当防衛という名目も立ち、日頃の憂さ晴らしにもなるというものだ。
裏通りにはあまり立ち入るなとは昔からシノに言われてきたが、今はひたすらにシノの言葉に逆らってやりたい。もっとも今日のことがなくとも、以前から刀狩りの獲物を求めて時折裏通りには足を運んでいたのだが。
そして今日。皆真赤姫を警戒しているのか、裏通りもやけに人が少ない。そして常ならそこかしこで揉め事の種が転がっているというのに今日はそれすらほとんどない。
これでは今日一日だけで溜まりに溜まった鬱憤を晴らせないではないか。
「ったく。本当に景気の悪い一日だわ。厄日かしら」
ぼやきながら歩くユズリの耳に、遠い叫び声が聞こえたのはすぐのことだった。
悲鳴、怒声、奇声、そしてそれらに混じり、ほんの僅かに聞こえる笑い声。
考えるよりも先にユズリはその場を走り出した。
灯りが少ないため視界は悪いが、この辺りの地理はいくらか把握している。勘とまだ続く声だけを頼りに、その複数の声が聞こえる場所へと叫ぶ。
今まで真赤姫が現れたのは裏通りがほとんどだ。あんな事件を連続して起こすのだから人通りの多い大通り辺りには現れまいという希望的観測、そして何となくそうである気がしてならなかった。
ぞわぞわと酷く嫌な気配がする。どういう風にと具体的に説明するのは難しいが、とても嫌な何かがこの先にあるというような。
町では肉体ではなく魂が表に出るからなのか、此岸にいる時よりも五感が研ぎ澄まされ、身体能力が向上する者もいる。
ユズリもそうだ。五感も身体能力も、此岸でごく普通の学生として過ごしている時には考えられないほど向上する。
感覚は鋭敏になり、高く跳ぶことも、早く動くこともできるようになる。肉体と魂ではそれぞれ持ち得る能力の値も異なっている。だから魂が表に出る町では此岸とは身体能力値に差が出てくるのだろうとシノあたりは言う。
それがどこまで本当かは知らないが、今のユズリにとって重要なのはこの町における自分の感覚は信用できるということだ。
だんだん声の元に近づいてくるのか聞こえる声が鮮明になってくる。だがそれと反比例するように聞こえる声の数が減っていく。そして聞こえる声の殆どが悲鳴へと変化していく。
木製の塀に囲まれた細い路地を曲がったところで、ユズリの足が止まった。
赤。
赤。
赤。
塀も路地も、ひたすらに赤一色に染まっている。
漂う鬼火に照らされ、より鮮明な赤が映る。
まだ奥へと続く路地の向こうまで赤は続いているようだった。
鼻に付く生臭い匂いに目眩を覚える。逃げ出したいと思う自分を叱咤して、赤く染まった路地をゆっくりと進む。
あちこちに破片が、先程までは誰かの肉体の一部だったのであろう部分が飛び散っている。あまりの惨状に吐き気が込み上げてくる。よろめきかけたところを何とか体勢を立て直して顔を上げた時、行く手に漂う幾つかの鬼火が、そこに二つの人影を映し出していた。
体中から血を流す風体の悪い男へと影がひとつ向かって行った。
まるで舞いでも見ているように錯覚してしまいそうになったのは、その影の動きがあまりに優美で柔らかだったからか。
影は一瞬、男の体に隠され見えなくなった。
そして次の瞬間には、男の体が中心から真っ二つに割れていた。真っ赤な血飛沫を上げながら二つになった体は赤く染まった地面に崩れ落ちた。
そしてそこに残った影はひとつ。男へと向かっていった影がその場に佇んでいた。
その横顔を鬼火が照らす。
艶やかな黒髪。白くなめらかな頬。切れ長の黒い瞳。通った鼻筋。赤い小さな唇は緩く弧を描いている。
それはとても美しい女だった。まるで人形のように、とてもとても美しい女だった。
けれど女の白い頬は返り血を浴び、元は綺麗に結われていたのであろう黒髪は乱れ、幾筋かその背に零れている。切れ長の黒い目はユズリに向けられることなく、辺りを染め上げた赤だけを見詰め、恍惚とした表情を浮かべている。
「ああ、ああ……赤、赤」
うっとりとした調子で女は呟く。
ユズリの存在など気付いていないかのように、己の作り出した赤い場にしか心はないように、喜びの声を漏らしていた。
ぞっとした。
その白い肌にあまりにも赤が映え過ぎて。その豪奢な着物が、帯が、打ち掛けが……その手に握られた柄が、あまりにも赤すぎて。
女の手に握られた短い刀の刀身からは赤が滴り落ちている。
女は赤く染まった刀身や辺り一面を染め上げる赤を見て、この場に不似合いな、あまりに無垢な笑みを浮かべると陽炎のように揺らめいた。
声も出せずにいるユズリの先で揺らめいた女は、影も形もなくその場から消え失せていた。まるで全て幻だったかのように消えてなくなってしまった。
「……何なの、あれは」
女がこの場から去ったのだとわかり、初めて声が漏れた。その声は自分でも嫌になるほど震えていた。
赤い着物、赤い帯、赤い打ち掛け。そして、赤い柄巻きの脇差の女。
あれが真赤姫。遊佐の探していた相手。
美しい女だった。恐ろしいけれどとても美しい顔をしていた。
まるで人形のように。文楽に使われる人形のように。
「あの顔は……」
ユズリの脳裏に文楽の人形のようだ、と最初に思った彼の顔が浮かぶ。
一切の無駄のない整った造作が、表情らしい表情はないがとても綺麗な顔が。
人形のような。そう形容した二人の男女はよく似ていた。
人を探し町へとやってきた遊佐。
遊佐が探す、辻斬り真赤姫。
その二人の顔はとてもよく似ていた。奇異なほど、同一の印象をもたらした。そこに何らかの関連性を感じずにはいられないほどに。