赤迷宮に惑いて 5
八卦院は帳面をめくりながら憂鬱そうに溜息を吐いた。
「だいたい正体不明な奴をどう捕まえろって言うんだか。冥府の連中も簡単に言ってくれるぜ。魂滅絶許可とか言ったってな、喜ぶのは一部武闘派の連中くらいだっての。俺みたいな一介の商人にどうしろってんだよ。ああ面倒臭い」
やってられるかよ、と八卦院は渋面でこぼした。
「珍しいじゃない。八卦院が愚痴をこぼすなんて」
八卦院とはもう随分長い付き合いだが、彼がこんな風に愚痴をこぼすことは珍しい。
外見こそ幼子だが、八卦院の本性は此岸で百まで生きた白狐だ。その上この町に住むようになって既に数百年。どれだけの時を過ごしてきたのか正確には分からないが、ユズリの知る町の住人達の中でも古株であることは間違いない。
そんな彼は滅多なことでは愚痴はこぼさない。年長者としての誇りなのか、元からそういう性質なのかは知らないが、どちらかと言えば町の他の住人達の愚痴を聞く側であることがほとんどだ。
その八卦院が、彼からしたらまだまだひよっこでしかないユズリの前でこう言うのだから、余程機嫌が悪いのか。
すると八卦院は忌々しげに舌打ちした。
「冥府の連中、自分達も手を焼いているくせに『真赤姫の捕縛叶わねば、貴殿らの代表者権及び特権の全てを剥奪する』とかほざきやがったんだよ。何様だってんだ」
「あーそれで今日はちょっと機嫌悪かったのね」
冥府の高官もいわゆるお役人で、自らの身分を笠に着る者もいるのだ。中には居丈高でいけ好かない者も、生死の境のこの町自体を掃き溜めのようだ露骨に厭う者もいる。
長くこの町で代表者を務めてきた八卦院は、冥府の意向を伝えに下りてきた役人と度々衝突することがあったらしい。何代か前の管理者の際は、管理者自体が気に食わないと言って、自ら代表者を辞退したこともあるくらいだ。どうも彼は権威主義的な者とは相性が悪いらしく、普段はあまり感情を表に出さないほうなのに、相性の悪い役人を相手にした時は常からは考えられないほど激昂したりするらしいのだ。
「だいたいお前から召集の手紙をもらった時からおかしいとは思っていたんだ。代表者全員強制参加ってな。やけに物々しいから何か裏があるんじゃないかと思ったら案の定だ」
ぼやき続ける八卦院の言葉にユズリは身を乗り出した。
「え、私が渡した手紙ってもしかして、この間遊佐を連れてきた時のこと? じゃああの手紙に書いてあった代表者会議の議題って真赤姫のことだったの?」
「あ? 知らなかったのか? そうだよ。お前が持ってきたあの手紙自体には真赤姫なんて一言も書かれてなかったけどな。会議に行ってみたら、そういう厄介な辻斬りがいるってことで対策会議だったんだよ」
「し、知らない! そう言えばお父さんが厄介な案件が回って来たとか言っていたっけ……何よ、じゃあお父さんはあの時点で既に真赤姫のことを知っていたってわけ!? 遊佐の探し人の特徴だって教えてあったのに、何でそんな大事なことを私に教えてくれないのよ!」
父のあの人を食ったような笑顔を思い出すと再び怒りが湧き上がって来た。
「あのクソオヤジ! そういう情報があるならさっさと寄越しなさいよ! こっちは一ヶ月も遊佐の人探しに付き合っているって言うのに!」
「おい、落ち着けって」
逆に怒りが引いて来たらしい八卦院が控えめに宥めてくるが、あの父から軽んじられたのは本日二度目だ。そう簡単にこの怒りを納められる気はしない。
「落ち着けるわけないでしょ! ちょっと私、お父さん達を探してくる!」
勢い込んで太刀を握り締め、座敷から出て靴を履いていた時だった。店の出入り口の戸が静かに引かれ、遊佐が戻って来たのは。