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野草と茸ばかり摘む女とは婚約できないそうなので、雨上がりの森へ行きます。今日は生えますので

掲載日:2026/06/07

 雨上がりの朝に婚約破棄を告げられたとき、私はまず北斜面の湿度を思い出した。


 夜明け前まで雨。


 朝から薄曇り。


 風は弱い。


 気温は上がりきっていない。


 そして昨日、森番のトマが「北の倒木に苔が太っております」と言っていた。



 これは出る。


 たぶん出る。


 今日を逃すと、虫が入る。



 だから、婚約者であるフェリクス・ローヴェル侯爵子息が、実家グレンヴィル伯爵家の応接室で深刻そうに口を開いたとき、私は少しだけ上の空だった。



「リリアーヌ。君との婚約を解消したい」



 聞こえた。


 聞こえたけれど、それより北斜面が気になる。


 あそこの倒木は、東から光が入る時間が短い。


 雨の翌朝だけ、苔の下から銀色の小さな傘が出る。


 銀霧茸。


 名前からして素晴らしい。


 香りもよい。


 干すとさらによい。


 ただし、出てから半日で虫に負ける。


 婚約破棄より、ずっと足が速い。



「聞いているのか、リリアーヌ」



 フェリクス様が眉をひそめた。


 私は顔を上げる。



「はい。婚約解消のお申し入れですね」


「ずいぶん落ち着いているな」


「いえ、少し急いでおります」


「急いでいる?」


「森が」



 応接室が静かになった。


 ここはグレンヴィル伯爵家の王都屋敷である。


 同席しているのは、私の父であるグレンヴィル伯爵、母、フェリクス様の父であるローヴェル侯爵。


 そして、フェリクス様の隣には、セレーネ・ミルフォード子爵令嬢が座っていた。


 淡い桃色のドレス。


 白い花の髪飾り。


 膝の上で揃えられた細い指。


 とても可憐な方だと思う。


 少なくとも、朝から採集籠を気にしている私よりは、ずっと可憐である。



「リリアーヌ」



 父が低い声で言った。



「まずは話を聞きなさい」


「はい、お父様」



 私は姿勢を正した。


 ただし、窓の外は見ないようにした。


 見たら立ち上がってしまいそうだったからだ。



「理由を伺っても?」



 父がフェリクス様へ問う。


 フェリクス様は、待っていたように息を吐いた。



「リリアーヌは、侯爵家の妻にふさわしくありません」


「ふさわしくない」


「彼女はいつも森にいる。野草だの、茸だの、苔だの、木の根だの、まともな令嬢の話題ではない」


「木の根は話題になります」


「そういうところだ!」



 フェリクス様が声を強めた。


 父がこめかみを押さえる。


 母は扇の陰で、ほんの少しだけ笑っている。


 母は私が八歳のころ、誕生日の朝に贈り物より庭の苔を喜んだところを見ているので、いまさら驚かない。



「君は夜会でも、令嬢方の花飾りより、鉢植えの土を見ている」


「水はけが悪かったので」


「舞踏会の帰りに、馬車を止めて道端の草を摘もうとしたこともあった」


「珍しい斑入りでした」


「私の贈った薔薇の花束を、三本だけ挿し木にしたな」


「根が出ました」


「喜ぶところではない!」



 私は少しだけ反省した。


 あの薔薇はきれいだった。


 だからこそ、増やしたかったのだ。


 花束は枯れる。


 挿し木は増える。


 どちらが嬉しいかは、かなり明らかだと思うのだけれど、世間では違うらしい。



「私は」



 フェリクス様は、セレーネ嬢へ視線を向けた。



「もっと優雅で、花を花として愛でる女性を妻にしたい」



 セレーネ嬢が、頬を染めてうつむいた。



「リリアーヌ様」



 彼女は申し訳なさそうに言った。



「わたくし、あなたを傷つけるつもりはありませんの。ただ、フェリクス様があまりにお可哀想で」


「お可哀想」


「ええ。婚約者が泥だらけの靴で森から戻り、茸の籠を抱えて微笑んでいらっしゃるなんて」


「いい日ですね」


「ほら、そういうところですわ」



 セレーネ嬢は困ったように微笑んだ。



「女なら、もっと花のように美しくあるべきではありませんか?」


「花は美しいです」


「でしたら」


「ただ、花は摘むと終わります」


「……」


「茸は干せます」


「リリアーヌ」



 母がたしなめるように名を呼んだ。


 私は口を閉じた。


 今のは、少し違ったかもしれない。


 花にも種がある。


 そこまで話すと長くなるので、やめた。



「つまり」



 私は確認した。



「フェリクス様は、私との婚約を解消し、セレーネ様と新たに婚約したいということですね」


「そうだ」


「分かりました」



 私は立ち上がった。



「では、森へ行ってもよろしいでしょうか」


 応接室が静まり返った。


 フェリクス様の目が、信じられないものを見るように見開かれる。



「森?」


「はい」


「今、その話をしているのではない」


「今しかありません」


「何がだ」


「生えるのです」



 私は真剣に答えた。



「雨上がりの北斜面に、銀霧茸が」


「茸を摘みに行くな!」



 フェリクス様が叫んだ。


 私は少し困った。



「でも、今日を逃すと虫が入ります」


「婚約破棄より茸が大事なのか!」


「婚約破棄は明日でも思い出せます」


「思い出すな!」


「茸は明日では遅いです」



 父がとうとう咳き込んだ。


 母は完全に扇で口元を隠している。


 ローヴェル侯爵は、息子と私を交互に見て、かなり遠い目をしていた。



「リリアーヌ嬢」



 ローヴェル侯爵が低い声で言った。



「婚約解消の申し入れ自体は、受け入れるという理解でよろしいか」


「はい」


「本当に?」


「はい」



 私は頷いた。



「ただし、正式な解消は両家の書面確認後ですので、今日は申し入れを承った形かと」


「その通りです」



 ローヴェル侯爵は、少し驚いたように私を見た。


 私だって、婚約の手続きくらいは知っている。


 森の採集許可ほどではないけれど、それなりに大事なことだ。



「それと」



 私は続けた。



「婚約解消後は、ローヴェル侯爵家の秋の饗宴で、グレンヴィル家の森の採集物は使えません」


 今度は、フェリクス様の顔色が変わった。



「何?」


「今年の秋の饗宴で、グレンヴィル北森の銀霧茸を出すとおっしゃっていましたね」


「それは」


「婚約後に、両家の親交として提供する予定でした」


「そうだ。だから」


「婚約がなくなれば、提供理由もなくなります」


「待て」



 フェリクス様が身を乗り出した。



「森の茸くらい、少し融通してもよいだろう」


「よくありません」


「ケチなことを言うな」


「ケチではなく、採集権です」



 私ははっきり言った。



「グレンヴィル北森は、我が家の私有森です。外部の採集には森番の立ち会いと当主の許可が必要です。銀霧茸は特に数が少ないので、毎年採る量も決めています」


「茸にそこまで」


「します」


「だから君は面倒なのだ!」



 なるほど。


 やはり婚約解消でよかったのだと思う。


 銀霧茸を「茸くらい」と言う人とは、たぶん長く暮らせない。



「フェリクス様」



 私はできるだけ穏やかに言った。



「森のものは、そこに生えているから誰でも採れる、というものではありません」


「大げさだ」


「大げさではありません」


「茸など、市場で買えばいい」


「買えます」


「なら問題ないだろう」


「はい」



 私は頷いた。



「市場の茸を使えばよろしいかと」


「銀霧茸は?」


「グレンヴィル家のものです」



 フェリクス様は顔を赤くした。


 セレーネ嬢は少し不安そうに彼を見る。


 ローヴェル侯爵は、そこでようやく深く息を吐いた。



「フェリクス」



 侯爵の声は冷たかった。



「お前は、グレンヴィル家の採集物を使う前提で饗宴の招待を出したのか」


「……少し話しただけです」


「どこまで」


「秋の饗宴では、婚約を記念してグレンヴィル北森の銀霧茸を振る舞うと」


「許可は」


「婚約しているのだから、当然」


「当然ではない」



 ローヴェル侯爵は即座に切った。


 まともな方でよかった。


 少なくとも、森の採集権を当然と思う息子よりは、ずっと話が早い。



「グレンヴィル伯爵」



 侯爵は父へ頭を下げた。



「息子の認識が甘かった。饗宴の件は、こちらで修正いたします」


「そうしていただけると助かります」



 父は穏やかに答えた。



「北森の採集物は、当家の管理下にあります。婚約とは別の話ですので」


「承知しております」



 話は一段落した。


 私は窓の外を見た。


 見てしまった。


 雲が薄い。


 まだ間に合う。



「お父様」


「何だ」


「森へ」


「行きなさい」


「ありがとうございます」


「森番をつけること。北斜面で一人にならないこと。膝まで泥に沈まないこと」


「三つ目は努力します」


「努力ではなく約束しなさい」


「……約束します」



 母が小さく笑った。



「リリアーヌ、籠は大きいほうを持っていきなさい」


「お母様」


「どうせ出るのでしょう?」


「出ます」


「なら、小さい籠では足りないわ」


「お母様は分かる方です」


「分かりたくて分かっているわけではありません」



 母はそう言ったが、目は優しかった。


 私は一礼し、応接室を出ようとした。



「待て、リリアーヌ!」



 フェリクス様が立ち上がった。



「君は本当に、それでいいのか」


「それとは」


「婚約破棄だぞ」


「はい」


「私がセレーネを選ぶと言っているのだぞ」


「はい」


「何も思わないのか」


「思っています」



 私は正直に言った。



「悲しくないわけではありません」


「なら」


「でも今は、茸のほうが急ぎです」


「そこだ!」



 フェリクス様が叫んだ。



「そこが嫌なのだ!」


「そうでしたか」



 私は少し考えた。



「では、やはり私たちは合わなかったのだと思います」


「何?」


「私は、雨上がりの森を無視できませんので」



 それだけ言って、私は応接室を出た。


 廊下には、侍女のニナがすでに採集籠と外套を用意していた。


 さすがである。



「お嬢様、大籠でございます」


「ありがとう」


「小刀と布袋も」


「ありがとう」


「北森用の靴も」


「本当にありがとう」



 よい侍女とは、主が婚約破棄されている間に採集の支度を整えてくれる者である。


 たぶん、普通は違う。


 でも、私にはそうだった。



 北森へ着いたころ、空はまだ曇っていた。


 馬車を降りると、湿った土の匂いが足元から立ち上った。


 苔。


 落ち葉。


 雨に濡れた樹皮。


 遠くで鳥が鳴く。


 森番のトマが、私を見るなり帽子を取った。



「お嬢様、出ております」


「どこ」


「北斜面の倒木です」


「やはり」


「ただ、足元が悪いです」


「分かっています」


「本当に分かっておられますか」


「たぶん」


「たぶんが一番困ります」



 トマは渋い顔をしたが、私を止めなかった。


 彼も分かっているのだ。


 今日を逃すと、銀霧茸は負ける。



 森へ入る。


 一歩目で靴が沈んだ。


 二歩目で裾が少し泥を吸った。


 三歩目で、私は息を吐いた。



 いい。


 かなりいい。



 雨上がりの森は、すべての輪郭が柔らかい。


 葉の端に水が残り、苔が膨らみ、倒木の肌が黒く濡れている。


 こういう朝、森は黙っているようで、とてもよく喋る。


 どこに水が溜まり、どこに光が入り、どこに菌糸が走っているか。


 見れば分かる。


 いや、見たい。


 ずっと見ていたい。



「リリアーヌ嬢?」



 不意に、低い声がした。


 振り向くと、灰緑色の外套を着た男性が立っていた。


 オスカー・ハーヴェル様。


 ハーヴェル辺境伯家の次男で、父とは森の境界管理の相談で何度か屋敷へ来ていた方だ。


 彼は狩猟より森そのものに詳しい。


 以前、晩餐会で「北向きの斜面は人より記憶がよい」と言って、私以外の全員を黙らせたことがある。


 私はそのとき、かなり好きな言葉だと思った。



「オスカー様」


「こんな朝に森へ?」


「はい」


「雨上がりだから?」


「はい」


「出るのか」


「出ます」


「なら邪魔をした。足元に気をつけて」


「……分かる方ですね」



 私は思わず言った。


 オスカー様は少しだけ首を傾げる。



「何が」


「今、理由を訊きすぎませんでした」


「雨上がりに森へ来た令嬢が急いでいるなら、何か出るのだろう」


「その通りです」


「銀霧茸か」


「分かる方ですね」



 二度言ってしまった。


 でも仕方がない。


 分かる人は貴重である。



「北斜面へ?」


「はい」


「倒木の手前、滑る」


「承知しております」


「籠を持とうか」


「婚約破棄直後の令嬢に、雨上がりの森で籠を持つと申し出るのは少し危険です」


「なぜ」


「懐きます」


「それは困るのか」


「一般的には困るかもしれません」


「私は困らない」


「……そうですか」



 危ない。


 かなり危ない。


 慰めの言葉より、籠を持つと言われるほうが効く日がある。


 今日がその日だった。



 オスカー様は本当に籠を持ってくれた。


 そして、本当に邪魔をしなかった。


 森で一緒に歩ける人には、才能がいる。


 先に行きすぎないこと。


 遅すぎないこと。


 踏んではいけない苔を踏まないこと。


 見つけたものを勝手に摘まないこと。


 驚いた声で鳥を飛ばさないこと。


 オスカー様は、それらを全部分かっていた。


 とても危険だった。



 北斜面の倒木に着いた瞬間、私は膝をついた。


 泥など気にしていられない。


 苔の下、湿った樹皮の割れ目に、銀色の小さな傘が三つ。


 いや、奥にもう二つ。


 さらに根元に、開きかけが一つ。



「いました」



 私は小さく言った。


 声を大きくすると逃げるわけではない。


 でも、こういうときは小声になる。


 礼儀である。



「よかったな」



 オスカー様も小声だった。


 とてもよい。


 分かる方である。



「まだ開ききっていません」


「採るのか」


「二つだけ」


「全部ではなく?」


「来年のために残します」


「なるほど」


「森は、全部持っていくと黙ります」


「いい言い方だ」


「祖母の言葉です」



 私は慎重に二つだけ採った。


 布袋へ入れる。


 香りを逃がさないように、布を二重にする。


 小さな茸なのに、ふわりと深い香りが立つ。


 雨。


 土。


 湿った木。


 少しだけ胡桃に似た甘さ。


 素晴らしい。


 フェリクス様の顔より、長く見ていられる。


 いや、比べてはいけない。


 でも、事実ではある。



「嬉しそうだな」



 オスカー様が言った。


 私は頷く。



「嬉しいです」


「婚約破棄された朝に?」


「はい」


「強いな」


「違います」


「違う?」


「今は銀霧茸が勝っているだけです」


「婚約破棄に?」


「はい」


「それは、かなり強い茸だ」


「とても」



 オスカー様は少し笑った。


 低く、静かな笑い方だった。


 森の中で響きすぎない笑い。


 好ましい。



「リリアーヌ嬢」



 彼は言った。



「泣くなら、帰ってからか」


「はい」


「なぜ」


「今泣くと、鼻が詰まって森の匂いが分からなくなります」


「なるほど」


「それは困ります」


「確かに困る」


「分かる方ですね」



 三度目だった。


 でも仕方がない。


 この人は本当に分かる。



 その日、私は銀霧茸を二つ、春苔を少し、香りのよい野蒜をひと束だけ採って帰った。


 婚約破棄された悲しみは、夕方になってから少し来た。


 フェリクス様と過ごした時間が、何もなかったわけではない。


 彼に褒められて嬉しかったこともある。


 いずれローヴェル侯爵家へ嫁ぎ、あちらの庭に私の小さな薬草区画を作れたらと思ったこともある。


 でも、あの人は最後まで、私がなぜ森へ行くのかを見なかった。


 泥を見るだけで、土の中を見なかった。


 茸を見るだけで、季節を見なかった。


 それは悲しい。


 ただ、悲しみながらでも、銀霧茸は干さなければならない。


 泣くのは、そのあとでよかった。



 五日後。


 ローヴェル侯爵家から正式な書状が届いた。


 婚約解消は、フェリクス様側の申し入れとして処理。


 両家の合意の上、違約金と社交上の説明はローヴェル家が担うこと。


 グレンヴィル北森の採集物は、今後ローヴェル家の催しで使わないこと。


 秋の饗宴に関しては、ローヴェル家が自家の食材で準備すること。


 父はその書状を読み、満足そうに頷いた。



「ローヴェル侯爵は、話が分かる方だ」


「はい」


「問題は息子だな」


「はい」


「未練は?」


「あります」


「そうか」


「でも、銀霧茸を“茸くらい”と言われたので」


「それは大きいな」


「大きいです」



 父はなぜか深く頷いた。


 我が家では通じる。


 それだけで、少し心が軽くなる。



 秋の饗宴は、予定通りローヴェル侯爵家で開かれた。


 私は招かれなかった。


 当然である。


 婚約解消した相手の家の饗宴に招かれるほうがおかしい。


 ただ、王都の噂は森の胞子より軽く飛ぶ。


 数日後には、内容が自然と耳に入った。


 ローヴェル侯爵家は、予定どおり森の茸料理を出したらしい。


 ただし、それはグレンヴィル北森の銀霧茸ではなかった。


 市場で買った、見た目だけ似た茸だった。


 毒ではない。


 危険でもない。


 ただ、香りがなかった。


 煮ても薄い。


 焼いても薄い。


 干しても薄い。


 何をしても、森の朝にならない。


 それは仕方がない。


 似ているだけのものは、似ているだけなのだ。



「去年、グレンヴィル家でいただいた森の香りは?」


「今年は随分おとなしい味ですわね」


「婚約記念に北森の銀霧茸を出すと伺っていたのだけれど」


「あら、婚約は解消されたのでしょう?」


「では、なぜ招待状に森の饗宴などと?」


「まさか、市場品で代用を?」



 そういう声が、食卓の上で静かに広がったらしい。


 大きな失敗ではない。


 誰も倒れていない。


 皿が割れたわけでもない。


 ただ、客人たちは期待した森の香りを得られなかった。


 そして、ローヴェル家がグレンヴィル北森の名を軽く扱ったことだけが残った。



 フェリクス様は、かなり困ったらしい。


 セレーネ嬢も、花を飾れば十分だと思っていたようだが、客人たちは花より皿を見ていたという。


 少し気の毒ではある。


 ただし、森の香りを飾りのように考えたのは彼らである。


 飾りなら、花でよかった。


 森は、そういうものではない。



 さらに三日後。


 フェリクス様が、グレンヴィル家を訪ねてきた。


 場所は、再び我が家の応接室。


 今度は、父と母が同席し、ローヴェル侯爵からの事前連絡もあった。


 つまり、不意打ちではない。


 ここは大事だ。


 不意打ちで婚約破棄を申し入れた人間が、次に不意打ちで謝罪に来たら、さすがに父が森番を呼ぶ。



「リリアーヌ」



 フェリクス様は、以前より少しやつれていた。



「先日の饗宴の件で、謝罪したい」


「承ります」


「君の言う通りだった。森のものは、誰でも同じように使えるものではなかった」


「はい」


「銀霧茸も、市場の茸で代わりになると思っていた」


「なりません」


「……本当に、ならなかった」



 その声には、実感があった。


 少なくとも、以前よりは。


 私は少しだけ頷いた。



「料理長様はお悪くありません」


「分かっている」


「茸も悪くありません」


「……それも分かっている」


「市場の茸には市場の茸の良さがあります。問題は、銀霧茸の代わりをさせようとしたことです」


「そこまで茸を庇うのか」


「茸に罪はありません」


「君は本当に変わらないな」


「はい」



 私は素直に答えた。



「変わりません」


 フェリクス様は、ほんの少しだけ苦笑した。


 以前なら、その笑い方に胸が痛んだかもしれない。


 でも今は、少し懐かしいだけだった。



「もう一つ」



 彼は言った。



「君に戻ってきてほしい」


 応接室の空気が、静かに固まった。


 父の眉がわずかに動く。


 母は扇を置いた。


 私は、少し考えてから答えた。



「どこへでしょう」


「私の婚約者へ」


「セレーネ様は?」


「彼女とは、まだ正式な婚約前だった。父が話を止めた」


「そうですか」


「私は、君の価値を見誤っていた」



 フェリクス様は、まっすぐ私を見た。



「君が森を知っていることも、季節を読めることも、ただの変わった趣味だと思っていた」


「趣味です」


「だが、役に立つ趣味だった」


「そこですか」



 思わず言ってしまった。


 フェリクス様が目を瞬く。



「何?」


「いえ」


「私は、君の趣味ごと受け入れる」


「フェリクス様」


「だから」


「それは、受け入れるとは少し違います」



 私は静かに言った。



「何が」


「役に立つから認める、ということです」


「それは」


「私は、森が役に立つから好きなのではありません」



 窓の外を見る。


 今日は晴れている。


 こういう日は、森へ行くなら午後遅くがよい。


 葉が乾いて、虫の音が変わる。



「野草も、茸も、苔も、根も、役に立つものばかりではありません」


「……」


「食べられないものもあります。摘んではいけないものもあります。見るだけのものもあります。名前も知らないまま、ただきれいだと思うものもあります」


「リリアーヌ」


「それでも好きなのです」



 私はフェリクス様を見た。



「私が好きなものを、あなたが必要になったから認めるのでは、きっとまた同じことになります」


「そんなことは」


「あります」



 私ははっきり言った。



「次に私が泥のついた裾で戻ったとき、あなたはまた、侯爵家の妻にふさわしくないと思うでしょう」


「……」


「次に私が花束を挿し木にしたとき、あなたはまた、普通に喜べない女だと思うでしょう」


「……」


「次に私があなたの言葉より湿度を気にしたとき、あなたはまた怒るでしょう」


「……」


「私は、それをやめられません」



 フェリクス様は何も言わなかった。


 言えなかったのだと思う。


 私は少しだけ微笑んだ。



「謝罪はお受けします」


「なら」


「でも、戻りません」


「リリアーヌ」


「私は森へ行く女です」



 自分で言って、胸の奥が少し軽くなった。



「雨が降ったら窓を開けます。苔が太ったら靴を履きます。珍しい芽を見つけたら、会話の途中でも少し目が逸れます」


「……」


「それを、恥ずかしいと思う人の隣では、もう暮らせません」



 フェリクス様の顔が歪んだ。


 少し痛ましい。


 でも、もう私が戻る理由にはならない。



「分かった」



 彼はようやく言った。



「本当に、私は君を見ていなかったのだな」


「はい」


「即答するな」


「事実ですので」


「君は、最後まで君だな」


「はい」



 そこだけは、自信があった。



 フェリクス様が帰ったあと、私は少しだけ疲れていた。


 婚約破棄された日より、謝罪を断る日のほうが疲れることもあるらしい。


 でも、不思議と迷いはなかった。


 その日の夕方、屋敷の裏庭へ出ると、オスカー様が父と話していた。


 ハーヴェル家との境界森の相談で来たらしい。


 私に気づくと、彼は軽く会釈した。



「リリアーヌ嬢」


「オスカー様」


「疲れている?」


「少しだけ」


「森へ行くか」


「婚約者に復縁を申し込まれて断った令嬢に、森へ行くかと訊くのは危険です」


「なぜ」


「効きます」


「そうか」


「はい」


「でも行くか」


「行きます」



 即答だった。


 父がなぜか空を仰いだ。



「リリアーヌ」


「お父様」


「夕暮れ前には戻りなさい」


「はい」


「北側の沢へは下りないこと」


「はい」


「オスカー殿、娘が苔を追って斜面を下りそうになったら止めてください」


「承知しました」


「お父様、私はそこまで」


「去年落ちかけた」


「苔が」


「苔ではなく命を見なさい」


「はい」



 オスカー様が小さく笑った。


 その笑い方が、やはり森向きだった。



 夕方の森は、朝とは違う。


 光が斜めに入り、葉の裏が少しだけ金色になる。


 昼の熱が土に残り、湿気がゆっくり上がる。


 私は歩きながら、少しずつ呼吸が楽になるのを感じた。


 オスカー様は隣で黙っていた。


 沈黙が苦にならない。


 それも、かなり大事なことだ。



「リリアーヌ嬢」



 しばらくして、彼が口を開いた。



「ハーヴェル領には、霧の森がある」


「霧の森」


「秋になると、谷から霧が上がる」


「谷霧」


「倒木が多い」


「倒木が多い」


「苔も厚い」


「苔も」


「茸は、たぶんあなたのほうが詳しい」


「……オスカー様」


「何だ」


「婚約解消後まもない令嬢に、霧の森と倒木と苔の話をするのは危険です」


「また危険か」


「かなり危険です」


「効くのか」


「効きます」


「覚えた」


「覚えないでください」


「無理だ」



 オスカー様は真面目な顔で言った。



「あなたは、雨上がりと茸と森に弱い」


「否定できません」


「だから、軽々しく使わないようにする」


「それは助かります」


「だが、見せたいとは思っている」


「……危険です」



 私は胸を押さえた。


 この人は危険だ。


 甘い言葉ではなく、森で来る。


 宝石でもドレスでもなく、霧と倒木と苔で来る。


 かなり危険だった。



「リリアーヌ嬢」



 オスカー様は、倒木の前で足を止めた。



「私は、あなたが森を優先するところを面白いと思っている」


「面白い」


「ああ」


「褒め言葉ですか」


「そのつもりだ」


「なら受け取ります」


「あなたは、森臭い女ではない」


「では何でしょう」


「森にうるさい女だ」


「正確です」



 私は深く頷いた。



「たいへん正確です」


「そして私は、そういうあなたと森を歩くのが嫌ではない」


「嫌ではない」


「むしろ、また歩きたい」


「……それは」


「交際の申し込みだ」



 森が、急に静かになったような気がした。


 実際には鳥も鳴いているし、葉も揺れている。


 でも、私の耳には、少し遠くなった。



「森で?」


「あなたには、ここが一番話しやすいと思った」


「効いています」


「ならよかった」


「よくありません。判断が鈍ります」


「鈍った返事でもいい」


「だめです」



 私は首を振った。



「森も返事も、急ぎすぎると見落とします」


「では待つ」


「どれくらい?」


「あなたが納得するまで」


「銀霧茸の乾き具合を確認してからでも?」


「いい」


「次の雨を見てからでも?」


「いい」


「霧の森を見てからでも?」


「それは判断を鈍らせるのでは」


「鈍ります」


「では、先に返事か」


「難しいですね」


「難しいな」



 私たちは、二人で少し笑った。


 変な会話だと思う。


 でも、悪くなかった。


 フェリクス様とは、こういうふうに変なままで話せたことが少なかった。


 私が森の話を始めると、彼は困った顔をする。


 早く普通の話題に戻してほしそうな顔をする。


 でも、オスカー様は戻さない。


 むしろ、少し奥へ入ってくる。



「条件があります」



 私は言った。


 オスカー様は頷く。



「聞こう」


「森へ入るとき、私の歩幅を急かさないでください」


「急かさない」


「苔を踏まないでください」


「気をつける」


「知らない茸を勝手に摘まないでください」


「摘まない」


「私が会話の途中で木の根を見に行っても怒らないでください」


「怒らない」


「私があなたより湿度を先に褒める日があるかもしれません」


「知っている」


「いいのですか」


「湿度は大事だろう」


 だめだった。


 少し泣きそうになった。


 婚約破棄の日には泣かなかったのに、湿度を大事と言われて泣きそうになる。


 自分でもどうかと思う。


 でも仕方がない。


 私には、そういう言葉が効く。



「お受けします」



 私は言った。



「ただし、ゆっくりで」


「ああ」


「森と同じくらい、ゆっくりで」


「分かった」



 オスカー様は、それだけで頷いた。


 手を取るでもなく、抱きしめるでもなく、ただ隣に立っていた。


 その距離が心地よかった。


 森で急に近づく人は、あまり信用できない。


 オスカー様は、それも分かっているようだった。



 その後、ローヴェル侯爵家の秋の饗宴失敗は、王都でしばらく笑い話になった。


 フェリクス様は「森の香りを市場で買おうとした男」と呼ばれたらしい。


 少し言い方がひどい。


 でも、だいたい合っている。


 セレーネ嬢は、しばらく花の飾りすぎを控えるようになったと聞いた。


 彼女が悪女だったかと言われると、少し違う気もする。


 たぶん彼女は、花があれば森に勝てると思っていただけだ。


 ただ、饗宴の皿に必要だったのは花ではなかった。


 それだけのことである。



 私はというと、以前より少し忙しくなった。


 グレンヴィル北森の採集記録を父と整理することになったからだ。


 もちろん、仕事としてではない。


 いや、少しは仕事かもしれない。


 でも、根本は趣味である。


 好きだから見る。


 好きだから記録する。


 好きだから残す。


 その結果として、家の森の管理に役立つこともある。


 順番は、そこを間違えてはいけない。


 役に立つから好きなのではない。


 好きだから、役に立つところまで見てしまうのだ。



 オスカー様とは、月に一度ほど森を歩くようになった。


 もちろん、父母の許可と護衛つきである。


 そこは大事だ。


 婚約破棄された令嬢が、辺境伯家の次男と二人きりで森へ消えるのは、さすがに噂になる。


 もっとも、護衛たちはだいたい途中から私たちより茸探しに夢中になる。


 困ったことだ。


 見込みがあるとも言う。



 冬の前。


 私は初めてハーヴェル領の霧の森を訪れた。


 谷から白い霧が上がり、古い倒木が幾重にも重なり、苔は絨毯のように厚かった。


 森へ一歩入った瞬間、私は息を止めた。



 いい。


 かなりいい。



 湿った木。


 冷たい石。


 落ち葉。


 霧。


 見たことのない小さな茸。


 名前の分からない苔。


 すべてが、静かにそこにあった。



「危険です」



 私は言った。


 隣のオスカー様は、もう慣れたように頷く。



「帰りたくないのか」


「はい」


「そう言うと思った」


「どうしましょう」


「泊まればいい」


「お父様とお母様の許可が必要です」


「取ってある」


「手回しがよろしい」


「森に人を招くなら、段取りがいる」


「本当に危険です」



 私はまた胸を押さえた。


 この人は、森以外の言葉でも森に寄ってくる。


 かなり危険だった。



 その日の夕方。


 霧の森の小屋で、オスカー様は改めて私に向き合った。


 小屋といっても、狩猟用ではない。


 森番たちが雨を避け、採集物を仕分けるための小さな作業小屋である。


 干し棚があり、風の通る窓があり、壁には小さな草束が吊るされている。


 求婚の場としては、少し変かもしれない。


 でも私には、舞踏会場よりずっと効いた。



「リリアーヌ・グレンヴィル嬢」



 オスカー様は言った。



「私は、あなたと森を歩き続けたい」


「はい」


「あなたが雨の翌朝に私より先に森へ行くことも、たぶんあると思っている」


「あります」


「あるのか」


「はい」


「正直だな」


「嘘をついても、雨には負けます」


「それでいい」



 オスカー様は少しだけ笑った。



「私は、あなたを森から遠ざけたいわけではない」


「はい」


「できれば、あなたが森へ行くとき、隣か少し後ろにいたい」


「少し後ろ」


「前へ出ると、あなたが見ているものを踏むかもしれない」


「……オスカー様」


「何だ」


「それは、かなり良い求婚です」


「ならよかった」


「よすぎて、少し困ります」


「困るのか」


「泣くと鼻が詰まります」


「森は逃げない」


「それもそうですね」



 私は少しだけ笑った。


 そして、少しだけ泣いた。


 霧の森の小屋で、干し棚と草束に囲まれて泣く令嬢は、たぶんあまりいない。


 でも、これが私である。



「お受けします」



 私は言った。



「ただし、条件があります」


「聞こう」


「結婚後も、雨上がりの朝は森へ行きます」


「ああ」


「採集籠を勝手に小さくしないでください」


「しない」


「珍しい苔を見つけたら、予定を少し変更します」


「分かった」


「食べられるかどうかだけで、茸の価値を決めないでください」


「決めない」


「私があなたより倒木を長く見ていても、拗ねないでください」


「努力する」


「そこは受け入れてください」


「受け入れる」


「それから」


「まだあるのか」


「はい」



 私は真剣に言った。



「私が森臭いと言われても、訂正してください」


「分かった」


「何と?」


「森にうるさい女だと」


「正解です」



 オスカー様は、きちんと覚えていた。


 それだけで、もう十分だった。



 王都では、今でもときどき私の噂が流れるらしい。


 野草と茸ばかり摘むので婚約破棄された令嬢。


 婚約破棄の場で、森へ行きたいと言い出した令嬢。


 元婚約者より銀霧茸を優先した令嬢。


 森の香りを市場で買おうとした元婚約者を、結果的に笑いものにした令嬢。


 どれも、だいたい合っている。


 少しだけ言い方がひどいけれど、間違ってはいない。


 だから私は、訂正しない。


 ただ、もし誰かがこう言うなら、そこだけは直すつもりだ。


 森臭い女。


 それは違う。



 私は、森にうるさい女である。


 そして近いうちに、森にうるさい妻になる予定だ。

お読みいただきありがとうございました。

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