野草と茸ばかり摘む女とは婚約できないそうなので、雨上がりの森へ行きます。今日は生えますので
雨上がりの朝に婚約破棄を告げられたとき、私はまず北斜面の湿度を思い出した。
夜明け前まで雨。
朝から薄曇り。
風は弱い。
気温は上がりきっていない。
そして昨日、森番のトマが「北の倒木に苔が太っております」と言っていた。
これは出る。
たぶん出る。
今日を逃すと、虫が入る。
だから、婚約者であるフェリクス・ローヴェル侯爵子息が、実家グレンヴィル伯爵家の応接室で深刻そうに口を開いたとき、私は少しだけ上の空だった。
「リリアーヌ。君との婚約を解消したい」
聞こえた。
聞こえたけれど、それより北斜面が気になる。
あそこの倒木は、東から光が入る時間が短い。
雨の翌朝だけ、苔の下から銀色の小さな傘が出る。
銀霧茸。
名前からして素晴らしい。
香りもよい。
干すとさらによい。
ただし、出てから半日で虫に負ける。
婚約破棄より、ずっと足が速い。
「聞いているのか、リリアーヌ」
フェリクス様が眉をひそめた。
私は顔を上げる。
「はい。婚約解消のお申し入れですね」
「ずいぶん落ち着いているな」
「いえ、少し急いでおります」
「急いでいる?」
「森が」
応接室が静かになった。
ここはグレンヴィル伯爵家の王都屋敷である。
同席しているのは、私の父であるグレンヴィル伯爵、母、フェリクス様の父であるローヴェル侯爵。
そして、フェリクス様の隣には、セレーネ・ミルフォード子爵令嬢が座っていた。
淡い桃色のドレス。
白い花の髪飾り。
膝の上で揃えられた細い指。
とても可憐な方だと思う。
少なくとも、朝から採集籠を気にしている私よりは、ずっと可憐である。
「リリアーヌ」
父が低い声で言った。
「まずは話を聞きなさい」
「はい、お父様」
私は姿勢を正した。
ただし、窓の外は見ないようにした。
見たら立ち上がってしまいそうだったからだ。
「理由を伺っても?」
父がフェリクス様へ問う。
フェリクス様は、待っていたように息を吐いた。
「リリアーヌは、侯爵家の妻にふさわしくありません」
「ふさわしくない」
「彼女はいつも森にいる。野草だの、茸だの、苔だの、木の根だの、まともな令嬢の話題ではない」
「木の根は話題になります」
「そういうところだ!」
フェリクス様が声を強めた。
父がこめかみを押さえる。
母は扇の陰で、ほんの少しだけ笑っている。
母は私が八歳のころ、誕生日の朝に贈り物より庭の苔を喜んだところを見ているので、いまさら驚かない。
「君は夜会でも、令嬢方の花飾りより、鉢植えの土を見ている」
「水はけが悪かったので」
「舞踏会の帰りに、馬車を止めて道端の草を摘もうとしたこともあった」
「珍しい斑入りでした」
「私の贈った薔薇の花束を、三本だけ挿し木にしたな」
「根が出ました」
「喜ぶところではない!」
私は少しだけ反省した。
あの薔薇はきれいだった。
だからこそ、増やしたかったのだ。
花束は枯れる。
挿し木は増える。
どちらが嬉しいかは、かなり明らかだと思うのだけれど、世間では違うらしい。
「私は」
フェリクス様は、セレーネ嬢へ視線を向けた。
「もっと優雅で、花を花として愛でる女性を妻にしたい」
セレーネ嬢が、頬を染めてうつむいた。
「リリアーヌ様」
彼女は申し訳なさそうに言った。
「わたくし、あなたを傷つけるつもりはありませんの。ただ、フェリクス様があまりにお可哀想で」
「お可哀想」
「ええ。婚約者が泥だらけの靴で森から戻り、茸の籠を抱えて微笑んでいらっしゃるなんて」
「いい日ですね」
「ほら、そういうところですわ」
セレーネ嬢は困ったように微笑んだ。
「女なら、もっと花のように美しくあるべきではありませんか?」
「花は美しいです」
「でしたら」
「ただ、花は摘むと終わります」
「……」
「茸は干せます」
「リリアーヌ」
母がたしなめるように名を呼んだ。
私は口を閉じた。
今のは、少し違ったかもしれない。
花にも種がある。
そこまで話すと長くなるので、やめた。
「つまり」
私は確認した。
「フェリクス様は、私との婚約を解消し、セレーネ様と新たに婚約したいということですね」
「そうだ」
「分かりました」
私は立ち上がった。
「では、森へ行ってもよろしいでしょうか」
応接室が静まり返った。
フェリクス様の目が、信じられないものを見るように見開かれる。
「森?」
「はい」
「今、その話をしているのではない」
「今しかありません」
「何がだ」
「生えるのです」
私は真剣に答えた。
「雨上がりの北斜面に、銀霧茸が」
「茸を摘みに行くな!」
フェリクス様が叫んだ。
私は少し困った。
「でも、今日を逃すと虫が入ります」
「婚約破棄より茸が大事なのか!」
「婚約破棄は明日でも思い出せます」
「思い出すな!」
「茸は明日では遅いです」
父がとうとう咳き込んだ。
母は完全に扇で口元を隠している。
ローヴェル侯爵は、息子と私を交互に見て、かなり遠い目をしていた。
「リリアーヌ嬢」
ローヴェル侯爵が低い声で言った。
「婚約解消の申し入れ自体は、受け入れるという理解でよろしいか」
「はい」
「本当に?」
「はい」
私は頷いた。
「ただし、正式な解消は両家の書面確認後ですので、今日は申し入れを承った形かと」
「その通りです」
ローヴェル侯爵は、少し驚いたように私を見た。
私だって、婚約の手続きくらいは知っている。
森の採集許可ほどではないけれど、それなりに大事なことだ。
「それと」
私は続けた。
「婚約解消後は、ローヴェル侯爵家の秋の饗宴で、グレンヴィル家の森の採集物は使えません」
今度は、フェリクス様の顔色が変わった。
「何?」
「今年の秋の饗宴で、グレンヴィル北森の銀霧茸を出すとおっしゃっていましたね」
「それは」
「婚約後に、両家の親交として提供する予定でした」
「そうだ。だから」
「婚約がなくなれば、提供理由もなくなります」
「待て」
フェリクス様が身を乗り出した。
「森の茸くらい、少し融通してもよいだろう」
「よくありません」
「ケチなことを言うな」
「ケチではなく、採集権です」
私ははっきり言った。
「グレンヴィル北森は、我が家の私有森です。外部の採集には森番の立ち会いと当主の許可が必要です。銀霧茸は特に数が少ないので、毎年採る量も決めています」
「茸にそこまで」
「します」
「だから君は面倒なのだ!」
なるほど。
やはり婚約解消でよかったのだと思う。
銀霧茸を「茸くらい」と言う人とは、たぶん長く暮らせない。
「フェリクス様」
私はできるだけ穏やかに言った。
「森のものは、そこに生えているから誰でも採れる、というものではありません」
「大げさだ」
「大げさではありません」
「茸など、市場で買えばいい」
「買えます」
「なら問題ないだろう」
「はい」
私は頷いた。
「市場の茸を使えばよろしいかと」
「銀霧茸は?」
「グレンヴィル家のものです」
フェリクス様は顔を赤くした。
セレーネ嬢は少し不安そうに彼を見る。
ローヴェル侯爵は、そこでようやく深く息を吐いた。
「フェリクス」
侯爵の声は冷たかった。
「お前は、グレンヴィル家の採集物を使う前提で饗宴の招待を出したのか」
「……少し話しただけです」
「どこまで」
「秋の饗宴では、婚約を記念してグレンヴィル北森の銀霧茸を振る舞うと」
「許可は」
「婚約しているのだから、当然」
「当然ではない」
ローヴェル侯爵は即座に切った。
まともな方でよかった。
少なくとも、森の採集権を当然と思う息子よりは、ずっと話が早い。
「グレンヴィル伯爵」
侯爵は父へ頭を下げた。
「息子の認識が甘かった。饗宴の件は、こちらで修正いたします」
「そうしていただけると助かります」
父は穏やかに答えた。
「北森の採集物は、当家の管理下にあります。婚約とは別の話ですので」
「承知しております」
話は一段落した。
私は窓の外を見た。
見てしまった。
雲が薄い。
まだ間に合う。
「お父様」
「何だ」
「森へ」
「行きなさい」
「ありがとうございます」
「森番をつけること。北斜面で一人にならないこと。膝まで泥に沈まないこと」
「三つ目は努力します」
「努力ではなく約束しなさい」
「……約束します」
母が小さく笑った。
「リリアーヌ、籠は大きいほうを持っていきなさい」
「お母様」
「どうせ出るのでしょう?」
「出ます」
「なら、小さい籠では足りないわ」
「お母様は分かる方です」
「分かりたくて分かっているわけではありません」
母はそう言ったが、目は優しかった。
私は一礼し、応接室を出ようとした。
「待て、リリアーヌ!」
フェリクス様が立ち上がった。
「君は本当に、それでいいのか」
「それとは」
「婚約破棄だぞ」
「はい」
「私がセレーネを選ぶと言っているのだぞ」
「はい」
「何も思わないのか」
「思っています」
私は正直に言った。
「悲しくないわけではありません」
「なら」
「でも今は、茸のほうが急ぎです」
「そこだ!」
フェリクス様が叫んだ。
「そこが嫌なのだ!」
「そうでしたか」
私は少し考えた。
「では、やはり私たちは合わなかったのだと思います」
「何?」
「私は、雨上がりの森を無視できませんので」
それだけ言って、私は応接室を出た。
廊下には、侍女のニナがすでに採集籠と外套を用意していた。
さすがである。
「お嬢様、大籠でございます」
「ありがとう」
「小刀と布袋も」
「ありがとう」
「北森用の靴も」
「本当にありがとう」
よい侍女とは、主が婚約破棄されている間に採集の支度を整えてくれる者である。
たぶん、普通は違う。
でも、私にはそうだった。
北森へ着いたころ、空はまだ曇っていた。
馬車を降りると、湿った土の匂いが足元から立ち上った。
苔。
落ち葉。
雨に濡れた樹皮。
遠くで鳥が鳴く。
森番のトマが、私を見るなり帽子を取った。
「お嬢様、出ております」
「どこ」
「北斜面の倒木です」
「やはり」
「ただ、足元が悪いです」
「分かっています」
「本当に分かっておられますか」
「たぶん」
「たぶんが一番困ります」
トマは渋い顔をしたが、私を止めなかった。
彼も分かっているのだ。
今日を逃すと、銀霧茸は負ける。
森へ入る。
一歩目で靴が沈んだ。
二歩目で裾が少し泥を吸った。
三歩目で、私は息を吐いた。
いい。
かなりいい。
雨上がりの森は、すべての輪郭が柔らかい。
葉の端に水が残り、苔が膨らみ、倒木の肌が黒く濡れている。
こういう朝、森は黙っているようで、とてもよく喋る。
どこに水が溜まり、どこに光が入り、どこに菌糸が走っているか。
見れば分かる。
いや、見たい。
ずっと見ていたい。
「リリアーヌ嬢?」
不意に、低い声がした。
振り向くと、灰緑色の外套を着た男性が立っていた。
オスカー・ハーヴェル様。
ハーヴェル辺境伯家の次男で、父とは森の境界管理の相談で何度か屋敷へ来ていた方だ。
彼は狩猟より森そのものに詳しい。
以前、晩餐会で「北向きの斜面は人より記憶がよい」と言って、私以外の全員を黙らせたことがある。
私はそのとき、かなり好きな言葉だと思った。
「オスカー様」
「こんな朝に森へ?」
「はい」
「雨上がりだから?」
「はい」
「出るのか」
「出ます」
「なら邪魔をした。足元に気をつけて」
「……分かる方ですね」
私は思わず言った。
オスカー様は少しだけ首を傾げる。
「何が」
「今、理由を訊きすぎませんでした」
「雨上がりに森へ来た令嬢が急いでいるなら、何か出るのだろう」
「その通りです」
「銀霧茸か」
「分かる方ですね」
二度言ってしまった。
でも仕方がない。
分かる人は貴重である。
「北斜面へ?」
「はい」
「倒木の手前、滑る」
「承知しております」
「籠を持とうか」
「婚約破棄直後の令嬢に、雨上がりの森で籠を持つと申し出るのは少し危険です」
「なぜ」
「懐きます」
「それは困るのか」
「一般的には困るかもしれません」
「私は困らない」
「……そうですか」
危ない。
かなり危ない。
慰めの言葉より、籠を持つと言われるほうが効く日がある。
今日がその日だった。
オスカー様は本当に籠を持ってくれた。
そして、本当に邪魔をしなかった。
森で一緒に歩ける人には、才能がいる。
先に行きすぎないこと。
遅すぎないこと。
踏んではいけない苔を踏まないこと。
見つけたものを勝手に摘まないこと。
驚いた声で鳥を飛ばさないこと。
オスカー様は、それらを全部分かっていた。
とても危険だった。
北斜面の倒木に着いた瞬間、私は膝をついた。
泥など気にしていられない。
苔の下、湿った樹皮の割れ目に、銀色の小さな傘が三つ。
いや、奥にもう二つ。
さらに根元に、開きかけが一つ。
「いました」
私は小さく言った。
声を大きくすると逃げるわけではない。
でも、こういうときは小声になる。
礼儀である。
「よかったな」
オスカー様も小声だった。
とてもよい。
分かる方である。
「まだ開ききっていません」
「採るのか」
「二つだけ」
「全部ではなく?」
「来年のために残します」
「なるほど」
「森は、全部持っていくと黙ります」
「いい言い方だ」
「祖母の言葉です」
私は慎重に二つだけ採った。
布袋へ入れる。
香りを逃がさないように、布を二重にする。
小さな茸なのに、ふわりと深い香りが立つ。
雨。
土。
湿った木。
少しだけ胡桃に似た甘さ。
素晴らしい。
フェリクス様の顔より、長く見ていられる。
いや、比べてはいけない。
でも、事実ではある。
「嬉しそうだな」
オスカー様が言った。
私は頷く。
「嬉しいです」
「婚約破棄された朝に?」
「はい」
「強いな」
「違います」
「違う?」
「今は銀霧茸が勝っているだけです」
「婚約破棄に?」
「はい」
「それは、かなり強い茸だ」
「とても」
オスカー様は少し笑った。
低く、静かな笑い方だった。
森の中で響きすぎない笑い。
好ましい。
「リリアーヌ嬢」
彼は言った。
「泣くなら、帰ってからか」
「はい」
「なぜ」
「今泣くと、鼻が詰まって森の匂いが分からなくなります」
「なるほど」
「それは困ります」
「確かに困る」
「分かる方ですね」
三度目だった。
でも仕方がない。
この人は本当に分かる。
その日、私は銀霧茸を二つ、春苔を少し、香りのよい野蒜をひと束だけ採って帰った。
婚約破棄された悲しみは、夕方になってから少し来た。
フェリクス様と過ごした時間が、何もなかったわけではない。
彼に褒められて嬉しかったこともある。
いずれローヴェル侯爵家へ嫁ぎ、あちらの庭に私の小さな薬草区画を作れたらと思ったこともある。
でも、あの人は最後まで、私がなぜ森へ行くのかを見なかった。
泥を見るだけで、土の中を見なかった。
茸を見るだけで、季節を見なかった。
それは悲しい。
ただ、悲しみながらでも、銀霧茸は干さなければならない。
泣くのは、そのあとでよかった。
五日後。
ローヴェル侯爵家から正式な書状が届いた。
婚約解消は、フェリクス様側の申し入れとして処理。
両家の合意の上、違約金と社交上の説明はローヴェル家が担うこと。
グレンヴィル北森の採集物は、今後ローヴェル家の催しで使わないこと。
秋の饗宴に関しては、ローヴェル家が自家の食材で準備すること。
父はその書状を読み、満足そうに頷いた。
「ローヴェル侯爵は、話が分かる方だ」
「はい」
「問題は息子だな」
「はい」
「未練は?」
「あります」
「そうか」
「でも、銀霧茸を“茸くらい”と言われたので」
「それは大きいな」
「大きいです」
父はなぜか深く頷いた。
我が家では通じる。
それだけで、少し心が軽くなる。
秋の饗宴は、予定通りローヴェル侯爵家で開かれた。
私は招かれなかった。
当然である。
婚約解消した相手の家の饗宴に招かれるほうがおかしい。
ただ、王都の噂は森の胞子より軽く飛ぶ。
数日後には、内容が自然と耳に入った。
ローヴェル侯爵家は、予定どおり森の茸料理を出したらしい。
ただし、それはグレンヴィル北森の銀霧茸ではなかった。
市場で買った、見た目だけ似た茸だった。
毒ではない。
危険でもない。
ただ、香りがなかった。
煮ても薄い。
焼いても薄い。
干しても薄い。
何をしても、森の朝にならない。
それは仕方がない。
似ているだけのものは、似ているだけなのだ。
「去年、グレンヴィル家でいただいた森の香りは?」
「今年は随分おとなしい味ですわね」
「婚約記念に北森の銀霧茸を出すと伺っていたのだけれど」
「あら、婚約は解消されたのでしょう?」
「では、なぜ招待状に森の饗宴などと?」
「まさか、市場品で代用を?」
そういう声が、食卓の上で静かに広がったらしい。
大きな失敗ではない。
誰も倒れていない。
皿が割れたわけでもない。
ただ、客人たちは期待した森の香りを得られなかった。
そして、ローヴェル家がグレンヴィル北森の名を軽く扱ったことだけが残った。
フェリクス様は、かなり困ったらしい。
セレーネ嬢も、花を飾れば十分だと思っていたようだが、客人たちは花より皿を見ていたという。
少し気の毒ではある。
ただし、森の香りを飾りのように考えたのは彼らである。
飾りなら、花でよかった。
森は、そういうものではない。
さらに三日後。
フェリクス様が、グレンヴィル家を訪ねてきた。
場所は、再び我が家の応接室。
今度は、父と母が同席し、ローヴェル侯爵からの事前連絡もあった。
つまり、不意打ちではない。
ここは大事だ。
不意打ちで婚約破棄を申し入れた人間が、次に不意打ちで謝罪に来たら、さすがに父が森番を呼ぶ。
「リリアーヌ」
フェリクス様は、以前より少しやつれていた。
「先日の饗宴の件で、謝罪したい」
「承ります」
「君の言う通りだった。森のものは、誰でも同じように使えるものではなかった」
「はい」
「銀霧茸も、市場の茸で代わりになると思っていた」
「なりません」
「……本当に、ならなかった」
その声には、実感があった。
少なくとも、以前よりは。
私は少しだけ頷いた。
「料理長様はお悪くありません」
「分かっている」
「茸も悪くありません」
「……それも分かっている」
「市場の茸には市場の茸の良さがあります。問題は、銀霧茸の代わりをさせようとしたことです」
「そこまで茸を庇うのか」
「茸に罪はありません」
「君は本当に変わらないな」
「はい」
私は素直に答えた。
「変わりません」
フェリクス様は、ほんの少しだけ苦笑した。
以前なら、その笑い方に胸が痛んだかもしれない。
でも今は、少し懐かしいだけだった。
「もう一つ」
彼は言った。
「君に戻ってきてほしい」
応接室の空気が、静かに固まった。
父の眉がわずかに動く。
母は扇を置いた。
私は、少し考えてから答えた。
「どこへでしょう」
「私の婚約者へ」
「セレーネ様は?」
「彼女とは、まだ正式な婚約前だった。父が話を止めた」
「そうですか」
「私は、君の価値を見誤っていた」
フェリクス様は、まっすぐ私を見た。
「君が森を知っていることも、季節を読めることも、ただの変わった趣味だと思っていた」
「趣味です」
「だが、役に立つ趣味だった」
「そこですか」
思わず言ってしまった。
フェリクス様が目を瞬く。
「何?」
「いえ」
「私は、君の趣味ごと受け入れる」
「フェリクス様」
「だから」
「それは、受け入れるとは少し違います」
私は静かに言った。
「何が」
「役に立つから認める、ということです」
「それは」
「私は、森が役に立つから好きなのではありません」
窓の外を見る。
今日は晴れている。
こういう日は、森へ行くなら午後遅くがよい。
葉が乾いて、虫の音が変わる。
「野草も、茸も、苔も、根も、役に立つものばかりではありません」
「……」
「食べられないものもあります。摘んではいけないものもあります。見るだけのものもあります。名前も知らないまま、ただきれいだと思うものもあります」
「リリアーヌ」
「それでも好きなのです」
私はフェリクス様を見た。
「私が好きなものを、あなたが必要になったから認めるのでは、きっとまた同じことになります」
「そんなことは」
「あります」
私ははっきり言った。
「次に私が泥のついた裾で戻ったとき、あなたはまた、侯爵家の妻にふさわしくないと思うでしょう」
「……」
「次に私が花束を挿し木にしたとき、あなたはまた、普通に喜べない女だと思うでしょう」
「……」
「次に私があなたの言葉より湿度を気にしたとき、あなたはまた怒るでしょう」
「……」
「私は、それをやめられません」
フェリクス様は何も言わなかった。
言えなかったのだと思う。
私は少しだけ微笑んだ。
「謝罪はお受けします」
「なら」
「でも、戻りません」
「リリアーヌ」
「私は森へ行く女です」
自分で言って、胸の奥が少し軽くなった。
「雨が降ったら窓を開けます。苔が太ったら靴を履きます。珍しい芽を見つけたら、会話の途中でも少し目が逸れます」
「……」
「それを、恥ずかしいと思う人の隣では、もう暮らせません」
フェリクス様の顔が歪んだ。
少し痛ましい。
でも、もう私が戻る理由にはならない。
「分かった」
彼はようやく言った。
「本当に、私は君を見ていなかったのだな」
「はい」
「即答するな」
「事実ですので」
「君は、最後まで君だな」
「はい」
そこだけは、自信があった。
フェリクス様が帰ったあと、私は少しだけ疲れていた。
婚約破棄された日より、謝罪を断る日のほうが疲れることもあるらしい。
でも、不思議と迷いはなかった。
その日の夕方、屋敷の裏庭へ出ると、オスカー様が父と話していた。
ハーヴェル家との境界森の相談で来たらしい。
私に気づくと、彼は軽く会釈した。
「リリアーヌ嬢」
「オスカー様」
「疲れている?」
「少しだけ」
「森へ行くか」
「婚約者に復縁を申し込まれて断った令嬢に、森へ行くかと訊くのは危険です」
「なぜ」
「効きます」
「そうか」
「はい」
「でも行くか」
「行きます」
即答だった。
父がなぜか空を仰いだ。
「リリアーヌ」
「お父様」
「夕暮れ前には戻りなさい」
「はい」
「北側の沢へは下りないこと」
「はい」
「オスカー殿、娘が苔を追って斜面を下りそうになったら止めてください」
「承知しました」
「お父様、私はそこまで」
「去年落ちかけた」
「苔が」
「苔ではなく命を見なさい」
「はい」
オスカー様が小さく笑った。
その笑い方が、やはり森向きだった。
夕方の森は、朝とは違う。
光が斜めに入り、葉の裏が少しだけ金色になる。
昼の熱が土に残り、湿気がゆっくり上がる。
私は歩きながら、少しずつ呼吸が楽になるのを感じた。
オスカー様は隣で黙っていた。
沈黙が苦にならない。
それも、かなり大事なことだ。
「リリアーヌ嬢」
しばらくして、彼が口を開いた。
「ハーヴェル領には、霧の森がある」
「霧の森」
「秋になると、谷から霧が上がる」
「谷霧」
「倒木が多い」
「倒木が多い」
「苔も厚い」
「苔も」
「茸は、たぶんあなたのほうが詳しい」
「……オスカー様」
「何だ」
「婚約解消後まもない令嬢に、霧の森と倒木と苔の話をするのは危険です」
「また危険か」
「かなり危険です」
「効くのか」
「効きます」
「覚えた」
「覚えないでください」
「無理だ」
オスカー様は真面目な顔で言った。
「あなたは、雨上がりと茸と森に弱い」
「否定できません」
「だから、軽々しく使わないようにする」
「それは助かります」
「だが、見せたいとは思っている」
「……危険です」
私は胸を押さえた。
この人は危険だ。
甘い言葉ではなく、森で来る。
宝石でもドレスでもなく、霧と倒木と苔で来る。
かなり危険だった。
「リリアーヌ嬢」
オスカー様は、倒木の前で足を止めた。
「私は、あなたが森を優先するところを面白いと思っている」
「面白い」
「ああ」
「褒め言葉ですか」
「そのつもりだ」
「なら受け取ります」
「あなたは、森臭い女ではない」
「では何でしょう」
「森にうるさい女だ」
「正確です」
私は深く頷いた。
「たいへん正確です」
「そして私は、そういうあなたと森を歩くのが嫌ではない」
「嫌ではない」
「むしろ、また歩きたい」
「……それは」
「交際の申し込みだ」
森が、急に静かになったような気がした。
実際には鳥も鳴いているし、葉も揺れている。
でも、私の耳には、少し遠くなった。
「森で?」
「あなたには、ここが一番話しやすいと思った」
「効いています」
「ならよかった」
「よくありません。判断が鈍ります」
「鈍った返事でもいい」
「だめです」
私は首を振った。
「森も返事も、急ぎすぎると見落とします」
「では待つ」
「どれくらい?」
「あなたが納得するまで」
「銀霧茸の乾き具合を確認してからでも?」
「いい」
「次の雨を見てからでも?」
「いい」
「霧の森を見てからでも?」
「それは判断を鈍らせるのでは」
「鈍ります」
「では、先に返事か」
「難しいですね」
「難しいな」
私たちは、二人で少し笑った。
変な会話だと思う。
でも、悪くなかった。
フェリクス様とは、こういうふうに変なままで話せたことが少なかった。
私が森の話を始めると、彼は困った顔をする。
早く普通の話題に戻してほしそうな顔をする。
でも、オスカー様は戻さない。
むしろ、少し奥へ入ってくる。
「条件があります」
私は言った。
オスカー様は頷く。
「聞こう」
「森へ入るとき、私の歩幅を急かさないでください」
「急かさない」
「苔を踏まないでください」
「気をつける」
「知らない茸を勝手に摘まないでください」
「摘まない」
「私が会話の途中で木の根を見に行っても怒らないでください」
「怒らない」
「私があなたより湿度を先に褒める日があるかもしれません」
「知っている」
「いいのですか」
「湿度は大事だろう」
だめだった。
少し泣きそうになった。
婚約破棄の日には泣かなかったのに、湿度を大事と言われて泣きそうになる。
自分でもどうかと思う。
でも仕方がない。
私には、そういう言葉が効く。
「お受けします」
私は言った。
「ただし、ゆっくりで」
「ああ」
「森と同じくらい、ゆっくりで」
「分かった」
オスカー様は、それだけで頷いた。
手を取るでもなく、抱きしめるでもなく、ただ隣に立っていた。
その距離が心地よかった。
森で急に近づく人は、あまり信用できない。
オスカー様は、それも分かっているようだった。
その後、ローヴェル侯爵家の秋の饗宴失敗は、王都でしばらく笑い話になった。
フェリクス様は「森の香りを市場で買おうとした男」と呼ばれたらしい。
少し言い方がひどい。
でも、だいたい合っている。
セレーネ嬢は、しばらく花の飾りすぎを控えるようになったと聞いた。
彼女が悪女だったかと言われると、少し違う気もする。
たぶん彼女は、花があれば森に勝てると思っていただけだ。
ただ、饗宴の皿に必要だったのは花ではなかった。
それだけのことである。
私はというと、以前より少し忙しくなった。
グレンヴィル北森の採集記録を父と整理することになったからだ。
もちろん、仕事としてではない。
いや、少しは仕事かもしれない。
でも、根本は趣味である。
好きだから見る。
好きだから記録する。
好きだから残す。
その結果として、家の森の管理に役立つこともある。
順番は、そこを間違えてはいけない。
役に立つから好きなのではない。
好きだから、役に立つところまで見てしまうのだ。
オスカー様とは、月に一度ほど森を歩くようになった。
もちろん、父母の許可と護衛つきである。
そこは大事だ。
婚約破棄された令嬢が、辺境伯家の次男と二人きりで森へ消えるのは、さすがに噂になる。
もっとも、護衛たちはだいたい途中から私たちより茸探しに夢中になる。
困ったことだ。
見込みがあるとも言う。
冬の前。
私は初めてハーヴェル領の霧の森を訪れた。
谷から白い霧が上がり、古い倒木が幾重にも重なり、苔は絨毯のように厚かった。
森へ一歩入った瞬間、私は息を止めた。
いい。
かなりいい。
湿った木。
冷たい石。
落ち葉。
霧。
見たことのない小さな茸。
名前の分からない苔。
すべてが、静かにそこにあった。
「危険です」
私は言った。
隣のオスカー様は、もう慣れたように頷く。
「帰りたくないのか」
「はい」
「そう言うと思った」
「どうしましょう」
「泊まればいい」
「お父様とお母様の許可が必要です」
「取ってある」
「手回しがよろしい」
「森に人を招くなら、段取りがいる」
「本当に危険です」
私はまた胸を押さえた。
この人は、森以外の言葉でも森に寄ってくる。
かなり危険だった。
その日の夕方。
霧の森の小屋で、オスカー様は改めて私に向き合った。
小屋といっても、狩猟用ではない。
森番たちが雨を避け、採集物を仕分けるための小さな作業小屋である。
干し棚があり、風の通る窓があり、壁には小さな草束が吊るされている。
求婚の場としては、少し変かもしれない。
でも私には、舞踏会場よりずっと効いた。
「リリアーヌ・グレンヴィル嬢」
オスカー様は言った。
「私は、あなたと森を歩き続けたい」
「はい」
「あなたが雨の翌朝に私より先に森へ行くことも、たぶんあると思っている」
「あります」
「あるのか」
「はい」
「正直だな」
「嘘をついても、雨には負けます」
「それでいい」
オスカー様は少しだけ笑った。
「私は、あなたを森から遠ざけたいわけではない」
「はい」
「できれば、あなたが森へ行くとき、隣か少し後ろにいたい」
「少し後ろ」
「前へ出ると、あなたが見ているものを踏むかもしれない」
「……オスカー様」
「何だ」
「それは、かなり良い求婚です」
「ならよかった」
「よすぎて、少し困ります」
「困るのか」
「泣くと鼻が詰まります」
「森は逃げない」
「それもそうですね」
私は少しだけ笑った。
そして、少しだけ泣いた。
霧の森の小屋で、干し棚と草束に囲まれて泣く令嬢は、たぶんあまりいない。
でも、これが私である。
「お受けします」
私は言った。
「ただし、条件があります」
「聞こう」
「結婚後も、雨上がりの朝は森へ行きます」
「ああ」
「採集籠を勝手に小さくしないでください」
「しない」
「珍しい苔を見つけたら、予定を少し変更します」
「分かった」
「食べられるかどうかだけで、茸の価値を決めないでください」
「決めない」
「私があなたより倒木を長く見ていても、拗ねないでください」
「努力する」
「そこは受け入れてください」
「受け入れる」
「それから」
「まだあるのか」
「はい」
私は真剣に言った。
「私が森臭いと言われても、訂正してください」
「分かった」
「何と?」
「森にうるさい女だと」
「正解です」
オスカー様は、きちんと覚えていた。
それだけで、もう十分だった。
王都では、今でもときどき私の噂が流れるらしい。
野草と茸ばかり摘むので婚約破棄された令嬢。
婚約破棄の場で、森へ行きたいと言い出した令嬢。
元婚約者より銀霧茸を優先した令嬢。
森の香りを市場で買おうとした元婚約者を、結果的に笑いものにした令嬢。
どれも、だいたい合っている。
少しだけ言い方がひどいけれど、間違ってはいない。
だから私は、訂正しない。
ただ、もし誰かがこう言うなら、そこだけは直すつもりだ。
森臭い女。
それは違う。
私は、森にうるさい女である。
そして近いうちに、森にうるさい妻になる予定だ。
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