七つの声
「いい加減にしろ!」
私の怒声が、教室中に響き渡った。
生徒たちは一斉に黙り込んだ。窓の外から聞こえていた鳥の声さえ、止んだような気がした。
私は深呼吸をした。また、やってしまった。
教壇の前に立っていた生徒、佐藤という少年は、顔を真っ赤にして俯いていた。彼は宿題を三日連続で忘れてきた。ただそれだけのことだ。怒鳴るほどのことではない。
「……済まない。言い方が悪かった」
私は声を落とした。佐藤は小さく頷き、席に戻った。
チャイムが鳴った。生徒たちは静かに教室を出ていく。いつもなら賑やかな休み時間のはずなのに、今日は誰も騒がない。
私は窓際に立ち、校庭を見下ろした。
田所誠。五十歳。教師歴二十八年。
いつから、こんなに怒りっぽくなったのだろう。昔は、もっと穏やかだった気がする。生徒たちと笑い合い、冗談を言い合っていた。
でも今は、些細なことで苛立つ。声を荒げる。そして、後悔する。
私の中で、何かが変わってしまった。
それとも、これが本当の私なのか。
優しい教師という仮面の下に隠していた、怒りと焦燥。それが、歳を重ねるごとに表に出てきているだけなのかもしれない。
その日の夕方、私は職員室で成績表に向かっていた。静かな部屋で、ペンを走らせる音だけが響く。
午後七時を過ぎた頃、私は立ち上がった。そういえば、今朝、自分の教室に参考書を忘れてきた。明日の授業で使う予定だった。
私は職員室を出て、三階の教室へ向かった。
廊下は暗く、足音だけが不気味に反響する。教室の扉を開けると、黒板に誰かが落書きをしていた。
「田所先生、怖い」
チョークの白い文字。誰が書いたのだろう。
私は黒板消しでそれを消し、机の上から参考書を取った。そして、職員室へ戻ろうとした。
その時、階下から声が聞こえてきた。
職員室の方向からだ。まだ誰かいるのか。
私は階段を降りた。職員室の扉は少し開いていて、中から明かりが漏れている。
「田所先生、最近ヤバくない?」
若い女性の声だった。新任の国語教師、山田だろうか。
私は立ち止まった。
「うん、怖いよね。今日も佐藤君、泣きそうだった」
別の声。これは理科の鈴木だ。
私は扉の陰に身を隠した。立ち聞きなどすべきではない。そう思いながらも、足が動かなかった。
「時代錯誤だよね。今どき、あんな怒鳴り方する教師いないって」
「生徒からの評判も最悪。保護者からもクレーム来てるらしいよ」
「校長、何とかしてほしいよね。あの人、もう限界じゃない?」
私の心臓が、激しく打ち始めた。
限界。
そうか。私は、そう見られているのか。
「でもさ、田所先生って昔は良い先生だったらしいよ。七年前に教えてた生徒たち、みんな慕ってたって」
「え、本当に? 信じられない」
「人って変わるんだね。怖い怖い」
笑い声が聞こえた。
私は静かに職員室から離れた。足音を立てないように。まるで泥棒のように。
階段を降り、玄関から外に出た。
夜風が頬を撫でた。冷たかった。
私はそのまま、学校の裏門へ向かった。誰にも会いたくなかった。
家に帰り着いた時、時計は午後八時を指していた。
私は冷蔵庫を開けた。中には、昨日買ったばかりの鮭の切り身が入っていた。夕食に焼こうと思っていたが、食欲は全くなかった。
ソファに座り込み、天井を見上げた。
限界。時代錯誤。怖い。
その言葉が、頭の中でループする。
私は何のために、教師をやっているのだろう。
生徒のため? 違う。今の私は、生徒を怖がらせているだけだ。
情熱? それもない。あるのは、苛立ちと疲労だけだ。
携帯電話が鳴った。
画面を見ると、知らない番号からだった。私は出なかった。
しかし、電話は何度も鳴り続けた。五回、六回、七回。
仕方なく、私は電話に出た。
「はい、田所です」
「先生! 覚えてますか? 俺、川村です!」
明るい男性の声。川村?
「七年前、先生のクラスにいた川村翔太です!」
記憶が蘇った。川村翔太。背が高く、いつも教室の後ろで寝ていた生徒だ。
「ああ、川村か。どうした?」
「実は、明日、先生に会いたくて。同窓会みたいなものなんですけど」
「同窓会?」
「はい。七年前のクラスメート、七人集まるんです。で、先生も来てほしいなって」
七人。
私は少し考えた。正直、行きたくなかった。でも、断る理由もない。
「……わかった。どこに行けばいい?」
翌日の土曜日、私は指定された喫茶店へ向かった。
店に入ると、若者たちが手を振っていた。
川村、中村、佐々木、田中、伊藤、小林、そして山本。七人の顔を見て、記憶が鮮明に蘇った。
「先生! お久しぶりです!」
彼らは立ち上がり、深々と頭を下げた。
私は戸惑った。こんなに丁寧に迎えられるとは思っていなかった。
「座ってくれ。久しぶりだな」
私は席に着いた。彼らは七人とも、スーツを着ていた。社会人になったのだ。
「先生、元気でしたか?」川村が聞いた。
「ああ、まあな。お前たちは?」
「俺、今、営業やってるんです。大変ですけど、何とかやってます」
「僕は教師になりました」中村が言った。「先生と同じ仕事です」
私は驚いた。「そうか。大変だろう」
「はい。でも、やりがいあります」
他のメンバーも、それぞれ近況を話した。看護師、エンジニア、公務員、料理人、デザイナー。みんな、それぞれの道を歩んでいた。
「先生」
不意に、川村が真剣な顔で言った。
「俺たち、今日、先生に感謝を伝えたくて集まったんです」
「感謝?」
「はい。先生の厳しい指導、あの時は正直、辛かったです。怒られるのが怖かった」
他のメンバーも頷いた。
「でも」川村は続けた。「社会に出て分かったんです。先生が教えてくれたこと、全部、必要だったんだって」
「覚えてますか? 俺、給食で魚の切り身が嫌いで、いつも残してたんです」
私は頷いた。覚えている。
「先生、俺に言ったんです。『好き嫌いは、人生の選択肢を狭める。嫌いなものから逃げるな』って。それ、今でも覚えてます。営業で、苦手な客先に行かなきゃいけない時、いつも思い出すんです」
中村が言った。
「僕も覚えてます。遅刻した時、先生に怒られました。『時間を守れない人間は、信用されない』って。今、教師やってて、その言葉の重さが分かります」
田中が続けた。
「僕、中学の時、友達をいじめてました。先生、僕を職員室に呼んで、一時間説教したの、覚えてますか?」
私は頷いた。あの時、私は怒りを抑えきれず、田中を強く叱責した。
「あの時、先生の目、本気で怒ってました。怖かった。でも、その後で言ったんです。『お前には、人を思いやる力がある。それを間違った方向に使うな』って」
田中の目が潤んでいた。
「あの言葉で、僕、変わったんです。今、看護師やってるのも、先生のおかげです」
一人、また一人と、彼らは語った。
私が怒った理由。叱った理由。それぞれが、今になって理解したと。
そして、感謝していると。
私は何も言えなかった。
七年前、私は彼らに厳しかった。怒鳴ることもあった。時には、行き過ぎた指導をしたかもしれない。
でも、それは彼らを想ってのことだった。
彼らが社会に出た時、困らないように。誰かに傷つけられないように。自分の力で生きていけるように。
そのために、私は厳しくした。
それが、今になって、彼らに届いていた。
「先生」
川村が言った。
「俺たち、聞いたんです。先生、今、学校で大変だって」
私は顔を上げた。
「新しい時代の教育と、先生のやり方が合わないって。でも、俺たち、思うんです。先生のやり方は、間違ってないって。ただ、周りが先生を理解してないだけ」
中村が言った。
「僕、今、教師やってて分かります。生徒を本気で叱れる先生、ほとんどいないんです。みんな、保護者の顔色ばかり気にして。生徒に嫌われるのを恐れて。でも、それじゃダメなんです。生徒は、大人が思ってるより、ずっと強いから」
私の目から、涙が溢れた。
五十歳の男が、若者たちの前で泣いている。
でも、止められなかった。
「ありがとう」
私はようやく言葉を絞り出した。
「ありがとう。お前たちが、そう言ってくれて」
七人は笑顔で頷いた。
喫茶店を出た後、私は一人で歩いた。
空は晴れていて、風が心地よかった。
私は間違っていなかった。
少なくとも、七年前の私は。
そして、今の私も、完全に間違っているわけではない。
ただ、伝え方を、もう少し工夫すればいい。
怒ることと、怒鳴ることは違う。
厳しさと、暴力的な言葉は違う。
生徒を尊重しながら、厳しく指導することはできる。
私は、それを学び直せばいい。
月曜日、私は学校に行った。
職員室で、若い教師たちに声をかけた。
「山田先生、鈴木先生。少し、時間いいか?」
二人は驚いた顔で頷いた。
「この前、お前たちの話、聞いてしまった。立ち聞きして、悪かった」
二人は顔を見合わせた。
「でも、お前たちの言う通りだ。私は時代錯誤かもしれない。変わらなきゃいけない。だから、教えてほしい。今の時代の教育を。お前たちの方法を」
山田が目を丸くした。
「私も、お前たちに教える。私のやり方を。良いところだけでいい。一緒に、より良い教育を作っていこう」
鈴木が小さく笑った。
「田所先生、変わりましたね」
「いや」私は首を横に振った。「戻ったんだ。本来の自分に」
その日の授業で、私は佐藤を呼んだ。
「この前は、怒鳴って済まなかった」
佐藤は驚いた顔をした。
「でも、宿題は大事だ。お前のためになる。だから、ちゃんとやってほしい」
佐藤は頷いた。
「分からないところがあったら、いつでも聞きに来い。一緒に考えよう」
「はい」
佐藤は笑顔で答えた。
私は、ようやく気づいた。
怒りは、生徒を変えない。
尊重と、対話だけが、人を変える。
でも、厳しさも必要だ。
その二つのバランスを、私は学び直す。
七人の教え子たちが、私に教えてくれた。
遅すぎたかもしれない。
でも、今、気づけて良かった。
私は、まだ教師を続けられる。
今度こそ、正しいやり方で。
放課後、私は家に帰り、冷蔵庫から鮭の切り身を取り出した。
フライパンで焼きながら、私は笑った。
明日も、学校に行こう。
生徒たちと、向き合おう。
怒りではなく、愛情を持って。
七つの声が、私を救ってくれた。
そして、私は、新しい教師として、生まれ変わる。




