6. 土井司
先日前の台風が嘘のように晴れて穏やかな気候だった
9月とはいえまだまだ暑く猛暑日が続くと天気予報が告げる。
魔安の相談室は、以前と変わらず、無機質で少し肌寒かった。
土井はパイプ椅子に浅く腰掛け、膝の上に置いた右腕を見つめている。 再出動から三日。 ギプスは外れたが、リハビリが必要だという診断が下りた。
「……今回も、判定は『業務上傷病』。全会一致です」
入鹿は、提出された報告書を閉じ、土井の顔をまっすぐに見据えた。
「三十分の使用制限は守られました。使用範囲も、要請の通りです。 ですが――血液検査の結果、神経伝達物質の値に、前回の出動時を上回る異常値が出ています」
土井は何も言わず、ただ小さく頷いた。
「土井さん。あなたは今回、誰もいない無人の家屋を直すために、自分の神経を削った。 現場の判断は、正しかった。結果として、住民の財産は守られた。
……でも、私は、あなたの担当官として、この報告書に『問題なし』とは書けません」
「……入鹿さん」
土井が、かすれた声で顔を上げた。
「俺……あの日、現場で思っちゃったんです。 ああ、これでまた、『すごい』って言ってもらえるのかなって。 腕がこんなになっても、仕事をしたんだから、また英雄になれるんじゃないかって……」
自嘲気味な笑みが、土井の唇に浮かぶ。
「でも、誰もいなかった。誰も見てなかった。 直した家の人に、後でありがとうって言われましたけど…… その時、思ったんです。 俺、本当は何のために、削ってるんだろうって」
魔法使いという「特別」な存在。 社会を救う「英雄」。 その称号がなければ、自分の欠落に耐えられなかった。 そう告白する土井の瞳は、ひどく揺れていた。
入鹿はゆっくりと椅子を引き、土井との距離を詰めた。 机を挟まず、一対一の人間として向き合うように。
「土井さん。聞いてください」
入鹿の声は、これまでで一番低く、そして温度を持っていた。
「世間は、あなたたちを英雄と呼びます。 それは、魔法という理不尽な力を、都合よく称賛するためです。 魔法省は、あなたたちをリソースと呼びます。 それは、インフラを維持するための数字として管理するためです」
入鹿は一度言葉を切り、土井の、まだ力が入らない右腕を静かに指差した。
「でも、私は、あなたを英雄とは呼びません。 ましてや、ただの数字だとも思わない」
「…………」
「あなたは、一人の労働者です。 もっと言えば、痛みを知り、疲れを感じ、明日への不安を抱えながら生きる、ただの一人の人間です」
「あなたは、英雄にならなくていい。 壊れたら休み、苦しければ声を上げ、自分の人生を守る権利がある。 それが、この国で『働く人間』に等しく与えられた権利なんです」
入鹿の言葉は、事務官としての領分を越えていた。 それは、規則を読み上げる声ではなく、一人の人間が、もう一人の人間へ送る切実な願いだった。
沈黙が、部屋を支配した。
やがて、土井の肩がわずかに震え始める。
痛覚を失ったはずの右腕を、左手で強く、強く握りしめて。
「……すみません」
土井は深く、深く頭を下げた。
机に額がつくほど、折れそうなほど深く。
「すみません……ありがとうございます……」
それが感謝だったのか、謝罪だったのか。
あるいは、英雄という鎧を、ようやく脱いだ瞬間の産声だったのか。
入鹿は何も言わず、
土井が顔を上げるまで、その静かな嗚咽を聞き続けていた。
⸻
面談室の扉が閉じる音がして、
入鹿が小さく息を吐いた、その背後で。
「……英雄にならなくていい、ね」
ぽつりと、独り言のような声が落ちた。
振り向くと、待合の椅子に宮本一馬が座っていた。
足元には空になったパンの袋がいくつも転がり、
手には、まだ封も切っていない袋がひとつ。
「宮本さん、それ何袋目ですか」
「ん? 八袋目だけど」
本気で不思議そうに首を傾げる。
満腹中枢が壊れている彼にとっては、いつものことなのだろう。
「新人の彼、出勤したんだね」
宮本はパンをかじりながら、どこか遠くを見るように言った。
「若いうちはさ、呼ばれないほうが、よっぽどきついんだよ。今は保健師さんに呼ばれるのが怖くてしょうがないってのに」
「……聞こえてたんですね」
「まあね」
「運用庁にうまく使われなきゃいいけどさ。壊れる前に、止めてやってよ」
一拍置いて、にやりと笑う。
「ただでさえ形成系は人手不足なんだ。……あ、まずい」
廊下の向こうに誰かの気配を感じ取ったのか、宮本は慌ててパンの袋を入鹿に押し付けた。
「保健師に見られたら怒られる。これ、預かっといて」
半ば強引に渡された袋は、ずっしりと重い。
痛みを感じないことも、
これほどの量を躊躇なく食べることも、
入鹿にとっては見慣れた光景のはずだった。
それでもなお、
理解しきれないまま、袋を見つめる。
どうか。
彼らが、自分を削り切る前に、
「休んでいい」と言える社会でありますように。
入鹿は、そう願わずにはいられなかった。
数ヶ月後 1通の申請書が魔法労働安全監督庁に届き静かに受理された
――労災申請書抜粋――
名前:土井 司
年齢:20歳
症状:痛覚異常。反応テストにより全身に後遺症を確認。
形成対象境界喪失 使用後の健康診断で大腸 腎臓 左足に損傷を確認
使用魔法:物質形成魔法
使用状況:マグニチュード6の地震が第四地区管轄の藤咲半島で発生 島内の全体道路整備 橋の応急復旧
島内南部の家屋復旧措置(約250屋)
使用時間:4時間
使用判断: 防災局要請に基づく。運用庁の緊急判断
本人希望により出勤
使用者ランク:Bランク
使用リスク:健康診断に異常値あり 労災課は限定的使用を勧告
魔法労働安全監督庁では対象者の魔法使用継続不可と判断
土井司は短い魔法使いのキャリアにピリオドを打つことになる。




