5.出動要請(任意)
入鹿が電話を切ったあと、魔法労働安全監督庁のフロアに、ほんの一瞬、沈黙が落ちた。
モニターには、台風22号の進路予測と、山間部に重ねられた赤い警告表示。
土砂災害の危険度が、時間ごとに更新されていく。
――土井は、出勤するだろうか。
そう考えている自分に、入鹿は小さな違和感を覚えた。
出勤してほしくない、と思っている。
災害の映像を前にして抱くその感情は、非情なのだろうか。
だが、右腕にギプスを巻いた青年を、災害現場に送ること自体が、すでに非情ではないのか。
答えは出ないまま、警告表示だけが増えていく。
「リスク説明は」
川上の声で、入鹿は現実に引き戻された。
「終わっています。労災期間中のため、あくまで“要請”であること。出勤に伴う後遺症悪化のリスクも、説明しました」
「ふーん。で、本人は?」
「……少し、考えさせてほしいと」
川上は肩をすくめる。
「まあ、そうなるよな。宮本さんが今の現場終わったら向かえるかも、とは言ってるけどさ。あの人、血糖値もう限界だろ」
冗談めいた口調だったが、入鹿は笑えなかった。
宮本一馬。
物質形成系、B+ランク。土井より一つ上のベテラン魔法使いだ。
度重なる魔法使用により満腹中枢が乱れ、何を食べても空腹を感じる。
空腹を誤魔化すようにパンを水代わりに食べ続け、その結果、血糖値は常に基準値ぎりぎり。
ただ腹が減るだけ。
体は動く。
スキルも、適性も、申し分ない。
制度上は、災害派遣に何の問題もない魔法使いだった。
「あのランクと健康状態だったら制度上は、止められないんだよな」
川上はどこか他人事のようにそう言った。
⸻
その頃、土井司は、スマホを握ったまま動けずにいた。
《再出動要請(任意)》
画面の文面は、冷静で、丁寧だった。
使用時間三十分。
使用範囲限定。
医師判断では安静が望ましいこと。
同意がなければ、出動の必要はないこと。
行かない理由は、すべて書いてある。
腕は治っていない。
痛みを感じない異常は、まだ続いている。
再出動によって、後遺症が悪化する可能性がある。
――それでも。
何も起きない日々が、脳裏をよぎった。
昼まで眠り、
起きても疲れが取れず、
ニュースの中で誰かが救われていくのを、ただ眺めるだけの時間。
行かない、という選択は、正しい。
だが、それを選んだあと、自分は何を思うのだろう。
土井は深く息を吸い、スマホを耳に当てた。
「……行きます」
自分の声が、思ったより落ち着いていることに、少しだけ驚いた。
『これは、要請です。強制ではありません』
「分かってます」
『後遺症が悪化する可能性があります』
「……はい」
『それでも、出動しますか』
一瞬、迷いが浮かんだ。
だが、それを口にする前に、土井は答えていた。
「……同意します」
⸻
現場は、想像していたより静かだった。
雨は強いが、風はない。
すでに一次避難は終わっており、助けを呼ぶ声もない。
土井は、崩れかけた家屋の前で深く息を整えた。
「使用時間、三十分」
右腕の感覚は、相変わらず曖昧だ。
重さも、熱も、ほとんど感じない。
それでも、魔法は発動した。
瓦礫がゆっくりと形を取り戻し、
壁がつながり、柱が立ち、屋根が戻る。
――できている。
以前と同じ。少なくとも、そう見えた。
だが、集中し続けるのが、やけに難しい。
意識が、すぐ外へ流れていく。
タイマー音で我に返る。
「30分経過しました 規制により魔法使用を中断してください」
魔法を切った瞬間、膝がわずかに震えた。
倒れるほどではない。
ただ、踏ん張りがきかない。
「大丈夫ですか」
声をかけられ、土井は反射的に頷いた。
「……はい」
本当だった。
痛みはない。
吐き気も、眩暈もない。
何も、起きていない。
それが、ひどく不安だった。
⸻
帰路の車内で、土井は右腕のギプスを見つめた。
修復した家屋の住人は、すでに避難所にいる。
家が壊れ、直され、元に戻ったことを、まだ知らない。
あの家の持ち主も、
自分自身も、
何も変わっていない。
それなのに、胸の奥に、小さな確信があった。
――また、何かを削った。
だが、それを示す証拠は、どこにもない。
英雄にもならず、
失敗もしなかった。
ただ、仕事をしただけだ。
その事実だけが、静かに残っていた。




