高級娼婦ニコラ
音読も終わり、時間は夕方となる。僕はある人と会う約束がある為、とあるアパートの休憩場と呼ばれる場所に向かった。
「居るか?」
「入りな」
もはや彼女が下着のままなことよりも、本棚に増えている本の方が気になる。
アパスタークは語る、悪魔は平凡な父親、露悪者。いずれもラスアジィンニコフの著作である。
「読みたいなら読んでもいいよ」
「いや、いい。全部読んだことあるからな」
この三作は昔読んだが、全て借り物の思想だった。さっき言い当てたように、常世の外、つまり前世の世界から得た思想だったのだ。それについて、僕に咎める権利があるとは思えないが、それはそれとして嫌悪感は持つし、なによりこの早すぎる無神論の台頭が世界にどう影響するのかという心配がある。
「それで、彼女はいつ来るんだ?」
「もうちょっとしたらかな」
「そうか、早く来すぎてしまったかもな」
「何か面白い話してよ」
そこで目に入ったのは兎の生態という本だった。なにせこの本だけ深くしまわれておらず、少し本棚から飛びでていたのだから。
「イベリアの方かな。向こうじゃアナウサギってのが多くてさ」
「ヤブノウサギとかと何が違うの?」
「名前の通り巣穴を作るのさ。逃げる時もその巣穴に逃げる」
「んでその巣穴が分かりにくい上に深くてさ。だからヤブノウサギより捕まえるのが難しいんだ」
「それでどうやって捕まえると思う?銃とか矢を使わずにさ」
「うーん、罠を張るとか、でもそれじゃ巣穴変えられちゃうしね。水を流すとか?」
意外と恐ろしいこと考えつくんだな。だがその方法じゃだめだ。巣穴は高度な構造をしていて、水を流した程度じゃ水没なんてまずしない。
「雪の積もる日に狩るんだ。そしたら巣穴まで逃げることをせずに、雪の中に逃げる事を優先する」
「んでそこを捕まえるってわけなんだね」
「その際に藁で編んだドーナツみたいな道具を投げて、鷹の声に似た音を出して驚かすとかもやるらしい」
「やったことあるの?」
「あぁ、一度だけ。ヤブノウサギにやったからあんま意味なかったけどね」
話してて気付いのだが、彼女は知識の開示欲求を刺激することがとても上手だ。これは高級娼婦として武器なんだろうと思う。
状況的に言えば、教養深い彼女に知識を披露することで自分はかくも教養深い人間なのだと思えるし、彼女も彼女で教養があるので間抜けと見下すことができない。
つまり、この女ならば寄りかかられても構わない、そう男に思わせる魅力を持っている訳だ。
そりゃ、当然娼婦として売れるだろうよ。
「ニコラさん、開けてください」
「入りな」
短く纏めた茶髪と翠の瞳を持つ女。齢は十五そこらだろうか。
可愛らしい顔をしている、とても"兄"とは似ても似つかない。
「君がシャルロット・ダルモン・"バルバトス"か」
「は、はい!ロベスピエール様。シャルロットです!」
彼女から知らせてもらったとき、とても奇妙な縁だなと思った。まさか僕についてファン、信者という方が正しいか。ともかく彼女の姓はバルバトス。つまりコトデー・マリー・バルバトスと妹である。
「シャルロット、君に問いたい事がある。なぜ君は僕を選んだ」
「ロベスピエール様は清廉潔白で御座います、他の音読屋と違って、金銭に目が眩む様な事はしませんし、なにより貴方は医者であります、貧民の医者です。私はその正しさ、公平性を求める意思こそがこのラソレイユに求められているものであると考えています。それをお持ちであらせられるのはラソレイユにおいて貴方しかいません。
ですからこのシャルロットにもお手伝いさせて欲しいのです!」
結構な熱弁だ。その証拠に過呼吸で顔を赤くしている。
しかし、あのコトデーにしてこの妹ありといった所か。これは使えるかもしれん。なにさオーレン公と高等法院を下したら次はコトデーだからな。
「熱い思いをお持ちだ。正面からこうぶつけられると、僕もそれに応えなくてはならないと強く思う。」
「しかし貴方は現実として貴方の理想を持っていない。それでは僕に対する妄信と変わらない」
「だから貴方には僕の手伝いをする資格がない」
要は思想も理想も憧れの借り物の張子の虎は火傷する前に引っ込んでろって訳だ。
と、拒絶してみたがあんな顔を赤くして熱弁するような人間が簡単に引くとは思えない。だから上手く焚き付ける形になったと思うが、はたして…
「…出直させていただきます」
「もし、貴方が意思と理想を持ったならば僕に連絡をしてくれ。その時は貴方は僕を利用すればいい、その代わり僕も貴方を利用する」
「はい、お願いします」
彼女はこの部屋から去っていった。あとはなるようになってくれと祈るしか無い。
「僕の周りの女性はある二人を除いて皆あんなばかりだ」
「皆、僕を清廉で公正や人間だと思い込んでいるし、その役を押し付けようとしてくる」
「そういうイメージで売ってんだから文句言うのはお門違いでしょ」
「わかっているし、僕もそう望んでいる。しかしそれはそれとして、清廉潔白であり続けるのは存外つらいものだ」
「それは、わがままなんじゃないかな」
「わかっている。だから君と話すのが楽しいんだ。君はテルールという男がどんな奴だか知っている」
「んじゃ金払ってね。一応あたし高級娼婦だからさ」
「十分稼がせてやったろ」
「そうだけど、もっと貢いだらいいことしたげるよ」
「娼婦に恋するなんて碌なことにならない」
「別にあたしは貴方のとこに身請けしてもいいと考えてるけど?だって稼げそうだし」
この言葉の中に、貴方のことが好きでしたという意味は一割くらいか、あるいは含まれていない。なにせこの言葉の真意は僕のとこに身請けしたら、僕が肺結核で死んだ後の遺産を独り占めできるよねという意味だ。
「そうか、気が向いたら遺言書に僕の遺産を渡す旨を記しておこう」
彼女の考えは最悪だ。だが最悪である故の合理性、そこに知性という魅力を感じてしまう。
「僕が死ぬときまでに大金持ちになっていることを期待していろ」
「期待してるよ、頑張ってね」
「悪い女め。また今度会おう」
休憩場を後にして、今度は酒場モンターニュへ向かう。




