長期躁鬱患者
「シャルロ、バチスト様からの遺言がある」
バチストが倒れてから数日後のことだ。もしものことがあるかもしれないから遺言を頼みたいと言われていた。
「できるだけ原文のままで伝えるから聞いててくれ」
彼女は僕の手を握った。このようにすぐに他人に支え役を要求できるのは汚点ではなく美徳なんだろう。現に僕にはできない。
「まずは済まなかったシャルロ」
「君が処刑人とならざる終えなかったのは偏に私の不甲斐なさのせいだ」
「私にはアナリス以外を愛して、子を儲けるなどできなかった」
「不甲斐ない父で申し訳ない」
「そっか…」
「テルール、実は貴方にも遺言があるんだよ」
「教えてくれ」
「私は君をヴァレー・ド・ブローとしたことを後悔している」
「もし、君にやりたいことがあればヴァレー・ド・ブローを辞めてくれて構わないし、誰かと結婚したければアンサングの家を出ていって構わない」
「父様は貴方の将来を固定化したのかもしれないって憂いていた」
「そんな必要、ないんだけどな」
「だよね。父様は弱みを絶対に見せてくれないから…」
「ねぇ、泣いていい?」
「僕が泣いた時、君に許可を仰いだか?」
彼女は僕の胸に飛び込んで泣き始めた。サラサラとした彼女の髪を撫でるしか僕にはできない。
「父様が知ってやっとわかったんだ、私は貴方について知ったかをしてたんだ。親の葬儀でこんな事言ってるのも最低なんだよ、でもそれよりも貴方の気持ちを知った気になって危ないことしないでとか色々言って、テルールのお姉さんなんだからって自分に酔って、それで結局今更になってわかったんだ、親を失う痛みとか、孤独になる怖さとか。それで自分の情けなさが痛いから貴方に寄りかかってる。なにより今日は葬式なのに、父様の葬式なのに私は男に寄りかかって、弱い女なんだよ…
だから私に教えてよ、どうすればいいんだよ私は、どうやって貴方に謝ればいいの、わからないんだよ、突然テルールがわからなくなったんだよ、違う、わかってなかったんだ最初から。わかってる気になってたんだ、自分の中に虚像のテルールをつくってそれを観測して、ディテールも全然違うのに、それでテルールのことをわかった気になって、それで貴方に私のこと知らないでしょって咎めてさ、最悪なんだ」
彼女も僕と同じく、限界になると濁流のように感情が口から溢れるタイプである。だから僕には彼女が何を言いたいのかわかるし、どうして欲しいのかもわかる。
「夕飯が終わった後、時間とれるか?」
「うん、いいよ。なんだってするから」
「そうか、ありがとう。じゃあ夕飯にしようか」
食卓には既に味気ないパンとワインが用意されていた。
僕個人としてはこのパンは好きだ。しかしバチストの喪中に食うものじゃないと考えている。だって星教の考えに則って葬ったなら、こんな薄い食事を食べなくてはならないのはおかしい。
星教において死は神の御本に召されるという祝福なんだ。
だからこうやって薄い食事を食って死者の不幸を悼むなんておかしな話なんだ。
「ジャム、ないか?」
「…はい、今用意致しますテルール様」
本当に味気ないパンだ。バターすらもつけてないパン。パンの味のパンだ。カリッとしている訳でもなく、ふわっとしているわけでない。ワインもワインで薄すぎてもはや水だ。なんなら、薄すぎる葡萄の味がノイズになって水のほうが幾分も美味い。
美味しさを求めている訳じゃないから仕方のないことなんだが、昼も夜もこれじゃ何もする元気がでない。
「ありがとう、助かるよ」
裏手のイチゴ農園から摘ませていただいたイチゴを潰したジャム。それをパンにつけて食らう。
立場逆転だな、これじゃまるでジャムを美味しく食べる為にパンがあるようだ。
「私も欲しいな、ジャム」
彼女のパンにジャムを付ける。そして何故か彼女はそのジャムの赤さをずっと眺めていた。
「食わないのか?」
「食べるよ、うん」
腹六分目くらいでジャムが尽きたので、食事を終えて自分の部屋にワインを持ち帰った。
窓を開け、新鮮な空気を取り入れる。冷たい空気が肺に伝わり、僅かな痛みとなる。この痛みによって大雑把だが病竈の拡がりを把握できる。
だがこの行為も結局、心を休めるためのまやかしだ。だって根拠がないんだ、痛みと病竈の拡がりを繋げる根拠がない。
「テルール、今いい?お昼のさ…」
「入ってくれ」
薄布のネグリジェに下着が透けている。普段は見えないその細い腰つきや脇腹がヴェール越しに捉えられる。薄い布であるからこそ、普通に見るよりも特別な感じがする。
「シャルロ、隣に座ってくれ」
彼女は隣ではなく僕の上に対面になる形で座った。そしてルナと同じく、蠱惑的な声で囁くのだ。
「いいよ、テルールなら」
だが僕にはあのような行為をシャルロにできる自信がない。大切過ぎるんだ、僕にとって。とても僕の性欲のはけ口にできるとは思えないし、例え彼女が子を望んていても、彼女を傷付けてしまう恐怖の方が勝ってしまう。
「勘違いしてないか」
抱きしめながら横に倒れ、昼と同じ時のように頭を撫でた。
彼女のあの感情の濁流、あれの意味は"貴方が私のことを何もわかってくれてないって咎めたのに、肝心の私も貴方のことをわかってなかった"って意味だ。
「どうやったら君を慰められるかって考えたら、これしかなかった」
人間なんて五感による解釈でしか世界を見れないんだから、君の中のテルールもテルールなんだよなんて、哲学チックな正論を言っても何にもならないことはわかってるし、かと言って僕はそれで何も気にしてませんよ、なんて言ってしまったらそれは無関心の裏返しと取られかねない。
だからこうやって、抱き締めて撫でて上げる以外に彼女を慰める方法は思いつかなかった。
「うん、ありがとう、それとごめんね、私…」
「いいよ言わなくても。分かってるから」
「我儘言ってもいい?このまま寝たいかも」
「なら、そうするといい」
蝋燭の火が消え完全なる暗闇となった頃、僕も寝てしまおうと目を閉じだ。その時だった。
「ずっと一緒に居たいよ、私」
寝言なのか、あるいは起きていたのか、彼女は力無く僕の胸元で囁いた。
「もっと早めに言ってくれればよかったんだけどね」
朝方、僕は彼女より早く起きてワインを飲み干し、僅かな路銀と数日分の衣服だけを持って、アンサングの家を出た。
痴呆編はこれにて終わりです。物語を四分割したとき、その半分をここで消化しました。




