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腐敗 バッドコミュニケーション


 バチスト・ジョン・アンサングの死、僕を救ってくれた人、父を失った僕の父になってくれた人で、僕に新しい名前をくれた人。

 彼は僕にパンを与え、家を与え、服を与え、知識を与え、職を与えてくれた。

 僕にとって彼は預言者ア=ステラなんだ。

 だからこうして、バチストのこの細くなった身体から漂う甘ったるいような鼻に付く臭いを嗅ぐまで彼が死んだなんて心が確信はできなかった。

 頭では理解していた。だってバチストは人間だ。シャルロが言っていたように。

 でも心の中ではこう思っていた。いざとなったら神の奇跡によって蘇ってくれるかもしれないと。

 でも、そうはならなかった。

 やはり、神は居ないのだ。少なくとも、人を救済してくれるような神は居ない。理論としてではなく、感覚としてそれを理解した。


 「クロエだったか、居るんだろ」


 「はい、テルール様」


 いつの間にか背後に立っていた召使。彼女もいつもと違う顔をしている。シャルロと同じで僕を憐れむ目をしている。肺結核がバレたんだ。僕の命がそう長くない事がバレたんだ。


 「葬儀に関する書類を今すぐ用意してくれ」


 「ですが今はお休みを…」


 「黙れ、用意しろ」


 「畏まりました」


 僕は結局自分しか見れていない。だから苛々して低い声を荒げて他人を怖がらせる。その上で自分は何にもできないし何にもならないくせに他人には要求する。

 心底自分が嫌いになる。


 「ワラダ猟でヤブノウサギを捕まえた時、バチスト様はアナウサギ用の方法だぞって教えてくれましたよね」


 「そん時みたいに教えてくださいよ、僕の何が間違っていたのか」


 その身体に近づくほど、不愉快な甘ったるい臭いは強くなる。そしてその痩せこけた手を握った時、それがバチストではなく死体であるとはっきりと認識できた。

 それと同時にある恐怖が産まれた。

 死んだら僕もこうなるのか?

 こんな風に甘ったるい臭いを放って、身体が冷たくなるのか?

 それで何も見えなくなって…


 「いやだ…」


 自分の肺を抑え、確かな温度を確認する。

 暖かい、生きてる。

 いやだ、死にたくない。怖い、怖いんだ。こんな風に腐って行くのも嫌だ。僕の築いた全てが失われるのも嫌だ。身体もこんな細くなって冷たくなって、嫌だ嫌だ嫌だ。

 それで、シャルロのことも全てを忘れる?

 自分の人生に意味が無かったと知りながら全部を忘れていくのか?


 額から汗が噴き出し、口から吐瀉物と血が混ざった最悪の物が噴き出す。

 そしてもう一度吐いた。今度はゲロではなく、鮮やかなワインのような喀血を床に撒き散らした。


 「あ…あぁ…」


 痛い、肺が痛い。まるで千本の針が肺を突き刺して暴れているようだ。


 「そうだ、仕事、やらなきゃ…」


 口から滴る血を拭いて、書斎に向かう。

 石造りの十字架と樫の家具。

 樫の椅子に座り、樫の机の上の書類を広げる。

 葬儀屋の手配、各地の処刑人への招待状。

 でも、これを書いたら僅かに残ったバチストへの思いも死んだ人間への思いになってしまう。


 「黙れ!」


 右手は再び汚れて、鼻から血が垂れて書類が汚れる。

 バチストは死んだ。お前もいずれ死ぬ。意味なんてもうないだろ。だからせめて目の前の仕事に集中しろ。


 「歪んだ文字で…!」


 こんなものが書類になるか。こんなもの、鼻に詰めて止血用の紙にしてやる。


 「テルール、入っていい?」


 「シャルロか?今は一人にしてくれ」


 「わかった」


 彼女は僕を一瞥してから石造りの十字架に視線をやる。

 そんなにも僕が憐れに映るのか?


 「一人にしろって言っただろうが…」


 「今にも死にそうじゃん。手伝うよ私も」


 「駄目だ、君はやらせたくない。父親を無くしたんだ、心中穏やかじゃないだろう、休んでてくれ」


 「口からも鼻からも血出てる人に言われたくないよ」


 「僕はいいんだよ」


 やっと目が合った時、頬にジンとくる痛みが走った。


 「なんでいつも自分が辛くなる選択しかできないの」


 「じゃあどうすればよかったんだよ!教えてくれよ、僕は何の為に…」


 全部が嫌になって叫んだ。心の奥からの言葉を吐き出した。それでも最後の一言は言えなかった。何のために生きてるんだなんて、言えるわけがなかったんだ。


 「テルール…」

 

 再びあの胸の中の感触に沈む。

 あぁ、暖かい。どうせ死ぬのなら、今がいいな。ここならば死体となっても心が満たされたまま死ねるんだ。


 「誰も貴方に苦しんで欲しいとか、守って欲しいとか思ってないんだよ。白馬の王子様なんて、いらないんだから」


 「…君も僕を」


 否定するのか。

 彼女の言葉は僕の身体ではなく心を殺した。

 僕は彼女を守る為に生きてきたんだ。だって親が死んだあの日、全てを失った日に最後に残っていたのは君だったから。

 なのに君は僕の守りたいといい気持ちですら否定するのか?

 なら僕は誰の為に生きてきたんだ?誰の為にこんな辛い羽目に合ったんだ。

 誰のせいで、こんな苦しんでいるんだ。


 「…うぁ、あぁ…」


 「もう、疲れたでしょ。一旦寝なよ、そしたら全部、忘れられるかもしれないから」


 二度と目覚めたくはない、全てを忘れたい。だが皮肉にも肉体の方はまだ生きたいらしく、穏やかな睡眠に落ちていった。

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