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8月26日 ガルリア宮

 店を出てしばらくした後であっても、いまだに甘い香りは少し服と髪についたままだ。そしてそれは私のマグノリアの香水の中でも、あるいは彼の首筋から降ってくる仄かな石鹸の香りの中でもはっきりと香っている。


 「ラブロマンスでハッピーエンドの演劇があればいいんだが、昨今は悲恋ばかりだからな」


 「そうなの?」


 「うん。インテリが啓蒙啓蒙ばかり言ってるせいで演劇もそれに影響されちゃてね」


 「小難しい世界観と引き裂かれる男女みたいなのがテンプレになってんだ」


 ウィリアムの悲劇集みたいな感じなんだろうか。そういうのが流行るのは構わないが、それしかないのは嫌だな。胃もたれしちゃう。


 「バッドエンドは嫌い?」


 「いや、嫌いではないんだが…ただ原作を改変してまでビターエンドとかバッドエンドに持ってくのはどうかと思う」


 「それは少しわかるかも」


 「王様の馬耳を現実的に改変しようなんて聞いた時はびっくりしたし」


 真実を話す勇気と寛大な心を持つことが大事という教訓の為の話なんだけど、改変によってそれすらなくなったら話の意味がないしね。


 「あと現実的に見せれば利口に見えるだろうという透けた魂胆が気に入らないよね」


 「てか知らなかったな。君もそういう事言うんだ」


 「私が何も考えずに演劇とか小説読んでると思ってたの?」


 やがて私達は市場マルシェに入り、チョコレートの香りは野菜と果物の香りに変わる。


 「テルールこういう所好きだよね」


 市場マルシェとは生産者がテントを建てて農作物や雑貨を直接消費者に販売するイベントだ。年々の不作で規模こそ小さくはなったが、長い伝統の名も下にこうして今日も開かれている。


 「そうだね。できることなら僕もここで物を売ってみたいと思っている」


 「あ、あそこの林檎買おうぜ」


 彼よりも大きな体躯をした店主が構えた林檎屋。並んでいる林檎のほぼすべてが真っ赤であり、余程上質なものと見える。


 「おっ、ロベスピエール先生じゃねぇか」


 その男は快活な声でテルールの別の名を呼んだ。


 「えっと、ミゲルか。あんた林檎農家だったのか」


 「おう。家は爺さんのそのまた爺さんのまたまた爺さんの時から林檎農家だぜ」


 「どんだけ前だよ」


 「星書に出てくる林檎も家のやつ」


 えっとじゃあざっと計算して6000年くらい前から林檎農家ってことになるね。面白い冗談だ。


 「ちょっと待ってくれよ、先生」


 店主は尻だけが黄色い赤い林檎を選び、それを耳元で叩く。

 そして何度かそれを繰り返し、厳選した5つを袋の中に入れて彼に渡した。


 「やるよ」


 「いいのか?」


 「姉さんに笑われるのはごめんだぜ」


 「ありがたいな、こんなに。なんて言ったらいいのか」


 「礼はいらねぇよ。また今度買いに来てくれ」


 このセリフを聞いた時、この店主は結構なやり手だなと思った。だって彼の性格上彼の返事は、アンサングの家としてあるいは治癒魔法医師団の首魁として買うことを検討するよ、であるからだ。


 「あぁ、屋敷の家長として買うことを検討するよ」


 読んでいたのか、あるいは偶然なのか。それは分からないがこれで店主は結構な利益を出せる。だって屋敷も治癒魔法医師団も人多いしね。


 「そりゃありがてぇな!」


 やがてマルシェ(市場)を抜け、オペラ通りに辿り着く。

 人酔いしてしまいそうな人の多さにあの巨大なパリス・ガルリア宮。

 ヴァルサイエーズがラソレイユの王権の象徴だとしたら、オペラ通りはラソレイユの文化の象徴だろう。


 「すごいね、なんかすごいしか言えないよ」


 夏は川で遊んで冬は野ウサギを狩って、たまにパリスに行くとしてもその理由は処決だけ、そんな田舎娘にとってオペラ通りはもはや異世界である。


 「だろ?僕もたまに来るんだけどいつになっても慣れなくてね」


 しばらく歩いてガルリア宮を正面に捉える。

 大理石をふんだんに使用した美しい外壁、天辺にはオペラ通りを睥睨する黄金の像。

 バロック様式って言うんだっけか、私はあまり詳しくないからわからない。


 「オフィーリアと、その後が露悪者だね」


 ぶら下げられたポスターに公開時間が載っていた。我が愛オフィーリアが今からで、露悪者が16時から。


 「んじゃオフィーリアだけ見ようぜ」


 オフィーリアの方はハムレットが原作なんだっけか。露悪者の方はよくわからない。


 「露悪者は見ないの?」


 「聖審問会と作者同じ人だよ。ちょっと胃もたれするから辞めておこうかなって」


 聖審問会ってあれか、国王陛下とかテルールが読んでたやつ。私も一度読んだんだけど、作者の思想が異端すぎて共感できなかったんだよね。だって神様は乗り越えられる試練しか与えないんだもの。


 「どういう話なのさ」


 「預言者ア=ステラが現代に蘇って星教信者を救済したら星教とそれ以外とで世界を巻き込んだ戦争になるよねって話」


 「最終的にどうなるのさ」


 「難しいんだよな」


 「長い戦争の果に神様を信じることに疲れて、最終的に人を殺したらだめとか、人を食べちゃいけないとか、そういう共通認識、つまり道徳かな?それが新しい統一された宗教の神になるって感じかな」


 「うん聞いといてごめんだけどあんま好きじゃないかも。オフィーリアだけ見よっか」

 

 「だよなぁ」


 劇場の中はさながらヴァルサイエーズのようであり、吹き抜け構造の巨大な劇場はどうやって造ったんだか想像もできない。

 彼にそれを質問してみたら鉄を柱に使ってるんだとか。よくあんな扱い難いものを柱に使えたなと思った。


 「三階行こうぜ」


 観客席は一階から五階まであり、四階から五階の席は幕を内側として馬蹄型に広がっている。

 三階の若干右翼側の席に座り、幕引きを待つ。


 やがて幕が開けて演劇が始まる。

 我が愛オフィーリア、ハムレットを原作としてハムレットとオフィーリアの悲恋を主題として再構築した演目だ。


 「みんなみんな、役者ですよ。あなたにはそれがわかるんでしょう、ハムレット」


 正直に言うと、あんま面白くはなかった。隣でつまんなそうな顔をしてる彼を見ている方がまだ面白い。特にヒロインが亡くなった時の彼の顔、無理やり悲恋に持ってきたかっただけじゃんとでも言いたそうな顔、本当に面白くて、可愛いと思った。

 

 「その、どうだった?シャルロ」


 「んーなんか、なんかって感じ。あんま面白く無かったな」


 「だよな、悲恋をやりたかっただけに見える」


 劇場から出る頃、既に日は傾いており、有意義で無駄な時間を過ごしたのだなの

ガルニエ宮はナポレオン3世の時代なので100年くらい先っすね

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