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8月26日 昼過ぎ



 「昼食にしようか」


 彼が選んだのはパリス17区のワグラースというケーキ屋だった。確かミルフィーユが名物なんだっけか。


 「僕は君のこと何も知らないから、こんな場所しか選べなかった」


 なら事前に私の好きなものを聞いとけよと思ったが黙っておこう。なにせこういう本格的なのを彼がやるのは初めてなのだから。


 「別にいいよ。特にこだわりあるわけじゃないし」


 目を見て話そうとおもっても、見えるのは顎。私だって5フィート半はあるというのに、それでも頭の先が彼の肩と同じ高さだ。

 昔は並んでいたのに、と少し寂しい思いが胸にある。


 「そりゃよかった」


 店内の充満した甘い匂い。その正体は砂糖とミルクと、それと女の人の香水なんだろうな。

 私達は丁度空いていた角の席に座り、メニュー表を閲覧する。


 「ミルフィーユ、君がこの前食べてたやつってこれだっけか」


 メニュー表のチョコミルフィーユを指す人差し指。スラッとした指に血管が浮き出た甲。ゴツゴツとした頼りがいのある手だ。


 「そうそれだよ」


 別に私は手という部位に対して何か特別なもの感じている訳では無い。ただ、彼らしい手だなと思っている。


 「んじゃそれにしよう」


 思えば彼が私のコップについていた口紅のあとを見ていた時もこんな感覚だったんだろうか。


 「なら私はモンブランにしようかな」


 注文を店員に伝えた後、少しの沈黙が続いた。あの日、お互いの本心を晒してしまったせいで何から話せば分からなくなっていたのだ。


 「…シャルロ、僕は辞めることにしたんだ」


 「何を?」


 「他人に罰を求めようなど独り善がりだと知った」


 「だから辞めるよ」


 「神様にでも頼ってみようかなと考えている」


 それは建前だけの星教じゃなくて本格的に星教を信じるってことなのだろうか。


 「いいじゃん、まさか貴方が神様を信じるとは思わなかったし」


 もしそうならばいい心掛けだと思う。というか神様なんて居たとして良いものじゃないよなんて言ってる彼がおかしいのだ。


 「神を信じるか、あながちそうなのかもな僕は…」


 彼が何かを言いかけた時、注文の品が机に届けられる。

 チョコレートの甘くて濃厚な香り。エスプレッソのコーヒーに角砂糖を1つ。

 コーヒーカップを持ち上げてわかるアロマの香り。コーヒー豆の代わりにシコレの花の根を炒ったんだろう。

 暖かく程よく渋いエスプレッソが喉を通る。鼻を通ったフレバーが私の心を落ち着かせる。


 「美味いな」


 彼はミルフィーユを食べて、その味をリセットする為に水を飲む。

 正直彼の水への強いこだわりはよくわからない。

 だって味のない飲料なんて味の無いご飯と一緒だ。そんなつまらないものに執着する理由が分からない。


 「でしょ?」


 「あぁ、ビターな感じの甘さ控えめってのがいいな」


 目の前のモンブランを一口大に切り分けて食べる。


 「だと思った。だって味が強すぎるの嫌いでしょ」


 クリームペーストムース、多層的な味わいが舌を支配し、遅効性の甘さが味覚を襲う。


 「嫌い?そうだな、いや正確には下品かなって」


 二口目、味わいの波を浴びようとした時にふと気付く洋酒の香り。これ結構好きだ。


 「下品?」


 「うん。強い味で誤魔化して独特な味でしたって評価を得ようとするのは卑怯だ」


 「そこまで言う?」


 「これでも我慢したほうだよ」


 「我慢せずに言うと?」


 「馬鹿は舌から入って頭に昇る」


 こういう場合、本当に彼は容赦が無い。いい意味でも悪い意味でもはっきりした人なんだけど、自分が悪いと思ったものには容赦無く強い言葉で非難する。

 しかし好悪の念が言葉に出やすいってのも可愛い所なのかも、そう一考するのもまた面白い。


 「うんじゃあ貴方も馬鹿だね」


 「だって最近忙しいとかいって家で食べてなかったじゃん」


 「高等法院だか手術だか知らないけどさ」


 はたから見たからこの会話はどう映るんだろう。仕事一辺倒で家を顧みない夫を咎める妻に見えたりするんだろうか。


 「その件については済まないと思っている」


 「済まないじゃないよ、一週間のうち半分は家に帰るって約束して」


 「3日じゃ駄目か?」


 「駄目。半分」


 「わかったよ」


 一度こういう喧嘩はしてみたかった。

 だって素直じゃない上に臆病な私達は本音を言って傷つくことが嫌なので、誰かの言葉を借りたり婉曲な表現をして本音を隠してしまうのだから、こう言う素直な感情で平和に喧嘩するという事を経験したことが無かったのだ。


 「そろそろいくか」


 でもモンブランはあの時のミルフィーユより美味しいとは思わなかった。だって舌よりも心の方が楽しんでたから。


 


 

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