処刑人の女、シャルロ・アンリ・アンサング
こういう手術をした後は酷く疲れる。それは僕が命を預かるのに相応しい人間ではないからなのだろうな。
12時過ぎ、屋敷明かりは殆ど無くただ一人暗い庭を歩き、紋章の刻印された扉を開ける。
生き残った僅かな蝋燭が薄明かりとなりて辛うじて歩ける程度に大広間を照らした。
さながら幽霊屋敷だな。主としては憂慮するべきなんだろうが、僕は常に屋敷が照っていなければならないと思えるほど強欲ではない。
平民にも貴族にも向いていなかったのだろうな。
「あ、テルール様。」
蝋燭を持った使用人。僕が帰るまで待っててくれたのか。気が利くな。
「お風呂温めておいたので、できるだけ早めにお入りください。」
「ありがとう、いつも助かるよ。」
彼女は頬を赤らめて僕の顔を見つめた。
「さ、もう寝るといい。君のような人に負担はかけたくないからね。」
風呂に入らず寝るというのも手だが、それは本当に良くないな。パリスの臭い街に行った後に風呂に入らないなんてあり得ない。
僕は浴場に向かい、僅かに血のついた服を脱ぎ捨てる。全身鏡に自分のありのままの姿が写った。
やはり服を脱ぐという行為は特別な行為なのだ。一糸纏わぬ姿であるときにのみ人は社会から隔絶され、何もないフラットな人間となるのだから。
貧民の医師でもムッシュ・ド・ソレイユの裏方でもない、今の僕はただのテルールなのだ。
シャワーなんてものはないので、浴槽のお湯をバケツで掬って身体にぶっかける。熱いお湯がパリスの悪い空気を洗い落としてゆく。
温かい、やはりロベスピエールという男は余程冷たい男なのだ。
ブルゴーニュ石鹸をタオルで泡立てて汎ゆる汚れを落とす。入念にやらないと掠り傷から菌が侵入してあのマドモアゼルの二の舞になりかねない。
何より僕は血も汗も嫌いだ。人から噴出されるあらゆるものが嫌いなんだ。
だから本当は医者になどなりたくなかった。
「入るよ、テルール。」
浴場の扉が開けられ、タオル1枚の彼女が入ってくる。普段の長いストレートヘアーを短く纏めた姿に愛々しく感じる。だがこの恍惚は湯気のせいだろう。
「貴女の服、焼肉の臭い上に血がついてたよ。」
僕は目を逸らして壁を向く。
こういうことはたまにある。お湯だって沸かすのに結構なお金が必要なので、裸を見られたくないとは言ってられないのだ。
「血の付き方からして切断術、臭いは焼灼でついたもの。」
「壊疽性筋膜炎か糖尿病、バージャー病ね。」
浴槽に入り、背中と背中がぴったりくっついた。
「壊疽性筋膜炎。患者は15歳の平民、職業はパン屋だった。」
「どう対応したの?」
「睡眠魔法とモルヒネ注射で麻酔をした後、脚を切断。切断面の動脈を結紮した後に焼灼。その後は酒で消毒をして軟膏を塗ってから包帯を巻いた。」
何を言われるかはわかってる。大方モルヒネに関する事だろう。なにせモルヒネはソレイユでは生産はおろか発明もされていない。
「モルヒネってあの噂のモルヒネ?どうやって手に入れたのさ。」
「神聖帝国の研究者から個人的に取り寄せた。」
「で、その金は誰から?」
僕が沈黙をすると彼女は大きく溜め息を吐いた。
お互いの呼吸音だけが聞こえている。
「テルール、貴方が思ってるほど貴方の頭は良くないから。」
それは痛いほどわかってる。しかしそれが何しない理由になるものか。
「僕の頭の中で把握できる程の事態にしかしないつもりだ。」
「世界は掌じゃなくて背中で支えるものだよ。」
全ての人がアトラスとなって世界を支える。それが彼女に見えている世界なんだろう。
だが生真面目で優しい彼女は知らない。背中に支えながらにして世界というものは鏡と水面の反射を使って弄くり回せるものということを。
「後ろ手にして手探りに弄くり回すことくらい僕にもできる。」
「アトラスは黄金の林檎欲しさに企てをして石にされたんだよ。」
「シャルロ、詩的に言い回して論点をすり替えることを会話とは言わないだろう。」
「論点をすり替える?一貫して貴方は馬鹿だから火遊びなんてやめてねって言ってるんだよ。」
「…勝てる気がしないな。」
僕はよっぽどの話題でない限り、同世代の子に論争で負けることはなかった。
なにせ27年間働きたくないという言い訳を正当化する為に脳内討論をしていた"記憶"があるから。
でも昔から彼女には勝てなかった。なにせ僕が詩的にしたり難解にしたりして霞の中に隠した本質をズケズケと見つけてくるものだから、直ぐに矛盾を発見されてしまって負けてしまう。
「テルールの身長が7フィート越えても私がお姉さんって事実は変わらないからね。」
敗残兵は降伏してただ去るのみ。そろそろ逆上せると言い訳をして風呂を出た。
湯気を纏う身体をタオルで拭く。
頭にタオルを巻いて、バスローブを着た。
「なんて顔してやがる。」
鏡に映る僕は大分窶れた顔をしている。手術のせいか、あるいは日々の疲れか。もしくは彼女に論争で負けたからなのか?だっせぇな。今度纏った休みでも取らねぇとぶっ壊れてしまいそうだ。いや、今度じゃなくて明日でもいいな。
身体を拭いた後、自分の部屋、あの3階の一室に向かう。
流石に5年も経てば部屋は墨の僕色に染まる。と思っていたが僕は僕が思っているよりもミニマリストだったようで、腰をやった使用人が去っていったときと同じぬく、灯りと机と椅子とベッド、それと僅かな収納しかこの部屋にはない。でもそれで良いのだ。この部屋は僕にとってただ寝るだけの部屋である。
僕はベッドに見を投げ出し、泥のように眠った。
翌日、僕は9時の陽の光に起きる。
眠い目を擦り、頭が再起動する。
あぁ、夢は見たさ。バチストは寝たきりにならず、シャルロが処刑人ではなくお針子仕事をしている夢。
まるで僕の理想の世界。だがそこに僕は居ない。
別に僕に自己嫌悪の感情があるわけでは無い。
ただ、僕がその理想の世界でどう生きているのか想像出来なかったんだと思う。
僕は全てを終わらせたあと、何がしたいんだ?
…考えても仕方がないな。今は昨日僕が何をしようとしていたか、今日なにをするかを思い出そう。
そうだ、今日は休みにしようと思ってたんだ。
だけど休みってもすることが思いつかないな。コルテ島の言葉の勉強でもしようか?いや、せっかくの久々の休みに勉強を?
そうだ、ウサギ狩猟でもしようか。シャルロを連れて、久々に。




