最後にありがとう
後日、クロエは買い出しに行った。つまりこの一週間はシャルロと二人っきりってことだ。
「今日、あの時の約束を果たす、必ず」
ざらついたキャンバスを眺めてそう決意した。
そして決意して6日経った。
「今日、今日やる」
下書きで薄く黒い線の描かれたキャンバスを眺めてそう決意した。
固く決意をして、2日が経った。
「え、何してるんですか?」
書斎でタレイラーからの手紙を読んでいる俺にクロエはそう質問する。
「タレイラーめ、俺への当て付けか?」
秩序の為の極めて極秘なかつ大規模な国家的プロジェクト、白色若鶏計画。これはあれだな、十中八九あの爆弾の開発計画だ。俺という邪魔者がいなくなったから強行したんだろうな。まぁ、もう関係のないことだけど。
「で何してたんですか?この一週間何してたんです?」
「その、絵描いたりしたり、勉強したり、色々してたよ」
「いつ渡すんです?約束なんじゃないんですか?」
「分かってるんだ、分かってるんだけど」
彼女はいつものようにため息をついて頭を抱える。
「女々しい。前にも言いましたけどこんな普通のこともできないなら独り身で死んでくださいねって話じゃないですか。正直見損ないましたよ、テルール様。まったく、私はこんな人を…」
「し、仕方ないだろ…俺は…」
妙な違和感がして自分の胸を抑える。今までにない痛みに椅子から転げ落ちて、床に四つん這いになる。胸を抑える手の爪が割れる。
「ぐろえ、水を、みずっ」
「す、直ぐにお持ち致します」
一人になれたところで大量の血を吐く。口から吐いた血は生暖かく、床に倒れた俺の頬を温める。
「あぁ、あぁ…」
貧血で力が入らない、俺は血に塗れて眠った。そして後日、いつものベットで俺は目覚めた。
「テルール、起きた?」
隣にはシャルロが座っており、彼女は俺の額を触って熱を確認する。
「熱は無いね、でも傷が開くから明日はしばらく絶対安静」
「絵を描くのは?」
「書斎で描くくらいならいいよ」
「分かったよ」
時計を見ると針は十三を指しており、俺の腹の虫も同じ時間を指していた。
「なんか食べたいな」
「そう、軽いもの作ってくるよ」
彼女はそう言って部屋から出ていく。この静かな寝室には死にかけな臆病者一名が残った。布団を頭まで被り、ベットの中で丸くなる。膝を抱えて、まるでアルマジロのような体制だ。
「情けない…」
俺は童貞では無いし女だってたくさん抱いてきた。だから女性を口説くのは慣れている筈だ。でもシャルロに対してはそれが出来ないでいる。それはなんでなんだろう。
俺が強さを失ったからなんだろうか、それともシャルロが他の女性とは違うからなんだろうか。
そうか、わかった。シャルロやクロエはロベスピエールではなくテルールを愛してくれた。だから二人が住むこのコテージを、俺に残った最後を場所を俺自身が傷つけてしまいたくないんだ。だからそんな可能性がないと知っていても尻込みをしてしまう。
でもこんなんで俺はいいのか、シャルロとの約束を果たせなくて、それで終わっていいんだろうか。だってこれで終わったら、俺はシャルロに対して何も残してやれない。サン=ベルナール・ロベスピエールは処刑人という身分からの解放を彼女に与えたのに、テルール自身は何も彼女に与えられない。
それで終わっていいんだろうか。このまま病で死んでそれで終わりでいいのか。
「嫌だ…」
涙を一つ流した時、寝室のドアの開く音がした。
「…何してんのさ」
彼女は部屋に入るやいなや布団の中でアルマジロになっている俺に対してそう言った。無理もない、俺だってそう言う。
「柔軟、かな」
体勢を立て直してベッドで胡座を組む。彼女はフレンチトーストを机の上に置いたので、俺はそれを手に取って食べる。噛むと同時に油と染みついた卵、そして隠し味の蜂蜜が溢れ出してほのかな甘味を感じさせる。
「貴方言うほど身体硬くはないでしょ」
「そうかな、そうかも。で、そんなことはどうでも良くてさ。シャルロ、この後時間作れるか?」
俺がそう言うと彼女は疑問を浮かべた顔をしていた。
「いいけど、どうしたの?」
「大事な話なんだ」
皮肉にも、最後に俺の背中を押してくれたのは差し迫る死への恐怖だった。
夕方、俺はシャルロを浜辺に呼び出した。
「いつ見ても綺麗だな、ここは」
暁色の夕日は緑色の海と混じり薄いピンク色のような色を作り出す。彼女の白い肌はその薄ピンクの中に溶けて消えてしまいそうだった。
「なぁ、シャルロ。俺が君にした約束を覚えてるか?ヴァルサイエーズから上がる花火を見ていた日の約束」
彼女は一度きょとんとしてからハッとする。気付いたんだろう、あの日の約束が今形になろうとしていることに。
「うん、全部が終わったら結婚してマルセイエーズの郊外あたり引っ越そうだっけか」
花火が打ち上がり空を埋め尽くしてオーギュスト16世が弑虐されたあの日のあの瞬間の約束。最期に俺が彼女に与えられるものとしてこれよりも相応しいものはない筈だ。
「順序こそ逆になってしまったけれど、俺はその約束を果たしたい」
跪き、あの木箱を取り出して彼女に見せる。そしてそれを開いてこう言った。
「臆病者で後先短い、こんな俺でもよければ結婚してくれ」
夕日が半分ほど沈んで西側の夜が顔を出す。
「俺は、純粋に君を愛している」
彼女は泣いている。地に落ちた一粒の涙は砂に溶けて消えていった。
「最初からそれを言いなよ、馬鹿」
彼女は指を受け取って、夕日に向かってそれをその細い指を掲げた。




