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ぼく


 海鳥の鳴き声に釣られて僕は目を覚ます。井戸から汲んでもらった冷たい水で喉を潤して、青緑と暁の海岸を眺める。潮の匂いはとても心落ち着くもので、自然と心をセンチメンタルにさせる。しかしこんなのをずっと浴びていたら錆びてしまうぞ。まるでエクレアを詰められて窒息するような気分だ。だから今すぐこんな場所とんずらしてしまいたいが、決行は夜と決めた。だからそうだな、せっかく頼んだのだから絵を描こうか。

 2階の寝室から降りて一階にある書斎に入る。そこには一昨日頼んだ画材が積まれてあった。

 積荷の山を確認する。筆やイーゼル、キャンバスに絵の具、そして溶き油にヘラ、必要なものは一式揃っている。こりゃいいな。


 「丁度いいや、コップかなんかに砂を入れてきてくれ」


 監視の使用人にそう命じて再び山の確認に移る。筆の材質や絵の具の原材料に興味があったのだ。

 しばらくして使用人は戻ってくる。そして彼は砂の入った古びたコップを差し出した。


 「これで何をするんですか?」


 「まぁ、見ればわかるさ」


 椀の中に砂と糊をよく混ぜる。ケーキのスポンジを作る時のように混ぜる。そして混ぜたそれをヘラを使ってキャンバスに万遍なく塗った。


 「それは何をなさっているんです?」


 「砂の粒々でキャンバスに凹凸を作って立体感を演出してる」


 正直言ってこの辺の情報はあまり自信がない。だって昔聞いた話を手探りで思い出しながら再現しているだけなのだから。


 「なるほど、しかし意外ですね。私はロベスピエール氏が芸術活動自体にある種の嫌悪を抱いていると考えていました」


 「パリス・ロイヤル宮殿やソレイユ宮殿の改装の件を加味すれば僕がその様な男に見えるのも無理はないかもしれない。しかし僕はその様な芸術活動に嫌悪を抱いているわけじゃないんだ。むしろその様な活動こそ理性と文明と平和の最たる証拠だと考えている。でもこれらを…いや違うな」


 「僕は絵を見るのも音楽を聴くのも好きだよ、本とか演劇もそうだ。純粋に楽しいからね」


 塗り終わったが、少し量が多いかもしれない。これじゃ下書きをこっちに移した時に線が酷くぐちゃぐちゃになってしまう。それによく見るときめ細かさ過ぎるのかも。だからこう、専用の砂とかそれこそ卵の殻とかを潰して調節していくとかしたほうが良かったかもしれない。


 「キャンバスが乾くまで浜辺でスケッチをしてくる。夕飯までには帰るよ」


 「あぁ、そうだ。夕飯なんだけどさ、ロールキャベツがいいな、とびきり熱々のやつ。頼んだよ」


 鉛筆とナイフとスケッチブックを持って浜辺に向かう。


 「眩しいな」


 昼の日差しが海面に反射して目に入る。細やかな砂の中に混じった貝殻を踏んづける。渚を横目に走る蟹を捉えて、僕はそれを追いかける。しかし蟹は自分を追いかけてくる巨大生物に慄き穴を掘って逃げてしまった。


 「ねぇ待ってよ」


 手で砂をかき分けて蟹を追いかける。前腕がまるまる入るほどの穴ができて、僕は蟹のハサミを掴んだ。しかし蟹は自切を選択し、僕の手に残ったのは爪に挟まった砂と蟹のハサミだけである。


 「可哀想だ、ははっ」


 蟹は甲羅に似せて穴を掘ると言うが、僕はそうあれなかったな。だから僕は月夜の蟹なんだ。趣味もなければ楽しみも作れなかった。ただ使命感とある種の強迫観念に駆られてここまできてしまった。そう思えばそうだな、僕は11歳のままだ。あの時から僕の思考は止まったままだ。いくら女を抱いて、いくら人を貶めて、そして自分の夢を諦めて、結局空虚なままだ。

 僕には何も残らなかった。空っぽで無色なんだ。水すら入ってない、ただのガラスのコップだったんだ。


 「いいな、綺麗だ」


 水平線に身惚れて描きたいものが決まった。鉛筆をナイフで削る。木屑を浜辺に落とし、黒鉛でナイフが黒くなる。


 「こう、なのかな」


 円を使って薄くアタリを描く。シャッシャッと引っ掻く様に描いて行く。


 「あまり上手くないな」


 夕刻になって出来上がった下書きは模写の癖に大きくずれていて線もガタガタ、とても上手いと言える代物じゃなかった。


 「ずっと見てたんだね」


 帰ろうと思って後ろを見た時、そこには監視の使用人が居た。しかし逆光のせいであの使用人の顔はわからない。


 「それが仕事ですから」


 「まるで父親みたいだ」


 「父親はお嫌いですか?」


 「一人目の父親は嫌いだ。家族を、僕を省みてくれなかった。僕も悪い所あったかもしれないけど、僕を子供として見てくれなかったんだ」


 僕は彼に素直に子供として見られたかった。つまり言葉を選ばず言うのなら、甘えたかったんだ。でも僕は大人の様な口ぶりをする甘えた子供だったから、父さんに期待をさせ過ぎてしまった。それで父さんは僕を甘やかす必要なんてないと認識して、僕を一人間と、同志と見てしまったんだ。


 「でも二人の父親は、バチスト様は大好きだ。彼は僕をきちんと子供として見てくれたんだ、自分の子供みたいにね。娘だっているのにさ」


 バチスト様は僕に色々教えてくれたんだ。医学書と解剖書を子供に読み聞かせするみたいに読んでくれた。僕のこのしょうもない甘えたがりな弱い本心をきちんと満たしてくれたんだ。


 「私が思うに貴方は一人目の父親を嫌っていないように思えます。嫌いならば、子供として見て欲しかったなんて言えませんからね」


 「そうか、そうだな。でも当然だよ。子は親を完全には嫌いになれない。だって本能的に似てしまうからね、親を否定する事は自分の一部を否定することになってしまう」


 実際僕だってそうだ。父親が僕や母を省みず、身を危険に晒してその果てに処刑されたように、僕も僕を愛してくれた人を省みることなく身を危険に晒し処刑台に登った。こんなの死んだか死んでないかの差に過ぎない。


 「さ、こんな話辞めよう。夕飯がそろそろできる頃だ」

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