EPISODE:75 ヒーロー
花音が気絶しているのは不幸中の幸いだった。
意識があれば大量出血を誘発していただろう。
朔夜は傷口に手をかざすと、祝詞を唱え始めた。
骨折も大きな傷口も治すことは叶わないが、止血と穢れを払うことは出来そうだ。
ただ、事態は一刻を争う。
病院へ、手術と治療が必要だった。
「磯城!俺に力を貸せ」
少年の力強い呼び掛けに磯城が応じた。
「月詠から力を貰っただろ、お前」
この場に居た全員が身震いをした。
月読命を呼び捨てになど、畏れを知らぬ人の子にしか出来ない芸当だった。
「早く!」
夜刀が三叉槍を杖に、立ち上がろうとしていた。
「分かった」
磯城はそう言うと、自らの身体を楔に変え少年の手に治まった。
「影に!!」
楔の姿で短く言った。
少年はすぐさま夕陽に伸びる夜刀の影に向かって、楔を打ち込んだ。
影の中心に刺さった楔は、夜刀の動きを止めた。
それも日没までの猶予だ。
影が消えてしまえば夜刀は自由だ。
-祝詞を止めて花音と夜刀を殺す-
-夜刀と磯城を置いて花音を運ぶ-
前者の選択が正解だろう
後者は悪手だ。
動き出した夜刀の手に掛かって、磯城が死ぬ。
更に、花音も搬送が間に合わずに死ぬ。
この簡単な引き算。
永い時間の旅路が無ければ、朔夜は即答しただろう。
花音を捨て置き、夜刀の首を刎ねて封印の儀を行う。
そうするだけだ。
だが——
祝詞が止むことはなかった。
朔夜は息継ぎすら忘れたように、祝詞を唱え続けた。
陽が翳り、影が細く棚引く雲のようになっても、誰も朔夜を止めなかった。
そこに場違いな、甲高いエンジン音が響いた。
遅れて土埃が風に流れてきた。
まだ止まりきる前の後部座席が開いた。
「朔夜ちゃん!花音ちゃん!」
文乃が名を叫びながら飛び出した。
そして次に花音の名を呼んだ時は、ほぼ悲鳴だった。
次に助手席から老女が降り、ゆっくりと三人に近付くと「朔夜さん、久しいわね」と目を細めた。
「ルリ子さん、ごきげんよう」
朔夜の祝詞が止まった。
「ごきげんよう。さぁ、その子を運びましょう。文乃さんは自転車を下ろしてくださる?」
その言葉に、文乃は車に向かって駆けた。
朔夜はそっと花音を抱きかかえると、ゆっくりと揺らさないように歩いた。
後部座席をベッドのように倒した車内に、花音を横たえた。
車内に鉄錆の臭いが漂った。
陽子はシートが血で汚れることなど気にする様子もなかった。
花音の手首に指を当て暫く黙ると、傷口の確認を始めた。
そしてスマホを取り出すと「16歳女性、外傷性ショック、開放骨折、30分以内、意識無し、脈拍、血圧共に低下」そう一方的に言うと「今から搬送する」と言って通話を切った。
「じゃぁ、ルリ子婆ちゃんをお願いねぇ」
そう言うと行ってしまった。
唖然とする皆に「陽子は外科の勤務医なのよ」とルリ子は言った。
「それで、あの子はどうしてこうなったんだい?」
ルリ子は曲がった腰をさすりながら一同を見回した。




