EPISODE:58 回想
あのパンケーキは、また所望しても良いな。
御池で穢れを漱ぎながら、昼間のことを考えていた。
天の高い場所で、望月が朧に翳る。
三段重ねのパンケーキの上から、たっぷりと乗せられた生クリーム。
その上から注がれるように掛けられたメープルシロップが、富士の峰を流れる雪解けの水のようだった。
頂きには半分に切られた苺で輪を描き並べ、その中心にチョコレートソースが掛かったバナナ。
いっそ、あの店の主を我が元へ召そうか。
不意に水面が小さく揺れた。
「朔夜か」
背中の波紋の主に問い掛けた。
「はい、朔夜でございます。月読命」
「構わぬ、来るがよい」
「はい。お許しを頂きお傍に参ります」
さざ波がたった。
「あの娘、救ってやるがいい」
「禊の中にあられながら、御心を割いていただきありがとうございます」
「礼には及ばぬ」
妾はパンケーキのことを気取られぬよう、短く答えた。
「ですが畏れながら申し上げます、月読命」
朔夜はそう言うと言葉を続けた。
「夜刀の加護を得た以上は、滅して然るべきかと......」
「あやつは犬神人じゃ」
朔夜の身体がピクりと動いた。
月明かりに白く透ける肌が、僅かに紅潮した。
「血が遠すぎて、本人にも自覚は無い」
「夜刀は知っていたのでしょうか?」
朔夜の言葉に妾は首を振った。
「それは分からぬ。ただ...妖魔の力との親和性、何かを感じていたかもしれぬな」
「素戔嗚尊と櫛名田比売は承知しているのでしょうか」
「おそらく預かり知らぬことであろう」
妾がそう答えると、朔夜の表情が揺らいだ。
安堵したような、悲しげな——
どこか遠くに心を馳せたような表情だった。
「犬神人の末裔は......」
細い肩を自ら抱いて、口を噤んだ。
御池の雫がその肌を伝い落ちた。
小さな波紋が幾つか広がった。
朔夜が何を言おうとしたのか。
それは妾にも分からなかった。
すっかり黙り込んだ朔夜を、背中から抱いた。
妾の腕の雫が朔夜の胸を伝い、妾の胸の雫が朔夜の背中を濡らした。
「月読命」
振り向き口を開いた唇に、指を当てた。
「直に終わる。そなたの孤独な旅も直に——」
耳元で囁いた妾の言葉に、顔を綻ばせた。
満開の桜を見るようだった。
朧に月を覆った雲が晴れた。
御池に咲いた花を望月が照らした。




