EPISODE:36 覚悟
俺は校内に向かった。
人混みの中での捜索なら、きっと朔夜の方が適しているはずだ。
それにしても同時に駆け出したのだが、朔夜の背中は既にはるか遠くにあった。
「どういう身体能力してんだ?」
俺はかねてからの疑問を口にしていた。
正面玄関は無施錠だった。
生徒のトイレ利用もあるからそれも当然だ。
俺は少し重みのある玄関ドアを開いて中へ入った。
——下駄箱!
俺はまず桜井の上履きを確かめようと、下駄箱に向かった。
「桜井...桜井...」
指先を上下左右に動かしながらネームプレートを探す。
「あった!!」
手を伸ばしたその時だった。
獣のような唸り声が聞こえた。
指先が——
いや、全身の動きが止まった。
左右、視野の届く範囲ではその存在を知覚出来なかった。
耳に神経を集中させる。
カチ、カチ......
爪の音だ。
敵は廊下には居ない。
足元が硬い。
玄関に居るはずだ。
俺はリノリウムの廊下に上がると、ゆっくりと下がった。
外履きだが緊急事態だ。
下駄箱で死角が多い玄関は不利だ。
たちこめる獣臭が鼻をついた。
武器もない、バイクもない、朔夜も居ない。
事態は圧倒的に不利だ。
そして何より敵の、妖魔の姿をまだ見ていなかった。
「あるのは地の利のみか」
そう呟いた俺の視界に鼻先が見えた。
想像よりも高い位置にあった。
正直、キツネやオオカミ程度を想像していた。
多分、クマくらいの大きさがある。
「マズイ」
俺は見つかる前に駆け出した。
その時、足に力が入りすぎてキュッと鳴ってしまった。
ヤバいヤバいヤバい!!
妖魔は咆哮をあげると俺を猛追した。
いや、しようとした。
だが、床を引っ掻くだけで上手く追えないようだ。
(ありがとうアシックス)
俺は今日の外履きに感謝しつつダッシュした。
桜井さんの気配が追えない。
どうしたのだろう。
磯城様だけは魂の色で見間違えることはない。
他の人間は、大まかな気の種類で探すことが出来た。
けれども、桜井さんが見つからない。
この場合、幾つかの事態が想像できた。
ひとつは、もう帰宅していて近くに居ない。
ひとつは、意識を失くした状態にある。
ひとつは、最悪の事態だ。
そうね、桜井さんを追えないのなら岡田(仮)ね。
私は、先日私の手に触れた女の気を思い浮かべていた。
とても無邪気な、混じり気のない純粋な気だった。
野生動物や赤ん坊によく見られる気だ。
——見つけた!
無邪気な悪意。
ううん。これを悪意と言ってしまえば、捕食者全ての行為は悪だ。
背中にひと雫、氷の露を落とされたような悪寒。
「妖魔なら斬り捨てるだけなのに......」
苛立ちが呟きに変わった。
無邪気な悪意の隙間から、消え入りそうな細くささやかな気を感じた。
桜井さんも一緒だ、まだ間に合う。
でもきっと猶予は無いだろう。
それは彼女の命そのものか、尊厳の死か。
私は地面を蹴るように駆けた。
人混みは私にとって障害にはならなかった。
不規則な人の動きも神の視点からは取るに足らないスラロームだ。
人間はこれをラプラスの悪魔と言うが、単純に神の目だ。
そんな私の足が止まった。
(こんな時に!?)
校舎から妖魔の気配を感じた。
磯城様も近くに居る。
(行かなくちゃ)
私にとって磯城様が全てだ。
その為だけに、気の遠くなるほどの月日を捧げてきた。
たとえ人類が滅んだとしても、磯城様さえ生きていればそれでいい。
クラスメイトなど取るに足らない。
(磯城様はきっと喜ばないでしょうね)
神と人の倫理は同じではない。
だから夜刀も夜刀の倫理で動いた。
人の命に価値を見出さないのは神の共通の認識だ。
「指揮様、磯城様を守ってくださいまし」
朔夜は校舎を見遣ってそう言うとクラスメイトの元へ再び駆け出した。
湖のほとりで、磯城様の価値観に触れたあの日から——
私の魂が永遠の真珠である為に、私は磯城様の心に添うと決めた。




