EPISODE:0 プロローグ
「朔夜、今日はこんなに魚が穫れたよ」
「まぁ、磯城様。病床のお義母さまの滋養にも良いでしょうね」
朔夜は磯城の腰にある魚篭を見て嬉しそうに言った。
大漁よりも、磯城が嬉しそうなのが朔夜は何よりも嬉しかった。
神代の昔、神と人はまだ遠くなかった。
神が人を娶り、人が神に嫁ぐことも珍しくはない時代。
朔夜と磯城も、そんな二人だった。
神々すら魅了した美貌の女神、朔夜。
八百万の神々がその手を求めて争う中、朔夜が心を寄せたのは、無力な人間であった。
その睦まじい姿に神々は和み、祝福を与えた。
ただひとりの神を除いては……
「朔夜様、これ磯城のおふくろさんに食わしてやってな」
村の猟師が猪の干し肉を差し出して言った。
「まぁ、エド様。ありがとうございます。でも私のことは朔夜で良いですわ」
「いやいや、とんでもねぇ!」
エドは顔の前で大きく手を振った。
「それは磯城の妻として、この村に馴染めてないようで寂しいですわ」
「そうかい?——朔夜……ちゃん、おふくろさんによろしくな」
そう言ったエドに朔夜は嬉しそうに笑って「はい」と言った。
「朔夜ねぇちゃんだ!!」
その声に次々と童が集まり付いて歩いた。
女衆が「ごめんね朔夜ちゃん。しつこかったら引っぱたいてやって」と笑ったり、採れた塩を差し入れたりした。
「今度、甘露煮をお持ちしますね」
朔夜は女衆にそう言って別れた。
元々はお義母さまの為の生命力を込めた甘露だった。
磯城の助言もあって配り始めると、評判の味となった。
干し肉と塩、拾い集めた木の実。
両腕に抱えて家に戻ると、床でお義母さまが身体を起こしていた。
「お義母さま、具合はよろしいのですか」
「今日は身体が軽い気がするよ」
少しだけ咳き込みながらそう言った。
「背中を拭きましょうね」
朔夜は陽の光で温めておいたぬるま湯を、外から運び入れた。
手ぬぐいを軽く搾ると、優しく背中に当てた。
「あぁ、気持ちいいね」
お義母さまの言葉に嬉しくなる。
「こんな貧しい家にこんなに素敵なお嫁さんが来てくれた。神様に感謝だね」
そう言ったあと「朔夜ちゃんも神様だったね」と言うものだから二人で笑ってしまった。
数多の神が朔夜の歓心を買おうと躍起になった。
美しくも愛らしい朔夜に、誰しもが魅了されていた。
きっと驕っていたのだと、過去を振り返ると朔夜自身が恥ずかしくなる。
そんな煩わしい日々に、朔夜は人里へ降りて水面を眺めていた。
凪の湖水は、朔夜の美しい顔を模して見詰め返していた。
不意に足元の石が崩れた。
波紋が水面の朔夜を醜く変えた。
瞼が下がり、鼻が崩れ輪郭が歪む。
思わず見入り、そして震えた。
そして気づいた。
容姿の美しさを誰よりも気にしていたのが、自分自身だったことを。
その時だった。
「どんな別嬪さんも、いつかはシワだらけだよ」
そう言って現れた男は隣に腰を下ろすと竿を出した。
「では醜くなれば見向きもされないのですか?」
「変わらないものもあると思うな」
男は竿を引くと、取られた餌を付け替えて再び振り入れた。
「それは何でしょうか?」
「魂の色は永久の真珠です」
その言葉に朔夜は震えた。
見える世界が鮮やかに色を付けた。
「朔夜と申します。そのお言葉、私の魂の色に刻みましょう」
「磯城だ。柄にもなく気取ってしまったよ」
その照れた笑顔が朔夜の心にいつまでも焼き付いて離れなかった。
あの日、磯城様以外に娶られる未来は想像すら出来ないと思った。
美しい月が星々を従え、夜の玉座に登った。
銀色の光が、寄り添うふたつの影を作る。
「月が綺麗だよ、朔夜」
「そうですね、磯城様」
見上げていた朔夜の肩が僅かに震えた。
磯城は自分の上掛けを、朔夜の肩にそっと掛けた。
そして温もりを分け与えるように、後ろから優しく抱いた。
銀色の光が比翼の影を落とした。




