EPISODE:12 好奇心と猫と
ある日の夕暮れ。
浅草の下宿を出た青年の後を追う。
白いシャツに袴姿。
カンカン帽が似合っていた。
下駄のカランコロンという音が耳に心地いい。
少し歩いて神谷バーの前で足を止めた。
所在無さげにしばらく立っていると、息を切らせた女性が駆け寄ってきた。
またある日の昼下がり、万世橋駅を降りて人混みに紛れてしまう。
それでもこの程度の位置であれば、朔夜には彼の場所は分かった。
改札を出て銅像を横目に路面電車のレールを横断する。
朔夜は距離をとって気取られないように歩いた。
(人混みで襲う事はもう無いと思うけど......)
万が一の時には届く間合いを保つ。
(人間の文明がここまで進めばさすがに)
「私を苦しめたいだけだ」
朔夜の独り言は、人の群れに沈んでいった。
生ぬるい風が吹いていた。
瓦斯灯に明かりが灯った。
上野の恩賜公園を、少しだけご機嫌に歩く青年。
ほろ酔いのようだ。
もうすぐ終わるだろう桜の下、朔夜はその様子を見詰めていた。
「もう告白しなさいよ」
突然声を掛けられた。
驚いて振り向くとルリ子が居た。
悪意に対しては結界も式神も巡らせていた。
想定外だ。
無邪気な彼女は索敵の対象に無かった。
「ルリ子さん、どうして?」
「今日はお花見で来ていたの。帰り支度をしていたら朔夜さんの健気な背中が見えたのよ」
「好奇心は猫を殺すって忠告したじゃない」
声を潜めた朔夜が叱るように言った。
「でも満足が蘇らせた——でしょ」
ルリ子は過日の朔夜の言葉を、得意気に翻訳して言ってみせた。
そして次の瞬間には、予想もしない行動に出た。
「ほら」
朔夜の背中を押した。
不意をつかれた朔夜がよろけて二、三歩。
青年の前に出てしまった。
「おや、どうしましたか?」
青年が驚きつつも心配気に声をかけた。
「あ、いえ......」
ルリ子の方に視線を向けると、桜の木の下で『頑張れ!』と言わんかのように拳を握っていた。
(どうしようか......)
数千年の妖魔との戦いで、こんな間の抜けた事は初めてだった。
思案する朔夜の頬を撫でる風が、湿度を帯びてきた。
——雨?
違う、湿度では無い。
これは粘膜のぬめりだ
「ごめんなさい」
そう言うが早いか、身をかがめた朔夜の肩が青年の腹部に入った。
そのまま身体を起こして担ぎ上げると、そのままルリ子の方へ走った。
間一髪。
さっきまで青年の居た場所には、複数の槍が突き刺さっていた。
「ルリ子さん、その人と一緒に逃げて!」
「走って!!」
戸惑うルリ子に朔夜が叫んだ。
その声に青年の手を引いてルリ子が走り出した。
「二人を護って」
朔夜は袂から護符を三枚取り出すと息を吹きかけた。
護符は人型に姿を変えて二人を追った。
さらにその後ろを蛇のような触手が四本。
這うように猛追した。
「お前たちの相手は私よ」
朔夜はそう言うと右手を胸元に掲げた。
「ひふみよいむなやここのたり布留部由良由良と布留部」
手のひらに点のような光球が現れて、祝詞と共に肥大してゆく。
朔夜は触手に向かって右手を払った。
光球は幾筋もの光にかわり、ことごとく全てを貫いた 。
絶叫が背中に聞こえた。
「本体のお出ましね」
振り向いた朔夜の眼前には、粘液に艷めく巨大で歪な球体があった。
無数の目が疱瘡のように覆っている醜悪な球体。
それらが一斉に朔夜に向いた。
朔夜の両手に太刀が顕現する。
それぞれの刀身に蒼白い焔が揺らいだ。
左腕を前に、右腕を斜め上段に構えた。
短い睨み合い。
最初に動いたのは——
「朔夜さぁーん!!」
ルリ子だった。
「嘘でしょ」
朔夜の口から短くこぼれた。
二本の触手が襲いかかった。
地面から跳ね上がった触手が、その鋭い先端をルリ子に突き立てる。
全く気づく様子もなく、ルリ子は球体に何かを投げた。
さらに別の触手がそれを弾いた。
弾かれたそれは破裂し何かを噴霧した。
苦悶するように球体が波打ち目が閉じられた。
朔夜の足が地面をするように動いた。
一瞬で間合いが縮んだ。
左腕の太刀を突き立て、その柄を右足で蹴り飛び上がった、
両手で太刀を持つと振りかぶり両断した。
球体は悪臭を放つ液体を撒き散らしながら、水袋が破裂するように絶命した。
その間際——触手が朔夜を襲ったが、返す刀で弾かれて崩れた。
(触手は生きてる!)
振り返りルリ子を見ると、二体の式神がルリ子を覆い触手の攻撃を弾くところだった。
弾かれた触手の一本が再度跳ねた。
「ひふみよいむなやここのたり布留部由良由良と布留部」
朔夜の祝詞より一瞬早く、触手が式神の防壁をかい潜った。
「ルリ子さん!!」
右手から放たれた幾つもの光の刃と朔夜の叫びが、春の夜を裂いた。
全てが触手を貫いたが、触手も既に突き刺さっていた。
「ルリ子さん!」
再び叫んで駆け寄ると、撒き散らされた汚水に足を取られて転んだルリ子が尻もちをついていた。
触手はその投げ出された両足の間に突き立てられ、更に汚水となってルリ子に降り掛かって消えた。
「くっさーい!!!!」
ルリ子の悲鳴と朔夜の笑い声が夜風に流れていった。
——翌朝、学校に朔夜の姿は無かった。
学友も教師も誰ひとり、朔夜の事を覚えている者もなかった。
「朔夜さーん!!」
突然大声で叫ぶ老婆の姿に、周囲が驚き振り返った。
「猫は二匹、元気ですよ」
ルリ子はあの夜から人生を共にした伴侶の隣で、そう呼び掛けた。
雑踏の中、二人の上を回る一体の式神。
ルリ子の声にそれを眺めて朔夜は笑った。
「Curiosity killed the cat. But satisfaction brought him back.」
小さくそう呟いて......




