第一章(5)
「別にいいけどさー。いや、やる予定でいるけどさー」
委員長会議が開かれる広い教室はまだ三年生が二人いるだけだ。
「和夫ー、何が不満なわけ?」
「受動的過ぎない?」
和夫の弁を否定するように生徒会長の稔が「なにが?」と尋ねた。和夫が受動的過ぎないことを解っているから、稔は敢えて聞いてみた。
「例えばさ、紙に名前を書いて投票。是非を目を瞑って挙手で問うとか。それなら能動的に感じるんだよね」
「それは和夫の感覚の問題じゃん。大体さ、誰がそれ仕切るの? 僕はやる気ない、というかやらない」
稔にそこまで言わせて、和夫は諦めた。ちゃんとやる予定でいるのだ。
一度生徒会室に戻る為に稔が教室を出て行くのと入れ替わりに、ぱらぱらと人が集まりだす。和夫は適当に腰掛けていた机から離れて、教室内を一番良く眺められる最後部に移動することにした。
「アリ先輩、ネタ仕込みですか?」
楽しそうな面持ちで教室を眺めている和夫にそう声を掛けたのは、二年生の日向である。和夫の苗字は有田という。田を除いて「アリ先輩」と概ねの後輩は呼んでいる。
「……今期も楽しみだなあって眺めていただけなんだけど?」
和夫がそう言うと、日向は可笑しくてくすくす笑ってしまった。
この人は単純に純粋に楽しみなのだろうと思う。
「おい、日向。笑ってないでちゃんと頼むよ」
和夫はあくまでその場を離れるつもりがないようで、日向は苦笑いを浮かべながら教室内の輪の中へと離れていった。
賑やかになり始めた教室を愉快な気分で和夫は眺め、そうして一年生をはじめとする初めて見る顔を数えはじめた。
「キノちゃん、身体の力抜いた方が良いよ? そのままじゃ余計に疲れちゃう」
がちがちに緊張している香夜子に亜樹也は苦笑いを浮かべながら言った。
教室のわいわいと賑やかで楽しそうな雰囲気に萎縮した香夜子に付き合って、亜樹也は共に教室の後部で会議の始まりを待っていた。
「キノちゃん」という言葉に、思わず和夫は後ろを振り返った。
はつらつそうに見える一年生と思しき女の子が、真後ろで緊張した面持ちでがくがく震えている。
ちぐはぐさが可愛くて、「キノちゃん」という呼び名も可愛くて、和夫は無意識に手を伸ばしてしまった。
「キノちゃんて可愛いね」
そうして無意識に香夜子の頭を撫でた。すると真っ青だった香夜子の顔がかあっと真っ赤に染まった。
香夜子は咄嗟のことに理解が追い付かない。がちがちに力の入っている身体を更に固まらせて微動だにしない。
真っ赤な顔で放心している香夜子に、亜樹也はぷっと吹き出してしまった。
包み込んで守ってあげたい。そんな目で和夫が香夜子を見ている。
目を細めた柔らかい和夫の瞳の向こうに、香夜子は何か温かいものが見えたような気がしたが、頭も回らないその時、顔と身体が暑過ぎて気付くことはできなかった。
亜樹也のくすくすと笑いしきる声に我に返った和夫はきまりが悪くてたじろいだ。香夜子が困った顔で自分を見ている。
キノちゃんていう呼び方も可愛いけれども、困った顔も可愛いな。和夫はそんなことを思ってしまった。
「ごめん、困らせちゃったね」
苦し紛れに「ははは」と笑いを付け足した。笑顔も見てみたいと思いながらも、今はきっと無理だろう。自分の変な行動のせいで。
亜樹也は和夫に好奇な視線を注いでいた。この先輩、もしかして、そう思うと良いものを見てしまったなあと共に面白くなってきてしまった。初めてが苦手な香夜子は、もしかしたらこれも初めてかもしれない。
「お前らなんだか面白いね」
笑上戸の亜樹也とあがり症の香夜子の組み合わせに、和夫はそんな風に話題を変えた。
「先輩も面白いですね」
面白いと思われてしまった行動をしてしまっている自覚のある和夫は苦笑いを浮かべてから言った。
「一年生? そんなところに居ないでさ、みんなの中入っていってみー」
と、亜樹也が隣でまだ硬直している香夜子に視線を遣った。
「……なるほど」
香夜子の様子に和夫が納得する。ここまで来ていたら、確かに無理かもしれない。
「キノちゃん。緊張しても損するだけだよー。うちの級長会はみんなでわいわいがモットーだから」
「級長会?」
聞き慣れない言葉に、亜樹也が尋ねた。
「うん。うちでは学級委員会のことを級長会て呼ぶ伝統があるの」
「……なんだか良い響き!」
わくわくした目で食い付いてきた亜樹也に、面白い一年生発見! と嬉しくなった和夫もわくわくと目を輝かせた。
「だろ!」
盛り上がりかけた和夫と亜樹也は、はたと思い出した。
「……キノちゃん」
大丈夫? という言葉は、香夜子が面白くて飲み込んでしまった。直立不動に固まっている。
上級生が学年別クラス順に座るように促し、級長会が始まった。
教壇に生徒会の面々が並んでいる。それぞれ黒板に自分の名前を書き、順番に自己紹介を済ませると稔が言った。
「はい、委員長したい人はー?」
すると教室の中に居る殆どの生徒の視線が和夫に集まる。
わかっているってと思いながら、和夫はひらひらと手を挙げた。
「はーい、俺やりたいです」
教室の中が沸き立った。初めて級長会に参加する一部の二年生と一年生はきょとんとしている。
「じゃあ、和夫よろしくね。僕らはおしまい」
当たり前だというように稔が言うと、彼を含めて生徒会の面々は教壇から降りて窓際に並べてある椅子に向かっていく。
さっさと前に出ていく和夫をみんなが好奇心をうずうずさせて見つめる。
苦笑いそうになりながら教壇を前に和夫は呑気に言った。
「ほい、じゃあ。前期一回目の級長会始めるぜー」
わっと嬉しそうな声がいくつも上がり、和夫は今期も楽しそうだなと輝いた目で会議を進めはじめた。
「一年生にまず説明しておくね、うちの仕組み。うちの学校は評議委員会がないのね。この級長会がそれも担います。級長会は生徒会と連携を取りながら様々なことに取り組みますが、基本的には独立して活動するものです。そのため、級長会議が開かれる時は生徒会のメンバーが一人以上、監査として立ち会います。詳しくはあとで班になった上級生が説明するから今は質問無しでよろしく。じゃ、次ー」
水を得た魚のように会議を進めていく和夫の話を聴きながら、香夜子は不思議な気持ちで彼を見つめていた。
わけがわからなかったけれど、先ほどの手の感触の温かさの余韻が残る。顔が火照りそうだった。火照ったままでいれば、無事にこの1回目の級長会を乗り切れるだろうか。そんな風に香夜子は思った。
和夫のおかげで香夜子の緊張は1ミリくらい解けていた。けれども、気筋金入りは1ミリくらいじゃ進んだうちに入らない。
彼は自分に無いものをきっといっぱい持っている。こんなに自信に溢れて振る舞えるなんて、きっとそうだと香夜子は思った。初めてが怖かったりなどしないだろう。そうして自分が情けなくなった。比べる相手が間違っているのはわかっている。
和夫は教室に背を向けるとチョークを持ち、黒板に大きく自分の名前を書いた。
「改めて。俺は有田和夫。前期の級長会委員長を務めさせていただきます。よろしく!」
はつらつとした声が教室に響くと、またわっと賑わいだ。
「はい、これが自己紹介の見本。簡単だろ? 二年生一年生三年生の順に自己紹介していってね。じゃあ一組からー」
そろりと亜樹也は香夜子を見た。今まで見た中で一番に真っ青な顔をしている。
簡単じゃない、簡単じゃないと香夜子は頭を抱えたくなった。今日、クラスでも自己紹介があった。一日に二度もこんな緊張を抱えなくてはいけないなんて。
一組だから一年生の頭、流石に不安になった亜樹也が度々香夜子を伺ってみるものの、それどころじゃない彼女は気付かない。
委員長から自己紹介をするようだ。自分たちだけ逆の順番にするわけにもいかないだろう。
やることは明快。黒板に名前を書いて、名乗って、よろしくおねがいしますと言うだけ。
けれど香夜子みたいな子は勇気が要るに違いない。
どんどん二年生の自己紹介が進んでいく。自分たちの番まであっという間だ。香夜子の焦りと不安が最高潮に達した頃合いで順番は来てしまった。
がちがちになりながら、亜樹也のおかげで共に前に出てみたものの。
見るからに緊張している一年生を前に、教室中がはらはらとしだした。「がんばれ、一年一組委員長!」と嫌味もなく心の中で応援を送るものの、うっかり固唾を飲む。
和夫が苦笑いを浮かべる亜樹也と顔を合わせたら、背後でぎゅっと制服の裾を掴まれた。香夜子の手だ。突然困らせた自分なんかを頼ってくれるのが、和夫は嬉しかった。そうして、ぽんぽんと2回、香夜子の背中をそっと叩いた。
香夜子の耳元に、小さな声で「大丈夫だよ」と優しい声が聴こえた。背中の感触が、お守りのようにふわりと自分を包み込んでくれるようだった。
香夜子は不思議と動きだせた。
教壇に背を向けて勇気を出してチョークを手に取りぎゅっと握った。木ノ下香夜子と名前を書き、前を向こうとした。
と、和夫がいきなり大きな声を上げた。
驚きでびくりと跳ねた香夜子の肩に手を置いて自分の方へ向かせると、和夫は勢いよく言った。
「キノちゃん、書記やろう!」
「え? え?」
唐突な事の成り行きに追い付けない香夜子はどうにかそう繰り返した。
「反対の人、手ー上げてー」
混乱している香夜子は余所に、前に向き直った和夫が挙手を促すと、誰も手を挙げなかった。
「キノちゃん、嫌?」
そんな風に顔を覗かれて聞かれて、香夜子は首を横に振った。
不思議な気分になった。首を縦に振るという選択肢は覚えなかった。
楽しそうで嬉しそうな和夫の笑顔は決して押し付けがましくなく、そうしたら自然と頷かない勇気だけが飛び出した。
こうして香夜子は前期級長会の書記になってしまった。
「じゃあ、書記のキノちゃん。自己紹介の続き」
和夫に促されて香夜子は一呼吸した。
新しいことを始めるには勇気が要る。新しいことが始まるのは緊張する、不安になる。きっと、和夫のような人はそんな風に考えないのだろう。
そんなことを思いながら、香夜子は勇気を出して口を開いた。
「一年一組委員長の木ノ下香夜子です。書記を務めます。よろしくお願いします」
そうしてぺこりと綺麗に頭を下げて顔を上げた香夜子は、すっきりとした笑顔を浮かべていた。
滲むはつらつさにみんなが驚いたけれど、心地良い雰囲気が教室を包み込んだ。
教壇の陰で、和夫の手が香夜子の手に触れた。がんばったねとでもいうように。優しく握られた。