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第一章(4)

 家に帰って部屋で亜樹也の消しゴムの赤い矢印を見ていたら、香夜子は愉快な気分になった。

 とてもユニークな気遣い。

 その細やかさが嬉しくて嬉しくて、学校での緊張を引きずっていた香夜子の胸がすうっと楽になる。

 ケースをずらして中に挟まっていた小さな紙を取り出す。

 わくわくしながら開いてみると、香夜子はくすくす笑ってしまった。

「あがり症て嘘。なのにどうして僕、緊張してるんだろ?」

 出会ったばかりの、まだあまり話もしていない相手のことなんてわかるわけがない。面白い子だなと香夜子は思った。

 親近感と興味が誘われて、明日また亜樹也に合うのが楽しみだ。

 きっかけをくれた亜樹也に自然と「ありがとう」と伝えられたように、また自分からきっと話しかけられる。勇気はもう必要ない気がする。

 新しい消しゴム、今使っているものが小さくなってしまったと亜樹也は言っていた。嬉しくて借りちゃったものの、あちらが困ってしまうかもしれない。

 香夜子は机の引き出しに手を伸ばした。文房具類をしまってあるそこに新しい消しゴムを見つけた。

 机の上にあったメモ帳を一枚剥がしながら、可愛すぎるかなと思ったけれども、敢えてそれに返事を書くことにした。

 面白い気遣いのお返しに、亜樹也にもくすりと笑ってほしい。開いた瞬間、返事を読む前に、もしかしたら可愛すぎるメモ用紙にびっくりしてくれるかもしれない。

 香夜子は臆病なだけで人と接するのが嫌いなわけではない。気後れが付いて回るけれども。友達に上手な返答を出来ているか不安になることも年中。それは人の目を気にしているものではなくて、ただ自分への負い目がそうさせる。臆病な香夜子は自分に対してますます臆病なのだ。そうして最初の一歩に只管な勇気が要る。

 新しい学校生活に踏み出してみたら、次々に新しい一歩を踏み出す必要が生まれて、不安の渦に巻き込まれそうで怖かった。

 亜樹也のお陰で、少なくとも半歩くらいはもう踏み出せているかもしれない。

 このメモ用紙に、どんな返事を書こうか。 

 暫く悩んだ。なかなか面白い答えが出てこない。なんだかやたらと悩んでしまう。亜樹也の楽しそうな顔を想像すると面白い答えが見つからない。

 ようやく思い付いた返事を丁寧にメモ用紙に書いて、新しい矢印の無い消しゴムのカバーの間に挟んだ。

 机から立ち上がり、香夜子はクローゼットへ向かった。

 中には幾つかの衣類と共に、まだ袖を通して間もない制服。

 クローゼットの底に置いている鞄からペンケースを取り出し、大事に新しい消しゴムを仕舞うと鞄へ戻した。



 「暫く借りていてもいい?」と言った香夜子は今日どんな風に返事をくれるだろうか。 

 愉快な気分で亜樹也は通学路を自転車で走っていた。

 鼻歌でも歌いたい気分だ。香夜子もわかりやすいけど、人のこと言えない。思わず亜樹也は自分に呆れた。しかし楽しみなのだから仕方がない。

 昨日の帰りに「また明日」と言ったら、「うん、また明日」と笑った香夜子の笑顔は懐こさとはつらつとした印象を亜樹也に与えた。本当にあがり症なだけなのだろうと彼は踏んでいる。

 性格はおっとりしていそうだけれど、見かけがはつらつとしたあがり症というちぐはぐさが可笑しい。

 やっぱりあの子わかりやすくて面白いなと思うと学校へ向かうのが一層楽しみになる。



 亜樹也が自分の席に着くと、既に来ていた香夜子が「おはよう」言った。

 自分から「おはよう」と言いたい気分だったのに、先を越されてみたら嬉しくなった。

 香夜子は自分のペンケースを手に取り、昨日仕舞った消しゴムを取り出すと、亜樹也が椅子に座るのを見届けた。

「楠田君、これ」

 香夜子が亜樹也の机に消しゴムを置いた。

 貸し借りを約束したのに新しい消しゴムを渡してきた香夜子の気持ちをなんとなく察した亜樹也は、快く「ありがとう」と受け取った。

 しかし笑うのを堪えることに耐えられなくて、亜樹也は素直に笑ってしまった。

 ばつが悪そうに香夜子が肩を竦める。

「楽しみ」

 楽しみと言いながら突然亜樹也が溜息を吐いた。

 香夜子が不思議に思っていたら、亜樹也がペンケースから今使っている消しゴムを取り出した。

 あがり症なのは嘘だけれど、消しゴムが小さくなってしまったのは本当。しかもおかしな形に凸凹しているから、毎度自分で呆れる。どうやったらそんな形状になるのか自分でも不思議だ。

 亜樹也の消しゴムはいつも、小さくなると必ず妙な凹凸が出来上がる。今回はパズルのピースを滑らかに歪ませたような忙しい形状になっている。

「何なんだろ、これ」

 首を傾げて香夜子に投げかけてみると、盛大な笑い声が聴こえてきた。前の席に座る寛太のものだった。

「ひどいなあ、そんなに笑っちゃうこと?」

 振り向いて笑っている寛太に亜樹也が文句を言うと、彼は愉快な声で言った。

「だってその形! どうやって消したらそんなになるんだよ」

「だから、わからないんだよ」

 亜樹也と寛太の遣り取りに、遂に寛太の隣の席のなずなが笑い出し、後ろを向いた。

 寛太もなずなも話をしている香夜子と亜樹也に混ざりたくて、ちらちらと後ろを伺っていた。そうしたらひどく面白い種が転がって来た。

 最初はふたりとも肩をぷるぷるさせながら笑いを堪えていたけれど、先に寛太が耐えきれなくなった。その寛太と亜樹也の遣り取りに、なずなも堪らなくなって限界が来て後ろを向いた。



「木ノ下キノちゃん、これは馬鹿にして良いレベルだと思うよー」

 失礼だなと言おうとした亜樹也と相変わらずだと呆れた寛太、そして呆気にとられていた香夜子が、一拍置いた後、首を傾げて声を揃えた。

「木ノ下キノちゃん?」

 なずなはばつが悪そうな表情を一瞬浮かべたが、目を輝かせながら勢いよく言葉を並べたてた。

「可愛いじゃない! 昨日の夜思い付いたの。キノちゃん、良いじゃない! ねえ、キノちゃん。可愛いよね? あんたたち、女子の可愛い発想わかってない!」

 あんたたちと言われた亜樹也と寛太の渋い顔は他所に、香夜子がころころと笑いだした。

 なずなが随分と誇らしげにしている。

 なんとなく悔しくて寛太と亜樹也は水を差してやった。

「短絡的」

「捻りがない」

 しかし当の本人は机に突っ伏しそうなくらい笑っている。

「ああ、もう。神崎さん、面白い。面白いね!」

 そう言って香夜子がまた笑い転げる。なんだか自分でも不思議なほどに自然な遣り取りをしていた。すっきりとした楽しい気分が広がった。

 なずなが得意げに男子二人を鼻で笑った。

 すると寛太がほくほくとした表情を浮かべて嬉々と言った。

「キノちゃん、こいつ変人だから関わらない方が良いぞー」

 恋路を邪魔するなとでも言いたそうな目でなずなが寛太を睨むが、彼は気にもしない。

「前から知ってるの?」

 亜樹也はなずなに呆れながら寛太に聞いた。

「俺たち、小学校からずっと一緒なんだよ!」

「すっごい迷惑! こいつ風評被害メーカーなの!」

 するとひどく冷静な表情で亜樹也は言った。

「風評被害もなにも、神崎さんは見るからにさ」

 亜樹也に最後まで言わせずに、なずながくだらない脅しをかけた。

「楠田、あんた呪いかけてやる!」

 面倒くさいけれど放って置くと被害が広がる。仕方なく寛太は横槍を入れた。

「なんだよ、呪いって。ばーか」

「あんたにはもうかけてある。一年後に禿げる呪い!」

 笑っていた香夜子と呆れていた亜樹也は、なんだ可哀想なものを見る目で寛太に視線を遣った。

「……高校生で禿げるなんて、流石に嫌だよ」

 神妙な面持ちでそう言った寛太の隣で、なずなが勝ち誇った満足げな表情を浮かべている。流石の寛太は言い返し、わんやわんやとふたりの仲良い口論が始まった。

 そのさまに、香夜子と亜樹也は顔を見合わせてくすくす笑った。先ほどから笑ってばかりだ。

 亜樹也は気が解れている様子の香夜子に言ってみた。

「キノちゃん、今日、学級委員会だね」

 忘れてしまいたい事実を思い出した。

「……そうだった」

 呟いた香夜子はやっぱりわかりやすいと亜樹也は思う。あからさまに緊張の色を取り戻しはじめた顔をしている。

「まだ新学期始まって二日目なのに……」

「昨日の今日。僕たちまだホームルームの取り仕切りすらしてないのにね」

 それからというもの、亜樹也から見ても寛太から見ても、なずなから見ても、どうしようもなく香夜子がそわそわしているようにしか見えない。

 結局、香夜子はその状態をどんどん酷くさせて放課後を迎えてしまった。

 帰りのホームルームが終わると、机に着いたまま固まっている香夜子へなずなが明るく言葉をかけた。

「キノちゃーん、そんなんじゃ疲れちゃうよー。気楽に気楽にね? イケるイケるー」

 そのさまに寛太は阿呆らしく感じながら「お前は気楽にし過ぎだ」とぼやいた。

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