第七章(3)
香夜子は毎日、どの時刻の電車に乗ると決めていなければどの車両に乗るとも決めていない。
初めて和夫と同じ電車になった後、数日同じ時刻同じ車両に乗ってみたけれど会えなかった。だからあちらも自分と同じ具合なのだろうと判断した。
時々一緒になる偶然を楽しもうと思ってわざわざ和夫に尋ねることもしなかった。
昨日のことを思い返して照れくさくなりながら、香夜子は和夫に会えたらいいなと思った。電車を待ちながら胸が弾む。
実際に電車が一緒になることよりも、会えないかなとどきどきしてるこの時間が楽しい。一緒にならなかったら今度は昼休みに会えるかなと考えて楽しくなる。最近そんな風に和夫のことを考える時間が楽しみのひとつだ。
目の前で電車が行ってしまい、ぽつんとひとりでホームに立っていた香夜子の前に次の電車が止まった。
電車に一歩乗り込んだら、声をかけないのは不自然なくらい目の前に和夫と稔が居た。
「あ」
みんなに突かれて困っていた和夫と、そんな和夫を楽しんでいた稔の声が重なった。数人の友達が一緒に居るこの状況は、いきなり「おはよう」とは言い辛い雰囲気なのに、うっかり声を発してしまった。
キノちゃんと呼んだら香夜子が困るかもしれない。言い出しっぺのくせに、稔は親切心からなんて声をかけようか考えた。香夜子の方から次の一言が出てくるとは思えないし、和夫は和夫で間抜けなことしか振る舞わない気がして香夜子が可哀想だ。
一瞬流れた妙な沈黙を破ったのは一緒に居たみんなの好奇心だった。
「キノちゃんだ!」
ピークを過ぎて空いている電車の中、知らない数人にいきなり一斉に呼ばれた香夜子がびくりとし、狼狽えるまでもなく身を固まらせた。
立ち竦み茫然とする香夜子の背後でドアが閉まり、電車が走り出す。慌ててそばに寄った和夫が幾つか声をかけても反応が芳しくない。
香夜子は状況を判断するでもなく、どうにか和夫に助けを求めた。
「アリ先輩、わたし……」
昨日ありったけの勇気は使い果たしたと、震えそうな声で香夜子は言った。
「香夜ちゃん、別に今勇気出す必要ないから。ね?」
謝らなければとみんなが思ったけれども、ここまで困らせるとどう謝るべきかと揃って考え倦んでしまった。
「和夫たちが困ってる。みんなのせい」
とてつもなく和かな口調で稔が言った。今の場の流れの延長で飛び出たこの稔の和かさは窘め以外の何物でもない。付き合いの長さから全員が察してばつが悪い。
香夜子はやっぱり勇気を出さなければいけないような気がしてきた。自分から何か言わなければいけないと思う。けれども何をどう言ったらいいのか考えると頭の中がぐるぐるする。
香夜子の混乱が和夫には手に取るようにわかった。がんばろうとして葛藤している時の香夜子の顔だ。
「……稔も悪いでしょ」
思わず溜め息を吐いて、それから和夫はひとつ名案を思いついた。
「香夜ちゃん、あとで小波に稔のこと叱ってもらうといいよ?」
稔が顔を引攣らせた。
一年生の終わりに付き合いだした小波に稔は頭が上がらない。付き合いだす前から彼は尻に敷かれ続けている。
「わあ、それはやめて。キノちゃん、お願い」
「やだ。この際とことん小波にチクっちゃおうぜー。あいつは絶対、おれと香夜ちゃんの味方だ!」
普段から間抜けだなんだと和夫に呆れる小波の姿が頭の中に浮かぶと、香夜子は無意識に笑った。和夫が小波に訴えても間抜けの一言で終わりそうだと思う。そのままくすくすと笑いだし、途端に気持ちが落ち着いてきた。
小波に叱られる稔の姿も想像してみたらあることを思い出した。ぽろりと香夜子は和夫に言った。
「小波先輩。稔先輩に意地悪されたらお仕置きしておいてあげるって」
稔がたじろぐ姿と笑った香夜子に、和夫は作戦が成功したとほっとした。
聞き覚えのある「小波」という名前に興味を移したみんなが、日頃の意趣返しも兼ねて稔の彼女事情を掘り下げだした。
こんなことになるなら小波の説教の方がましだと稔は色々と後悔した。
和夫と香夜子を見遣ったら、落ち着いた香夜子が楽しそうに和夫に笑いかけている。幸せそうで何よりと微笑ましく感じつつ、稔は今日の自分の不運を呪った。
先に電車を降りる和夫と稔の友達たちがさり気無く香夜子に「ごめんね」と「またね」の声をかけて去っていく。気遣いに自然と浮かべられた笑顔で答えたら、自分が情けなくなった。
落ち込んでいるようにしか見えない香夜子の様子に和夫と稔は顔を見合わせた。
「あれは誰でも驚くよー。香夜ちゃんは悪くないから」
あっけらかんと言った和夫は安心してとは言わない。言ったところで意味のないことだと知っている。香夜子が気にしていることは彼女自身に対する劣等感だと顔を見ていればわかる。
「……キノちゃん、お願い。小波には言わないで」
普段の立ち振る舞いが軽やかな稔がいじられることは滅多にない。声が疲れ切っている。更に小波に小言を言われたら敵わない。
疲弊しきった稔の顔を見たら、気の毒になった香夜子は考えるのをすっかり忘れた。
「言わないです。安心してください」
そうして和夫の顔を見たら、まるで素知らぬ顔をしている。言いたいのだろう、言っちゃうのだろうと香夜子は苦笑いを浮かべた。きっと稔の間抜けだった部分だけを切り取って話すのだろう。小波に話している和夫の姿を想像してみたら可笑しくなった。
電車を降りると、稔がさりげない言葉を残してさっさと先に行ってしまった。
「面白がってたくせにあっさり引いたなあ」
和夫が呟くと香夜子が首を傾げた。
改札を出た先で遠くなっていく稔の背中を二人してうっかり見送ってしまい、それから顔を見合わせた。
「時間!」
慌てた和夫に香夜子はくすくすと笑った。
「アリ先輩、大丈夫ですよ」
振り向いて改札上の時計を指さした香夜子に、釣られて和夫も見上げるとほっと胸を撫で下ろした。遅刻すると急かされて慌てていたら、余裕で間に合う時刻の電車にたまたま乗れていたのを忘れていた。
「香夜ちゃん、行こうか」
「はい!」
弾む香夜子の声に、和夫はご機嫌を全開にさせた笑顔を浮かべて歩き出した。
昨日必死に棚を片付けて一緒に駅へ向かっていたら、二人して途端に擽ったくなった。気持ちを伝え合って一緒に居ることの形が変わっただけ。それ以外はまるでいつもと変わらないことが擽ったい。
いつものペースでいつものように話をしながら学校までの道のりを歩く。お互い足が軽く感じるのは、今までと少しだけ違う風に心が躍っているのだろう。




