第六章(5)
放課後、委員会室に居る和夫と香夜子は固唾を飲んだ。びっしりとファイルが詰まった棚を前に恐ろしさしか覚えない。A4サイズが入る三段の棚の下に物入れ、棚の上二段はファイルが横にされて押し込められている。
「いやな予感しかしない……」
和夫が最上段にある、一番抜き出すのが容易そうなファイルに指をかけた。
「先輩に任せます……」
和夫が香夜子に頼んだお手伝いは棚を整理することだった。卒業していった先輩が無造作に詰め込んでいったファイル群を綺麗に並べ替えたい。
ファイルは一冊でも抜き出せば雪崩れるに違いなくても、取り出さなければ整理が出来ない。
「片付けって勢いが、要りますよね」
「そうなんだよねー」
そんな遣り取りをしながら、和夫は思い切って一冊引っ張った。
結果、二人はばさばさと落ちていくファイルの数々に絶句した。
「そもそもさ、これどうやって詰め込んだんだよ……」
大好きだった先輩たちを恨めしく思った和夫の頭に、最後の一冊がひょこっと遅れて落ちた。ちょうど角の部分が直撃した。流石に痛くて悲鳴を上げると頭を抑えて蹲る。
釣られて一緒にしゃがみ込んだ香夜子が心配そうに「アリ先輩」と声をかけた。
「……助けて、香夜ちゃん。痛い」
そう言った和夫の手がいきなり香夜子の手を握りしめた。手を繋ぐのは初めてではないのに、突然に驚いた香夜子はその場にぺたんと崩れた。
「香夜ちゃん?」
まるで無意識の和夫は香夜子の反応が不思議としか感じていない。自分の取っている行動に気付けない。
床に落としていた視線を香夜子に合わせると、至近距離に真っ赤な顔が眼に映る。釣られて和夫の顔もみるみる紅くなっていく。
香夜子は和夫を見つめたまま動けなかった。どうしたらいいのかわからなくて、胸が熱くて、心臓の音が身体中にどきどきと響く。
和夫も同じだった。
いつもうっかり頭を撫でる時のように香夜子の手を握ったまま、顔は火照るし鼓動が早い。そんな自分に慌てながらも香夜子を見つめていたくて見惚れた。
暫くそうしていたら、はたと我に返った和夫は自分の無意識にひどく慌て、ぱっと香夜子の手を離した。
真っ赤な顔の香夜子が固まってしまうほどに、ものすごい至近距離に自分たちの顔があった。
「……ごめん、香夜ちゃん。わがままなことしちゃった」
首を横に振った香夜子は離れた和夫の手を少し淋しく思った。
それから息を吸い込むと、思ったことをそのまま言葉にした。
「わがままなんかじゃないです。先輩はもっとわがままになってくれていいです」
恥ずかしくて俯きながら一気に吐き出した香夜子に和夫は目を見張った。
わがままになっていいという言葉がとくんと和夫の胸を打った。
協調性豊かな和夫は、我を通すこともなければわがままな発言も滅多にしない。彼自身がそれを好まず、何よりも気を付けている。和夫の言動をわがままに当てはめるならば、周りが楽しめる為に尽くすこと、それが彼なりのわがままかもしれない。
無意識に香夜子を構う自分は無意識に香夜子に甘えているのかなと思い、和夫は時々無性に戸惑うことがある。迷惑をかけていたらどうしようかと悩む。和夫の香夜子へ対する好きの不安はそれらが占めていた。
「香夜、ちゃん?」
いつもなら真っ直ぐな香夜子の言葉にうきうきわくわくと胸が弾む。嬉しくて楽しくなるのに、今の和夫は声を絞り出すのが精一杯だった。
いつかさらりと好きだと香夜子に言ってしまった自分が嘘のように、結局和夫は恋に関してまるで意気地が無い。稔が面白がる理由に最近気付いたばかりの自分が切ない。
好きだと断言したいけれど、今言っていいのか和夫はわからない。動揺している自分に不甲斐なさを覚えていたら、香夜子がはっきりと言った。
「わたし、アリ先輩が好きです」
好きまで言えた。けれども香夜子はどうやって次を受けとめたらいいのだろう。不安で怖くて、香夜子は顔を手で覆ってしまった。さっき見つめた和夫の目をまた見つめ返す勇気が見つからない。
「香夜ちゃん、どうして顔隠すの?」
好きという言葉をもって香夜子がなけなしの勇気をくれた。嬉しくて嬉しくて香夜子の顔が見たい。不安が一気に飛んだ和夫は陽気に尋ねたものの、香夜子がこちらを見てくれない。
「今、自分がどんな顔してるか不安なんです」
「こっち見て?」
「む、無理です!」
随分はっきり言い切られてしまった和夫は苦笑した。勇気の出し方が香夜子らしくて愛おしいから、香夜子の顔が見たいけども一先ず諦めてみた。
代わりに頭を撫でたくて手を持ち上げて、和夫は首を傾げた。
無意識にしていることは意識的にしようとするとやたら難しい。
ぽんと香夜子の頭に自分の手を置く。それからいつものように撫でようとした和夫の手はやたらとぎこちない。
「アリ先輩?」
いつもと少し違う感触に香夜子が尋ねると、和夫が照れくさそうに言った。
「いつも無意識だから、なんだか照れる。上手くできない。香夜ちゃんが好き」
自然体で言えたから、和夫は今のこの瞬間が心地好く感じた。
香夜子が未だ顔を覆ったままくすくすと笑いだした。嬉しくて気恥ずかしくて擽ったい。
「ほい、香夜ちゃん。こっち見て」
笑っているくせに、相変わらず香夜子は手を退けないし和夫の方を見てくれない。
「わがまま言っていいって言ったの香夜ちゃんなのに、ひどい」
幾つか同じ遣り取りをして、やっと顔を上げた香夜子は先ほどよりも茹だったように顔が紅い。
臆病なりの勇気の出し方は気恥ずかしさが先立った。やっぱり和夫の好きの言い方はさり気無くて心地好いけれど、なかなか紅色は引いてくれない。心臓のどきどきもなかなか治りそうにない。
満開の笑顔の和夫はいつだって太陽のように優しく温かいけれど、温かいを通り越した熱さを覚えることがいっぱいある。