第六章(2)
楽観的に物事を見つめて捉えることが好きな亜樹也は毎日起こる新しい発見にいつだってこころを躍らせる。
入学初日、香夜子たちになかなか話しかけられなかったあの緊張は、きっとこころが躍り過ぎていたのだと彼は思うことにした。こんな風に打ち解けることを待っていたのかもしれない期待が膨らみ過ぎていたのかもしれない。
「キノちゃん、なんだか浮かない顔してる」
休み時間に亜樹也は香夜子にそんな指摘をした。
香夜子の緊張の面持ちを、最近の亜樹也は浮かない顔と称す。
前向きな言動が出来るのに、そこに勇気が必要になる香夜子はなにかに勇気を必要としている。そうして最近は臆病さを持て余しているように見える。
やっぱりそんな風に見えるのかと実感した香夜子は思わず溜息を吐いた。
最近の自分は臆病さをだいぶん受け入れられるようになった。そんな自分が自分でも不思議だ。代わりに、不安が襲った時の香夜子は、意識しているが為に、前よりも臆病になり怖くなる。
「亜樹ちゃんにもなんでもわかっちゃうね」
苦し紛れに言うと、香夜子は溜息を一つ吐いた。
「溜息は幸せも追い出しちゃうよ」
そう言うと、亜樹也はとても亜樹也らしい物言いをした。
「今吸い戻せばまだ間に合うかも!」
二人の前の席、なずなと寛太がくだらない言い合いをしていたが、亜樹也の言葉が聞こえた瞬間、無言で顔を見合わせた。楽天家って幸せ者だなあと、呆れ半分と感服半分の気持ちで羨ましさを覚えた。
この二人は普段が普段だけに悩み混むとなかなか抜け出せなくなる。最近までの寛太がそうであったように。
香夜子はもはや自分でも自分がわかりやすいという自覚がある。苦笑いを浮かべるほどに。
「……国語の授業」
どうしようと訴える目で香夜子は亜樹也を見つめた。国語の授業で作文を読み上げて発表するという事態が次の時限で香夜子を待っている。
クラス会議を散々取り仕切っているくせに、慣れないことで人前に立つのはやはり苦手。怖くて上手くできない想像ばかりをしてしまう。授業で当てられた時はいつも顔が強張っている。慣れないものはとことん慣れない。苦手を払拭するのはなかなか上手くいかないものだ。
そんなに心配することないのだけれどなあと亜樹也は思う。しかしそれが香夜子らしさだから、それでもいい。入学早々に寛太が言った言葉はいつまでもすとんと心に置かれている。
楽しいを愉しむ亜樹也と和夫はどこか似ている。きっと自分よりも和夫は香夜子のことをよくわかっているに違いないと亜樹也は思う。あの人は常に面白くて飽きない人だなと自分のことは棚に上げていつも感服する。そして憧れる。
飽きないといえならば、周りはみんなそうだ。けれども一番人を飽きさせないのは亜樹也かもしれない。彼の発想による言動のユニークさはなずなをも勝る。そのなずなすらそう思っている。しかしあくまで変わり者はなずな。亜樹也はそれとは違う括りにあった。
一年生の教室にのほほんと入ってきた和夫は香夜子を見つけて声をかけた。
「香夜ちゃん発見!」
弾んだ声で机の横に立った和夫を香夜子が見上げた。
亜樹也がくすくすと笑い出した。
「亜樹也さー、おれを見るなり笑うの本当にやめろ」
出会いが出会いだけに、顔を合わせば亜樹也に笑われるのはいつになってもばつが悪い。しかしそこにはこそばゆさもある。
「あのさ香夜ちゃん。放課後空いてる?」
和夫が香夜子にそう尋ねたら、亜樹也がのほほんとした目で和夫の様子を伺った。面白そうな香りがする。
「デートのお誘い」
茶化す亜樹也に和夫は「違う!」とむきになって言った。
「今日活動日じゃないけれど、お手伝いしてほしいことがあって」
和夫とふたりきりで帰路に着くことは日常茶飯事だ。亜樹也の言ったデートという言葉にどぎまぎとしながら、香夜子は和夫の頼み事を承諾した。
「じゃあ、放課後よろしくね」
と言った和夫も亜樹也のせいでなんだかぎこちない。
約束を成立させた和夫と香夜子の様子が可笑しくて、爆笑したい亜樹也はその場から逃げることにした。
「……あいつ絶対逃げた」
ベランダへ消えていく亜樹也を目で追いながら、自覚がある和夫が言った。どうせ爆笑したくて逃げ出したに違いない。
ベランダにやって来た亜樹也を見るなり、その場にいた数人のクラスメイトは呆れた。ひとりで腹を抱えて笑っている。亜樹也は笑い上戸だけれど、笑いのつぼが判り辛い。今の爆笑もそれに違いないとみんな思った。
香夜子の様子が少しおかしいような気がした和夫は聞いてみた。
「香夜ちゃん、何か困ったことがあった?」
聞かれた香夜子は大いに困っている最中だ。このタイミングで和夫が現れたことは少し心を軽くしたけれども、やらなければ済ませない。
香夜子は試しに和夫にあることを聞いてみようと思ったが、予鈴がなってしまった。
和夫の制服の裾を摘みかけて、慌てて手を引っ込めた。そうして浮いたぎゅっと手を握り締めた。
お守り。和夫がくれたお守りを感じていれば、きっと上手くいける。そう自分に言い聞かせた。
「キノちゃんさ、名案あるよ」
いきなりそんなことを言われて、香夜子は何に対してだろうかと首を捻った。
「授業で発表したりする時は、クラスの全員をアリ先輩だと思えばいいんだよ!」
大抵は物や食べ物に例えると思いながら、香夜子は呆気にとられた。それからぼんやりと思い巡らせると、思わず笑みを浮かべた。
困ったら和夫の笑顔と優しい手の感触を思い出したらいいのかもしれない。そういえばいつもそうして来ていた。そうしてこの間、和夫はとびきりのお守りを香夜子にくれた。
香夜子はそっと自分のおでこに触れてみた。
もう隣に居るに等しいのに、相変わらず香夜子は和夫の背中を追いかけている。和夫の手はいつだって香夜子の頭に触れるのに、香夜子の手は和夫に触れない、届かない。不安を覚えて踏み出せない一歩に戸惑い、手を伸ばせないでいた。
恋と憧れは焦がれるものだけれど、似ているようで違う。恋慕う好きは、いつか相手の気持ちが重なることを願う。憧れ慕う好きは重なることがゴールではなくて、なりたい自分を追い目指すための目印。今の香夜子の和夫に対するものは前者の好き。和夫に憧れる亜樹也の好きとは違う。
香夜子の胸には憧れに近い感覚も寄り添い過ぎて、こんなに和夫が大切なのに恋する好きを言葉で伝えられない。
大好きな手の感触、大好きな声と話し方、大好きな笑顔、こんなにも大好きな部分があるのに。和夫の気持ちを受け取ることはもうできている。彼に恋をしている自分を受け止めることももうできている。
勇気を持ったら次の一歩がまた待っている。その度に階段を上って掴まなくてはいけないようなそれは、香夜子にとってはなかなか難しいことだった。
「クラスのみんなが全員アリ先輩に見えたら、わたし笑いが止まらなくなりそう」
「笑いながら発表しちゃったら?」
すると香夜子は沁沁とぼやいた。
「笑いが止まらなくて発表どころじゃないと思う」
和夫が聴いたらなんて喜びそうな言葉だろう。そう考えると亜樹也は可笑しくなった。
「本当にアリ先輩て面白い!」
脈略があまりない亜樹也の言葉に、香夜子が苦笑いを浮かべた。
和夫が面白過ぎるから、亜樹也は彼に出くわすと笑わずに居ることが出来ない。和夫は苦情を言ってくるけれど、亜樹也のそれは彼の香夜子に対する無意識と同じだ。自然と笑いが込み上げてしまい飲み込めない。だから亜樹也は笑う。笑うと物事が更に楽しいものへと変わる。




