第五章(3)
息をはあはあさせて教室に駆け込んできたなずなと寛太など珍しい。談笑をしていた香夜子と亜樹也は目を合わせた。
二人が席へ辿り着くと、亜樹也が言った。
「珍しいね」
その言葉は笑いを含んでいる。
自分に向けられたものかなと思った寛太はむっとなずなを睨んだ。
「まさか道端で言い合いしてて遅刻しそうになったとか?」
香夜子がくすくす笑いながらそう言うと、ぴったりな呼吸で「違う!」と返ってきた。
なんとなくばつの悪そうな寛太、それを呆れた目で見るなずな、亜樹也は苦笑いを浮かべている。香夜子は三人のさまに首を傾げた。
「そういえば、なっちゃんと寛太くんて、いつも同じ電車に乗るの?」
香夜子はいつも早く家を出て、気ままに散歩をするように登校をする。亜樹也は自転車通学で家が近い。早起きが得意な彼は朝をのんびりと過ごして悠々とした気分で決まった時間に家を出る。
「うちのとこ、電車の数少ないんだよ」
そう言った寛太はため息を吐いて、のんびりと歩き過ぎたと加えた。
言葉を交わす寛太と香夜子を見ながら、なずなは日常って好いなと思った。いつも通りの香夜子と、いつも通りだけれども少しだけいつもと違う寛太。なずなは楽しい気分になった。
日々は繰り返しじゃなくて、いろんな方向へ進んでいく。そんな毎日を過ごせることの幸せをこっそりと噛み締めた。
と、亜樹也が急に笑いはじめた。
きっと自分のことを笑っているとなずなは思った。亜樹也にはなんでもお見通しだなと思うと、それも嬉しい。
「……亜樹ちゃん?」
「俺たち、普通の話しかしてないよね?」
香夜子と寛太は笑われるような話をしていた覚えなどなく、笑われる理由がわからない。そもそも、亜樹也の笑いのつぼは誰にもわからない。
やっぱりわたしだと確信したなずながびしっと言った。
「亜樹ちゃん、呪ってやる! 半年後にハゲる呪い!」
飽きないな、というよりも。このネタをどれだけ気に入っているのだろうと、三人は顔を見合わせて苦笑した。
みんなの反応に、決まったように「ひどい!」となずなが文句を言うと、寛太が言った。
「あ。亜樹ちゃんの方が俺より早くハゲちゃうね」
今度は香夜子が笑い上戸にはまってしまった。
予鈴が鳴り、寛太となずなは前を向いて座り直した。そうしてなずなが肘でちょんと寛太を突いたから、寛太はなんだか照れてしまった。
好きな子にはいつも笑っていてほしい、そんな姿を見ていたいなと思った拍子だった。
「いつもよりも楽しそうな寛太くんはなにがあったのかな?」
体育の授業前、ジャージに着替えて校庭に向かいながら、亜樹也が鼻歌でも歌うように言った。今日の亜樹也は寛太とは違う意味でいつもよりもにこにこと楽しそうに過ごしている。
「亜樹ちゃん! 亜樹ちゃん、俺で遊んでるでしょ、絶対」
寛太が文句を言うと「心外だなあ、ひどいよ」と亜樹也が嘆いてみせた。
「あのさ」
と寛太は言った。言ったものの、相手が亜樹也なのに照れくさくなってきてしまった。吹っ切った、吹っ切れただけなのに。
寛太はどんな風に今の気持ちを例えたらいいのか少し考えてみた。亜樹也はそんな寛太の答えをのんびりと待つことにした。
「で?」
少しして待ちくたびれた亜樹也が追求すると、寛太が口を開いた。嬉しそうに。
「なんていうのかなあ、視点を変えてみたらさ」
「うん」
「明るくなった」
寛太がそう言うと、亜樹也が眼を輝かせて自分のことのように嬉しそうに相好を弾けさせた。
みなまで言わなくてもわかってくれる友達がいるって最高だなと寛太は思った。亜樹也は寛太の表現がとても素敵だなと思った。
今日の体育は体育館で行われる。この学校は校舎が体育館と繋がっている場所がどこにもない。靴箱で外履きの運動靴に履き替えて、体育館の入り口で中履きの運動靴に履き替えるという手間がある。
適当に手にぶら下げていたシューズケースを少し揺らしてから、亜樹也はぽんとシューズケースで寛太の背中を叩いた。
「で、いつ告白するの?」
次いで出てきた亜樹也の言葉に寛太はぎょっとした。
「は? え?」
「……寛太、蝿に告白するつもりなの?」
びっくりして変な返答をした寛太が面白くて、亜樹也が亜樹也らしい冗談を言ったから、寛太はがっくりと肩を下ろした。
「亜樹ちゃんまでそれかよ……」
まるでなずなと同じことを言う。なずなは二回も念を押したから、これを言われるのは本日三回目だ。
「……どうなのかな」
ぼそりと寛太が言った。
亜樹也は聴こえていたけれども暫くなにも言わなかった。
寛太は授業中、少しだけ上の空だった。ぼんやりと、なずなと亜樹也の言葉が頭の隅に置かれたまんま。怪我をしては嫌だから余計なことは考えないようにしていたけれど、隅っこで宙ぶらりんとしていた。
体育館からの帰り、亜樹也が言った。
「ねえ、寛太。さっき見え方変わったって言ってたじゃない。本当はもっと更に明るいのかもよ?」
放課後、頰杖を突いて逡巡していた寛太はがばっと席を立ち上がった。香夜子の席はもう空席で、寛太は亜樹也となずなを順に見てから「行ってくる!」と教室を出て行った。
「手に何か握ってなかった?」
なずながそう指摘すると、亜樹也はくすくす笑った。
「ラブレター、ではないと思うんだよね」
「寛太がラブレターなんて気持ち悪い! らしくない!」
じゃあなんだろうねと、亜樹也となずなは首を傾げた。
「亜樹ちゃんが背中押してくれたって聞いた。でも、なんか変なこと言われたって言って教えてくれないの!」
教えなさいとばかりに、なずなは押し強い勢いで亜樹也に言った。
昨日の放課後の男子トークの中身まではなずなに伝わっていない。馬鹿にされそうだと寛太は思って言わなかった。
亜樹也の返事は楽しそうに一言。
「男子の秘密」
むうっとなずなが膨れた。そんな言われ方をされたら余計に気になる。けれどもその秘密を無理やり聞き出そうとは思わない。代わりになずなは「ずるい!」と文句を一つだけ吐いた。亜樹也のことだから変なわかりづらいことを言ったのではないかと思うなずなの予想は正解である。
「……きっと上手くいく。寛太とキノちゃんだもの」
静かな声でなずなが呟くように言ったら、亜樹也が目を細めた。
香夜子の行き先は級長会の委員会室。活動がある日、香夜子はいつも嬉しそうに教室を出て行く。
寛太はその様子を思い浮かべながら小走りに香夜子へ追いつこうと委員会室への道のりを急ぐ。
香夜子の背中を発見した時、香夜子は階段の方へと曲がって行った。寛太は追いつけるはずと走り出した。
考えた、考えた。どうしてなずなと亜樹也が言うようにするべきなのか。香夜子に対する好きの気持ちは自分にどうしろと言っているのか。1日かけて解いてみた。香夜子にはいつも笑っていてほしいから、その為に必要かもしれないことを見つけてみた。ふられるなんていつものことだしと、開き直った。
追いつける、もう少しで。自分の気持ちに行動が追いつく。これが遠回りだったのかどうかわからない。
寛太は膝に手を当てて息を切らせながら、自分が居る踊り場より一つ上の踊り場に居る香夜子に大きな声で声を掛けた。
「キノちゃん!」
振り返った香夜子が驚きながら階段を遡ってきた。
「ま、待って。そこで待ってて」
いつもの距離感に入るのは照れくさいし、必要な勇気が何倍にも増しそうだった。




