第四章(4)
二人だけで内緒話がしたくて、なずなはみんなとは別々に香夜子と二人で移動教室に向かっていた。
いろんな話をしながら渡り廊下に差し掛かった頃、なずなが突然言った。
「ねえ、キノちゃん。なんだかキノちゃんは今、新しい勇気が必要そうだね」
きっと和夫のことを言われている。なんだかなずなには何でも気付かれてしまうなと思うと、香夜子は擽ったくなった。
「なっちゃんて不思議」
思ったままに口から溢れた香夜子の不思議はなずなにとってはあまり不思議ではない。
「そうかな?」
自分では自分を不思議になんて思わないけれど、香夜子のその言い方が弾んでいたから、なずなは彼女の言う不思議な自分が愉快になった。
「そうなんだ!」
嬉しくなって言い直して、なずなはもっと嬉しくなった。
「うん。不思議。いつも嬉しくなって楽しくなるの」
香夜子がそう言うと、なずなは「キノちゃん大好きー!」と香夜子に抱きついた。二人してよろけて笑い合う。
「あのね、亜樹ちゃんじゃないけど、キノちゃんてわかりやすいんだよ」
「わたしってそんなにわかりやすい?」
みんなの口癖のようになっている「わかりやすい」にくすくす笑いながら香夜子はなずなに尋ねた。
「わかりやすい!」
楽しそうに断言したなずなに香夜子は思わず肩を竦めた。なんだか照れくさい。亜樹也が年中言う「キノちゃんはわかりやすい」は不思議で仕方なかったけれど、最近はそんな風に言われるのが心地好い。
先日の小波や美紅の言葉を思い出して、香夜子は照れくさくなった。単純にみんなのおかげでこんな自分で居ることが出来て、素敵なみんなと居たら素直な言葉しかいつも出てこない、それだけ。だからみんなの方が自分よりももっともっと素敵な言葉を持っていると思う。
「で、キノちゃんはわかりやすいから自分ではわかり辛いのだと思うの」
香夜子は首を傾げた。なずなの言った言葉の意味に逡巡して、それからなんとなく理解出来た気もした。
「わからないとどういう勇気が必要なのか見つけられないと思うの」
これはあくまで自分の考え方、なずなは香夜子に押し付けるつもりはないから「思うの」と言った。
「あのね」
そう切りだして「怖いの」と香夜子は呟いた。
香夜子が恐がりなのは、もちろんなずなはよく知っている。しかし、どうして何が怖いのかを直接聞くのは初めてかもしれない。
「悪い想像、いっぱいしちゃうの。そうしたら、なんだかいろんなことがわからなくなっちゃうの。選べなくなっちゃうの」
そうして「だから怖いの」ともう一回香夜子は言った。
「選んだ後もまだ怖い?」
なずながそう尋ねると、香夜子は首を振った。
「最近は、怖いけど、でも少し楽しくなってきたかな」
そう言った香夜子の目がきらきらと輝いたから、「よかった!」となずなが笑った。
そのあと、なずなは「あ!」と声を上げると、いきなり香夜子を置き去りにした。
廊下の背後から「香夜ちゃん!」という声が聞こえた。耳慣れた和夫の声だ。和夫のこの声も、香夜子は好きだ。「香夜ちゃん」と呼ぶのは和夫だけ、それがまたくすぐったいように心地好い。
先程のなずなとの話の直後にそばに来た和夫に対して、香夜子はどきまぎしてしまった。
勇気ってどうやって出すんだっけ。高校生になってからいっぱい勇気を出してきたのになんだかわからなくなった。
様子がおかしい香夜子の顔を、屈んだ和夫が首を傾げながら覗き込んだ。
「あ、えっと先輩……あの、えっと」
勇気の出し方以前に、和夫と対面する方法がわからなくなってしまった。
校内でこんな風に和夫と行き合うのも初めてのことだ。勇気と偶然が混乱してしまった。
「大丈夫?」
そう問いかけた和夫は無意識に頭を撫でるのではなく、無意識に香夜子の頰へ手を当てしまった。
今の香夜子の様子は、自分が困らせているのとは少し違うように感じた。
いつだって温かくて優しい和夫の瞳が好きだ。それなのに香夜子はどうしていいかわからずに顔を少し伏せてしまった。和夫の足元、上履きをじいっと見つめた。
和夫には、香夜子がなにか思い詰めているように思えた。
背中を押してあげたくなった。
そうして和夫は無意識を手放してみた。
意識的に勇気を出すってこんなに怖いことなのかと、切々と実感した。それでも勇気を出してみる必要はある。香夜子のように。頑張る香夜子をもっともっと守ってあげたい。姿勢を戻すと、香夜子にこっち向いてと言った。
どうしてか香夜子は自然と顔を上げられた。そうしたら和夫が照れくさそうに頰を掻いたから、香夜子は首を傾げた。
和夫はへたれなりになけなしの勇気を使う為に一つ息を吸って吐いた。
「なにがあったのかわからないけど、勇気あげる」
そう言うと、和夫は香夜子の前髪を少し掻き上げた。
と、香夜子には想像もつかないことが起きた。
おでこにキスを施された。
驚きですとんと力が抜けてしまった香夜子は和夫の胸元に倒れ込んでしまった。涙がこぼれた。初めてもらった和夫の優しさの新たな一部分に胸が締め付けられる。
「ごめん、また困らせた」
和夫の声は真剣だった。
香夜子は言葉で言い表せなくて、和夫の制服を握り締めながら、必至に首を振った。
困ってしまったのは事実。けれども嬉しさはその何倍にも増している。それなのに、未だに自分から勇気を出すことが出来ないなんて。
「おれのわがまま、いつも笑って受け入れてくれるから、もっと守ってあげたい。自己満足なのはわかってる」
声がうわずってないか和夫は心配だった。こんな勇気の出し方なんて初めての体験だ。
と、か細い声で香夜子が言った。
「……先輩みたいに優しくなりたい」
胸元にある香夜子を和夫は抱きしめてあげたかったけれど、これ以上の勇気はなかった。なけなしの勇気を先程使ってしまったばかりだ。
「香夜ちゃんだって、いつも優しいよ。だから、今のはお守りとお礼、かな」
予鈴がら鳴り、去っていく前にいつものように和夫が香夜子の頭を撫でた、ほんの少しだけの間。
香夜子は和夫の後ろ姿を見送ると蹲った。
勇気、和夫がくれたたくさんの勇気、優しさをいつになったら返せるだろうか。和夫が好きなことはもう明白に自分でわかっている。そうしたら必要なのは行動だ。
自己嫌悪に苛まれた。
なずなからも和夫からも勇気をもらったばかりなのに。
ぽろりとまた涙が溢れてしまい、授業にはしっかり遅刻してしまった。