第四章(3)
「香夜ちゃんていつも来るの早いよね」
委員会室の鍵は和夫が保管しているため、いつだって誰よりも早く遣って来る。活動日はいつだって楽しくて仕方ない和夫はいつだってご機嫌に委員会室へ向かう。
昼休みに初めて口にした和夫に対する好きを思い出して、擽ったい気持ちになりながら香夜子は答えた。
「アリ先輩がいつも早いから」
和夫がとても嬉しそうに破顔した。
「だっておれが鍵開けないと香夜ちゃんが入れないもん」
戯け半分、嬉しさ半分、誇らしそうに和夫は言った。
「楽しみなんです」
香夜子のその一言に和夫はどきりとした。
香夜子が今日も早く来るかなと期待して、心を躍らせながら鍵を開ける。そうして本当に香夜子はいつも一番最初にやってくる。
「おれもおんなじ」
柔らかく目を細めた和夫がそう言うと香夜子ははつらつな笑顔とは違う穏やか微笑みを浮かべた。柔らかな感覚が胸に広がる。
この顔、ずっと見ていたいなと思ったら香夜子はしくりとした感覚を覚えた。和夫の笑顔も声も、手もいつも背中を押してくれて、そして包み込んでくれる、それなのに、自分から飛び込むことが出来ない歯痒さを覚えてしまった。
しかし和夫の次の言葉で憂いそうな気分はぱっと飛んでいった。
「香夜ちゃんに会えるのも、みんなと一緒に仕事するのも、全部おれの楽しみ!」
あんまりにもきらきらした目で言ってしまったことに和夫は気付いて照れくさくなった。
和夫はいつもこんな風に笑顔を輝かせているのに、どうして急にそんなに照れるのだろうと思ったら、香夜子は言ってみたい言葉を見つけた。
「知ってます」
そうしていつもの笑顔を咲かせた香夜子を見つめたら、今の自分の心境にやたらと納得した和夫は愉快になった。香夜子のいろんな自然体に触れることが楽しくて仕方ない。不安もいっぱいあるのに、きっと不安まで楽しんでいるのだ。
拒絶をしない香夜子に自分の気持ちや言動を押し付けてしまってないかと不安になる時がある。それでも香夜子はいろんな風に笑うから楽しくいられるのかもしれない。
香夜子が勇気を出すことに怖気付かないように守ってあげたい。
そう思ったらまた無意識に和夫はこんなことを言った。
「今日も香夜ちゃんが元気でよかった」
いつも通りというのは、とても大切でしあわせなことだと和夫は思う。だからそんな風に言ってみたら、香夜子が不思議そうな顔をした。
和夫の隣に腰をかけていた香夜子の頭に和夫の手が伸びる。和夫のこれに対して、今の香夜子は最初の頃とは違う風に動じる。
和夫のこの自分よりもだいぶん大きな手が好きだ。いつも温かくて、心地好くて、時々とろけてしまいそうになる。
暫くしても、その日はまだ誰も遣って来ない。
困ったなあと香夜子は思った。頰が熱くなりそうだった。嬉しいのに困ったことになった。
和夫は無意識に香夜子の頭を撫でているから、大抵は三番目に遣って来る日向に呆れられて気付いて手を引っ込める。
無意識に香夜子の頭を撫でたまま、少し様子がおかしい香夜子の顔を和夫が覗き込んだ。
「香夜ちゃん?」
香夜子はだいぶん火照った顔で苦笑いを浮かべたものの、どう答えたらいいのかかわからない。それは心地好いわからないだった。
流石に鈍い和夫も気付けた。でも、今は言葉もなにも要らなかった。香夜子のその反応だけで満足だった。
無意識に香夜子に近づくくせに、意識的に一歩を踏み出せないのは香夜子も和夫も同じのようだ。
委員会室のドアに楽しそうな顔をして凭れている日向に、美紅が不思議そうに小声をかけた。
「まだ来てない? 珍しー」
すると日向は自分の口元に人差し指を当てた。
小さな声で何事かと美紅が尋ねると、日向が言った。
「キノちゃんにバレる」
「アリ先輩は気付かないねー」
日向の一言に思い当たるのは無意識の和夫で、美紅は日向の悪戯にすぐ気付いた。
「あんた、いつから居るの」
にやりと悪戯な笑みを浮かべながら美紅が聞いた。
「数分前かなあ」
「なーんだ、まだ大して経ってないねー」
美紅の目が、もっと粘ろうよときらきらしている。もちろん日向はそのつもりだった。絶対に誰か来るまで和夫が香夜子を撫で続けている自信がある。
「アリ先輩の無意識って珍しくて面白くない?」
日向がそう言うと、「わかる!」と美紅が愉快そうに言った。
みんな知っている。和夫は楽しいの為に、いつだって考えて行動する。楽しむ為の方法をたくさん知っていて、意識的にそんな風に過ごす。楽しい感覚を手に取って周りにもお裾分けを忘れない為に。
「何してるの?」
小さな声でわいわいと何かを相談している風な日向と美紅に小波が小声をかけた。
「小波ちゃん、賭けしましょう!」
美紅は小波のことを「小波ちゃん」と呼ぶ。楽しそうに小波に賭けを持ち掛けると、察した小波が日向に聞いた。
「どのくらい居るの?」
「十分くらい経過?」
流石にそれは香夜子が可哀想だと小波は憐れに思ったけれど、しっかり賭けには乗る。
「絶対、和夫まだやってるよ。何賭ける?」
「小波ちゃん、何かありません? キノちゃんが困ってるのは確定だしー」
結局、幾らか遣り取りしたけれども賭ける対象を誰も思い付けない。
「もう、いいや。開けちゃいましょう」
言い出しっぺの日向がさっさとドアに手を掛けてがらりと開けた時、嬉しすぎて困り果てた香夜子は入り口に助けを求めていた。
ドアの音にびくりとして香夜子の頭から手を離した和夫に、日向が生暖かい目を向けて、美紅が爆笑して、小波は呆れたため息を吐いて言った。
香夜子は困っていたのに、ずっとこれが続いて欲しかったなどと思ってしまった。それくらいに和夫の手が好きだ。
「間抜け」
香夜子の苦笑いに、和夫は宙に浮かせていた手で顔を覆って項垂れた。
「おまえら、どれくらい外に居たの……」
ばつの悪い声で和夫は一応聞いてみる。
「十分ちょっと?」
日向がにこにことそう言うと和夫が今度は両手で頭を抱えて悶えた。
香夜子を前にすると、どうしてかやたらと無意識が生まれる。無意識に笑って無意識に見つめて無意識に頭を撫でて、そして無意識に好きだと言っていた自分は新鮮過ぎてとても驚いた。
頻りに香夜子へ謝る和夫を見ながら三人共が思った。無意識は損なのだか得なのだかわからないけれど、和夫にはそういう時もきっと必要だ。




