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第三章(7)

「キノちゃん、大変じゃない?」

 委員会室で帰り支度をしながら、小波が香夜子に聞いた。

「入学早々から忙しいでしょ。疲れてないかなあと思って」

 半ば無理やりに和夫が書記に任命した香夜子は、いつも楽しそうに級長会の仕事を行なっているけれど、楽しいからって疲れないわけじゃない。

「大丈夫です。楽しくって」

 そう言って笑った香夜子は疲れたと思ったことが今のところない。みんなが疲れないようにしてくれているのだとわかる。

「なら良いけどさ。キノちゃん、楽しいと疲れないは別物だからね」

 日向が念を押してみたら、香夜子が「ありがとうございます」と嬉しそうにした。

「和夫ってば結構強引だから、無理な時は無理って言って大丈夫」

 と小波は言ってみたけれど、和夫は絶対に無理を押し付けないことは知っている。

「小波、ひどい。おれがいつもみんなに無理なことばっかり押し付けてるみたいじゃん、それ」

「大丈夫ですよ、アリ先輩。結構強引と無理強いは全然違いますー」

 美紅がそう言うと、和夫は渋い顔をした。

 真剣に賑やかに級長会の仕事をしていく、その賑やかさが疲れないを作り出してくれる。和夫の気遣いのおかげだとみんな知っている。

「あの、わたし。アリ先輩にも、皆さんにも感謝してるんです」

 香夜子が照れくさそうに言うと、みんながきょとんとした。

 最初に和夫が笑い出して、「ありがとう」と嬉しそうに香夜子の頭をぽんぽんと撫でた。すると、なんとも嬉しそうな表情で香夜子は和夫のみを見つめた。

 微笑ましいなあと思いながら、しみじみと美紅が言った。

「キノちゃんはさ、とっても素直だよねー」

 香夜子の一言が生み出した、擽ったいけれど心地好い空気が委員会室に溢れる。

「キノちゃんはね、時々人と話すの苦手そうにしているけど、そんな風に思っていることを伝えられるって素敵なことだよ。知ってた? みんなが嬉しくなる言葉をいっぱい持ってるって」

 小波が香夜子にそう言うと、うんうんと頷いた美紅が和夫を押しのけてきゃっきゃと香夜子を捕まえ抱きしめた。そうして耳元でこそっと囁いた。

「誰かさんにももっと素直な気持ち教えてあげてもいいと思うなー」

 美紅と香夜子の戯れ合う姿を見ていた日向は呆れた。香夜子の顔が少し紅い。美紅が余計なことを言ったに違いないけれど、背中を少し押してあげるだけで香夜子の心はとんと軽くなって身軽になれることは周知である。

 小波がくすくす笑い、とことん鈍い和夫は首を傾げた。



 駅へ向かう帰り道、和夫には香夜子の様子が随分とおかしく見えた。

 俯き加減に、言葉もいつもより少ない。上の空というわけではなさそうではある。

 思い当たるのは一つ。委員会室を出る前の美紅に違いない。一体なにを香夜子に吹き込んでくれたものかと和夫は香夜子に見つからないように少しだけ顔を顰めた。

「あー、香夜ちゃんさ。美紅になにか変なこと言われたの?」

 こういう時は直球に限る。どうしたって行き着くところがそこしかないのだ。

 香夜子は俯いていた顔を更に俯かせて足を止めた。地面とご対面している。

 そうして、和夫の制服の裾をきゅっと握った。

 和夫が無意識に香夜子を撫でるように、香夜子も香夜子で無意識に和夫の制服を握ることが多々ある。その度に和夫が思うのは、置いていかないでと言われているようだというもの。置いていくつもりなどない。大好きな香夜子の足並みにいつだって合わせる和夫が香夜子を置き去りにすることなど絶対にない。

「先輩……」

 蚊の鳴くような声で香夜子が言った。

 どうしたら和夫のようにあっけらかんとした勇気を持って過ごせるのだろう。どうして、和夫は自分なんかを好きだと言ってくれたのだろう。どうしていつも、あんなに温かい手で頭を撫でてくれるのだろう。

 美紅の言った素直という言葉が、どうしてか香夜子を今、混乱させていた。

 香夜子は今にも泣いてしまいそうだった。目元に涙が溜まったいくのがわかった。

 泣いてしまうのも、素直な感覚なのだろうか。素直に在るなら、言葉が欲しいと香夜子は思っていた。言葉で何かを伝える勇気が欲しい。

「香夜ちゃん。別にうまく話せなくてもいいよ。なにかあったならおれに教えて? いつでも助けてあげるから」

 そうして和夫は勇気を出して香夜子の手を握った。その温かみに香夜子は戸惑わなかった。和夫の自然体を毎日のように目の当たりにしている。だからそれは驚きよりも安堵をもたらした。だから少し勇気が出て、和夫の顔を見上げた。

 見上げたら合わさった目を香夜子は潤んだ目のままでじいっと見つめてから、自分がなにを言いたいのかを考えた。和夫の優しい目を見つめていたら、言葉が見つかりそうな気がした。

「……もっと素直な自分でいるのに、必要な勇気がわからないんです」

 香夜子がそう言うと、和夫から返ってきた答えは香夜子の虚を突くものだった。

「別にいいんじゃない?」

 その返答に香夜子は困ってしまった。困ってしまったけれど、目元に溜まりかけていた涙は引っ込んでくれたから不思議だ。



「無理しても損しかしないんだよ。そんな勇気は要らないと思うんだ」

 確かに高校に入ってからの香夜子は殆ど無理をしていない。それは周りのおかげだった。

「おれ、無理しているように見える時ある?」

 和夫がそう尋ねると、香夜子は首を振った。

「先輩はいつも楽しそう」

「そ。楽しいの。楽しいから素直にいるのも勇気出すのも楽しいんだ。変かな?」

 くすくすと香夜子が小さく笑った。

「大好きなみんながね、背中押してくれるんだよ、いつも。だから楽しくて、敢えて言うなら勇気出すとか、あんまり考えていないかも?」

 そのあと、和夫は言った。

「香夜ちゃんのこと以外は、ね」

 香夜子の頰がみるみる間に紅く染まっていった。こんなことを言われたらなんて返せばいいのか、完全にわからない。

 少し無言が続いた。またやってしまったと、途端にばつが悪くなった和夫は空いている方の手を首に回した。しかし言ってしまったものは覆せない。

 和夫だって勇気が必要になる時がある。今、香夜子に言ったように。だからもう少しだけ勇気を出してみることにした。繋いだ手は離れることがないまま。

「おれ、香夜ちゃんが大切だから、出来ることならなんでもしてあげたくなる。そうしたらさ、なんか無意識に色々しちゃうんだよね。困らせちゃってるかな?」

 返事をした香夜子の声は小さかった。

「困ってなんて、いないです」

「ならいいんだけど……」

 じゃあどうして今浮かない顔をしているのと尋ねる勇気は和夫にはなかった。

 と、香夜子が言った。

「困ってしまうのは、自分に対してなんです」

 和夫は少し首を傾げた。香夜子らしい言い方だけれども、なにが言いたいのかいまいち的を得られなかった。

「大切だって言いたい人に大切だって言えないでいる自分が嫌……」

 和夫は今までのことを思い返しながら、その大切な人が自分だったらいいなと思いながら言った。

「そういうのはさ、言いたいなって思った時に、きっと自然に言えるんじゃないかな」

 まるで自分がそうあるように。

 漸く少しだけ香夜子の顔に笑顔が戻った。

 みんな大切、それから、香夜子にとって今一番大切な人はきっと和夫だ。そう思えたら、和夫の言葉がすとんと胸に落ち着いた。

 きっとそのうち言える。そんな気がしてきた。

「ねえ、香夜ちゃん。このまんま手繋いで帰っちゃおっか?」

「え?」

「いや?」

 それから一拍置いて、香夜子は言った。

「先輩となら嫌なんかじゃないです」

 くすぐったい、照れくさい、でも心が躍る。和夫はいつもこんな気持ちをたくさんくれる。なのにどうして気持ちを具体的な言葉にできないでいるのだろう。

 嬉しいなと思ったら、きちんと素直な気持ちを伝えられる日が早く来ますようにと香夜子は願った。もちろん、願うだけじゃ叶わないとわかっていても。

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