第二章(5)
和夫とふたりで歩きながら、香夜子はふわふわとした気分でいた。そうしていつも感じる感覚とは違う類の緊張もしていた。この緊張が何かわからないけれど、居心地が悪いわけではない。
和夫は不思議な人だと香夜子は思う。
和夫だけじゃない。亜樹也もなずなも寛太も、みんな不思議で素敵な魅力をたくさん持っている。
そんなみんなとこれこれから一緒に過ごしていけることは嬉しくて、羨ましいけれどもそんな風には成れないと知っているから笑顔になれる。そのまんまの自分を受け入れる楽しみが生まれはじめていた。
和夫が面白い話をいっぱいしてくれる。とても楽しそうに話してくれるから、香夜子の笑顔が絶えない。
ところが交差点の長い信号待ちで、急に和夫が言葉を途切らせた。
どうしたのだろうと和夫を仰ぎ見た香夜子は首を傾げた。和夫がなんだか不思議そうな顔で自分を見ている。
「アリ先輩?」
和夫は自分を呼ぶその声の耳心地に心を浮き立たせた。
本人の心情の複雑さは他所に、香夜子の話し方、そして表情の、情感の豊かさは他人へわかりやすさを与える。
そんな香夜子が好きだなと思うと、和夫の相好は穏やかに崩れていった。
「俺ね、香夜ちゃんが好きみたい」
自然と香夜子は和夫の顔を見上げていた。ふわっと和夫の手が香夜子の髪に触れた。それはいつも撫でられるそれとは少し違ってどきどきとした。
何を言ったらいいのかわからなかった。こういう時に返す言葉を香夜子は持っていない。直ぐに俯いて紅くなった顔を隠した。
「ごめん、困っちゃうよねー」
和夫は照れ隠しに首に手をかけたものの、自然と口から零れた好きという言葉に、不思議と後悔はなかった。
「先輩」
とは言ったものの、香夜子は勇気が必要になった。
転機はいつ訪れるわからないことを知っている。受け入れられないのではなくて、自分の気持ちを受け入れるのにも準備が必要だった。
真剣に考え込んでいる香夜子の様子に、どうしてか和夫はどんな返事が来るのかわかってしまった。
「……初めては、やっぱり緊張するんです」
和夫はきっと言わなくてもわかってくれる。好きという言葉をくれた和夫へ、きちんと今の気持ちを言葉にして返事をしたくなった香夜子の勇気は、そんな言葉だった。勇気を出して自分の弱さを届けることしか出来ないからそうしてみた。
こんな風に誰かに好きだと言われるのは初めてだ。
さりげなく好きだと言った和夫はやっぱり不思議で魅力的な人だと思うと、今はまだ気後れも感じてしまう。
不安ばかりを覚えることが得意な香夜子は今より先へ進むには時間が必要。
「知ってるよ」
香夜子ははっとして顔を上げた。
なんとも嬉しそうな表情を浮かべていたから、それだけで和夫の胸の内には充実感が満ちた。言いたいなと思ったら言ってしまったけれど、和夫も今は今のままで好かった。
「おれも今初めて香夜ちゃんに好きだって言ったから。知ってる」
すとんと香夜子の胸にその言葉が優しく落ち着いた。
和夫は自分でも不思議なくらい柔らかな心持ちで話していた。そんな自分が嬉しくて、またふわりと香夜子の頭を優しくひと撫でしたのはやはり無意識。
「自信がなくてもいいんだってさっき香夜ちゃんが言ったから、つい言っちゃった」
やっぱりその言い方もさりげなくて、火照った頰が少し心地好いと思ったら、香夜子は無意識にくすりと笑った。
釣られて自分も笑ったくせに和夫は言った。
「忘れていいよ。嬉しいことがあって、つい言っちゃっただけ」
そうして和夫は青になった信号に目を遣り、行こうと促した。
気付いたばかりの気持ちを口にしたら目映くて、一緒に居られる時間が嬉しいからだとまで言えなかった。
今言える自分の精一杯はちゃんと伝わっていますようにと願いながら、香夜子は和夫の横顔を垣間見た。
まだこのままでしか居られなくて、このままでも居たい。
背中を押してくれる和夫の隣は心地好過ぎる。
やがて終わりも来るかもしれないと後ろ向きな想像も過ぎる。香夜子は終わりがあるかもしれないことも終わりはないかもしれないことも本当は知らない。
臆病で怖がりだからこそ、いつか自分から和夫に伝えたい。具体的な言葉をそのうち見つけたら。こんな自分に慣れることが出来たのは先輩のおかげだという感謝と一緒に。
その先のことは、違う新しい勇気がきっと必要だ。それはその時その時に考えればいいのかもしれない。